君の声を忘れない




蜜柑の木がびっしりと植わった山ばかり見える故郷から、この東京に
出てきて、(何年経つんやったかな)と、毎年、翌年のカレンダーが売り出される頃になると、ふと、哲也は考える。

大学を出て、中流のスポーツメーカーに就職してから、ずっと同じワンルームの
マンションに一人暮らしで、週末の今日は定時に仕事も終わり、給料日前で特に
予定もなく、そのまま誰も待つ人のいない散らかりっぱなしの部屋に帰って来た。

(お、宅急便か。ありがたい)薄暗いオレンジ色の明かりの灯る郵便ボックスから
いくつかダイレクトメールと、故郷の親から届いた宅急便の不在届けを見て、
哲也はニンマリと笑った。

(これでなんとか今月は食いつなげるな。)
蜜柑と、何か食べ物の缶詰と、米、それから日持ちのする野菜、
それから母親が書いた他愛ない内容の手紙がその宅急便の荷物の中には
入っているはずだ。

今月、故郷から幼馴染が突然訪ねてきて、思いがけなく出費がかさんだ。
いつもなら、多少貯金出来るくらいは残るのに、給料日まであと数日、どうやって
食いつなごうかと本気で考えねばならないくらいに切羽詰っていたから、
その荷物は有りがたかった。

届いた荷物にはやはり、思っていたとおりのモノが入っていた。

礼の電話をする前に、哲也は母親からの手紙を読む。

哲也、今月も米とか色々送ります。
この前、前田君がそっちに行ったそうですね。

(そうそう、それで今月ピンチなんやって)
母親の手紙を広げ、昨日は洗っていない短い髪をポリポリ片手で掻きながら、
心の中で哲也は相槌を打つ。

どうしても、お前には知らせてくれるな、と言う事だったので、知らせませんでしたが。

その続きを読んで、髪を掻いていた哲也の手が止った。
(嘘やろ)

それから先の文字を、哲也は何度も何度も読み返してみる。
頭の中にはまだ、ほんの少し前、本当にまだ、彼が忘れて帰った靴下が丸まったまま部屋の中に転がっているくらいしか時間が経っていないくらい前の記憶が
鮮明に蘇って、哲也の頭の中は混乱した。

今年の正月に帰省した時、近所の小さな神社へ初詣に出掛けた哲也はそこで、
幼馴染の前田幸生に一年ぶりに会った。

偶然ではなく、お互いが連絡を取り合って、久しぶりに会ったのだからゆっくり会おうと言う事になったのだ。

「久しぶりやなあ、幸生」
「お前、会う度にそう言うなあ。他に違う言葉知らんのか」
「年の最初に会うたら、あけましておめでとう、やろ」

小さな頃から、人よりも体格の良かった哲也と違って、27歳になった今でも、
背丈はさほど変わらなくても、肩幅や腰周りは哲也よりもずっと華奢だ。
地元を離れた哲也と違って、大学時代に教員免許を取った幸生は、
蜜柑の山に埋もれそうなこの小さな町で小学校の教師をしていた。

哲也と歩きながら会話している間も、初詣に来ている教え子だろう、子供達に声を掛けられる度、にっこりと笑い返したり、手を振ったりしている。

「お前、まだ、一人なんか」
哲也に「会う度に同じ言葉を言う」と言う割りに、幸生も哲也と顔を会わせる度に
同じ事を聞く。
「東京の女は何考えてるのかわからん。」
「結婚するんやったらやっぱりこっちの子がええわ、」
「お前の教え子で可愛い子おらんか」哲也がそう言うと、幸生は、小学生の頃から
変わりない素直な笑顔で呆れたように笑う。
「アホか、お前小学生相手にするんかい」

一年に一度、気を使うこともなく言いたい事を言って、お互いの近況や愚痴を言い合う。
そして時折、メールのやりとりをし、幸生は東京に住む哲也に故郷の近況を知らせてくれたり、哲也の仕事の愚痴を聞いてくれたりした。
一人きりで暮らす時間の中で、時折どうしようもなく孤独と疲れを感じる時に、「故郷」の感覚を思い出させてくれ、たくさんの言葉で慰めてくれる、家族と同じくらいに大切な友達だった。

その幸生が突然、なんの前触れもなく哲也の前に現れた。
会社からいつものようにくたびれて帰って来た部屋の前に幸生は突っ立っていたのだ。

「サプライズやろ」と幸生は驚いて目を丸くした哲也を見て、ニ、と笑う。
「お前、学校は!?」
夏休みでもとっくに終わり、その日は週末でもない。
(ええと・・・創立記念日か?いや、違うな)哲也は訳が分からなかったが、
とにかく、リュックだけを背負い、とても27歳の小学校の教師だとは思えない
ラフで若い格好をした幸雄を部屋の中に招き入れた。

「どないしたんや、ホンマに」急な事だったので、当然部屋は散らかっている。
昼間、誰もいない部屋はシンと冷え切っていて、哲也は背広の上から羽織った
コートを脱ぎもせずにまずは、ヒーターをつけながら、幸生に
突然の来訪の訳をそう深刻ぶる事もなく尋ねた。
深刻ぶるどころか、思いがけないプレゼントを貰った時の様に心が弾んでいる。

「休暇とったんや。」
「夏休み言うても、教師なんて、殆ど休まれへんしな」
「地元におっても、どこに行っても教え子と会うから休んだ気にならんし」
「そやから思い切って出て来た」
幸生はパーカーの上から羽織っていたジャンパーを脱いで、哲也のパソコンが置いてあるデスクの椅子の上に引っ掛けた。

母親からの手紙を握り締める力さえなくしてしまったのに、
哲也は、この部屋を訪れた幸生の、そんな細かい事まではっきりと思い出せた。

「俺も有給溜まってるしな・・・2日くらい親戚殺して休んでもええか」
哲也は「田舎の親戚が死んで・・・」と会社を休んで、その日と週末の休みを
合わせて、4日間、幸生と過ごした。

「男同士で行くか、キモいな、俺ら」
「他に一緒に行く奴もおらんし、しゃあないやんけ」
千葉にあるテーマパークに向かう途中、女受けしそうなデザインのモノレールに
二人で、無骨な会話を交わしながら乗った。
口ではそんな事を言いながらも、不思議と幼馴染と一緒だと、心まで子供に戻るのか、
哲也はその日、(オッサン目前の独身男二人で来たッちゅうのに、楽しいな)と思えた。
幸生の瞳がずっと笑っている。それを見て、自分と同じ様に幸生が楽しんでいる、と
思うと更に楽しさは増した。

「お前が玄関の前に立ってた時、びっくりしたわ」
遊び疲れて家に帰ってから、哲也は先にシャワーを浴びて哲也のよれよれの
Tシャツを寝巻き代わりに着た幸生にそう言った。
「なんで」と聞かれ、哲也は帰り際に買ってきたペットボトルのコーヒーを一口飲んでから答える。
「お前のオカンが来たと思ってん。そっくりや」
「アホか」哲也の答えを聞いて、幸生は鼻で笑った。
だが、哲也は自分の記憶を掘り起こすように目を閉じ、
「おまえのオカン、綺麗かったから、俺、よお覚えてるで」と言うと、
「オカンが死んだん、俺らが5歳の時やで。俺でもはっきり覚えてへんのに」
「お姉ちゃんはもう嫁に行ったんやったっけ?オカンに似てはったから、
「お姉ちゃんも美人になったやろうなあ」

哲也は瞼の中に幸生の母親の顔と、姉の顔を思い出して、それから目を開けた。
涼しげで形の良い目の形、滑らかで形の良い鼻筋、男にしてはあっさりした顔立ちだが、
それでも、幸生は哲也が思い出した「綺麗なオカンとお姉ちゃん」によく似て、
端正な顔立ちをしている。地元では「前田先生?ああ、あの男前の先生」と言われているくらいだ。
その端正な顔が俯いた。
蚊の鳴くような、静かな震える声だった。

「・・・姉ちゃんは、去年死んだよ。言わんかったか」
「え・・・姉ちゃんも・・・?」
「ああ、オカンも、姉ちゃんも兄ちゃんも・・・元気なんは、オトンと俺だけや」

そう言った途端、幸生の目から涙がボタリ、ボタリとふたしずく、零れ落ちる。

「訳は・・・一切、聞くな」」
何かに怯えたのか、何が悲しかったのか、その時、哲也は何も分からなかった。

分かったのは、幸生がここへ来た理由だけだ。

大の大人が声を噛み殺しながら、誰かの胸に縋って泣く程辛い事がそうあるとは
思えない。だが、狭い町で教師をしている幸生には、心の中に、
とてもたくさんの、誰にも言えない、誰にも悟られてならない悲しみや、辛さ、寂しさをずっと抱えて来たのかもしれない。
幸生は、ついに持ちきれなくなったその感情を、誰かに受け止めて欲しいと思ったのだろう。
その「誰か」に自分が選ばれた。戸惑いながら、哲也はそう感じて、その幸生の
気持ちに応えたいと思った。
自然と、幸生の細い肩を包む様に抱き寄せ、子供をあやすように胸に頭を凭れさせてやった。

「哲也、・・・俺な」
それだけ言って、幸生は声を噛み殺し、嗚咽さえ漏らさないように、
哲也の胸に顔を埋めて、自分の口を手で塞ぐ。
溢れそうな感情を自分で必死に押し留めている。
幸生のその仕草を見て、哲也はそう思えてならない。

人の気持ちが手に取るように分かる、そんな感覚を、哲也はその時まで、
一度も感じたことはなかった。

だが、ただ、ただ、悲しいと悲鳴を上げる幸生の気持ちは、抱き締めた腕からも、
押し殺した嗚咽を拾う耳からも、涙で濡れた薄いTシャツが張り付いた胸からも
哲也の心の中に流れ込んでくる。

何がそんなに悲しいのか、分からない。
だから、慰める言葉も浮かばず、それどころか、哲也の心の中も、幸生の心と
同調して悲しくて溜まらなくなった。
自分の胸の中で、爆発しそうな感情を抱えて泣く、幸生が愛しいと思うのも、
悲しみが伝染したのと同じ作用なのかもしれない。

声にもならない。囁きにもならない、幸生の悲鳴の様な声が、哲也の心の中で
弾けた。

幸生は、ただ、哲也の名前を何度も呼んでいる。

他の人間の名前など知らない。他の人間など要らない。
他の人間がどれだけ自分を罵っても構わない。
他の人間が一瞬で自分を忘れても、ただ、一人だけ自分が、その名を呼ぶ声を
覚えていてくれるなら、それでいい。

哲也、哲也、哲也

そう哲也の名前を呼ぶ幸生が声なく叫ぶ声は、ジリジリと哲也の心が焦げつきそうに痛むくらいに伝わってくる。

拒絶されるのが怖くて、言い出せなかった気持ちが何も言わなくても伝わってしまう。

それすら気付かない程、幸生は深い悲しみに心を塗りつぶされて、それでも、
哲也を呼んでいる。

「・・・分かったから、泣くなよ」
はっきりと言葉に出した告白よりも、自分達の心は今、同じ事を望み、同じ事を
感じている。哲也はそう思い、幸生を抱き締めたままそう言った。

けれど、幸生は首を振って、やっと顔を上げた。
泣きはらした目をして、哲也を見たその顔は、幼い頃よじ登った柿の木から
降りれなくてベソをかき、哲也を呼んだ、その時と同じ顔をしている。
それが可笑しくて、哲也が思わず、微笑むと、幸生は、無理に笑顔を作った。
「分からんでもええ」
「・・・分からんでもええねん」
そう言って笑った顔は、哲也が今まで恋した来たどの女性よりも素直で
ガラスの様に透明で、綺麗に見え、もう少しで口付けしそうになるほどだった。

翌日、幸生は新幹線で故郷へ帰って行った。

「哲也、ありがとう」と扉が閉まった後、幸生の口はそう動いた。
「正月、会おうな」と、走り出した新幹線を見送った後、哲也は幸生に
そうメールを送る。
「ありがとう、哲也。お前のお陰で楽しかった」
哲也の掌に帰って来たのは、たったそれだけの文字だった。

(・・・なんでや)

哲也は、その手紙の最後に全ては冗談だと、虚言だという言葉はないかと儚い
期待をして、もう一度、床から手紙を拾い上げた。

どうしても、お前には知らせてくれるな、と言う事だったので、知らせませんでしたが。
前田君は、先週、亡くなりました。

お前のところから帰ってきて、すぐに手術だったそうです。
あの子の母親も、お姉さんも、お兄さんも、遺伝子の異常とかで、皆、30歳になるまでに脳腫瘍が出来て亡くなっているそうですが、やっぱり幸生君もその病気が出て、
腫瘍を取る手術をしたそうですが、やはり、病状は進んでいて、手術後、一度も
意識を回復する事無く、そのまま、亡くなったそうです。

お前宛に、幸生君のお父さんからの手紙を預かっています。
幼馴染が亡くなった事を、危篤だった事を知らせなくてごめんね。
気落ちすると思いますが、どうか、幸生君の分も頑張って生きるためにも、
しっかりして下さい。

(・・・幸生んとこのオトンからの手紙・・・?)

哲也は箱を開封し、そのまま放置していた荷物ににじり寄って、中を覗く。
蜜柑の上に、見慣れない字で「哲也君へ」と書かれた封筒が置いてあった。

(読みたない)哲也はその封筒を手に取ってみたものの、封を切るのに迷う。
この手紙を読めば、幸生の死が紛れもない現実だと思い知らされてしまう、
それが怖い。
でも、(読まなあかん)と自分で自分を奮い立たせる。

何も言わずに、涙だけ流して去って行った幸生の本当の気持ちが、
目を逸らせない、逸らしたくない真実が、きっとこの手紙には書かれている。
(読まな・・・俺がなんもわからんままやったら、幸生が可哀想や)

哲也はゆっくりと封を切った。

哲也君、急な事でさぞ驚いた事だと思う。
だが、どうしても、君には言うな、と幸生が強く願ったので、何もかも
全て済んでから、君に知らせる事となった。

本当は、この手紙を君に書く事も、幸生に咎められる事かも知れない。
けれど、父親としてあの子にしてやれる事は、もうこれだけしかなくて、
君には、とても迷惑な話かもしれないと承知しながら、この手紙を書きました。

幸生は、あれの兄が死んで、その原因が遺伝の病気だと知ってから、
「俺は結婚しない。生まれた子供が長く生きれないのは可哀想だ、そんな悲しい事は
俺で終わりにしたい」と言っていました。
だから、女性とは付き合わない、とずっと私は思っていました。

けれど、本当はそうではなく、幸生はどうも、君の事をずっと誰よりも
特別に想っていた様です。
幼い頃から男らしい男に育つ様にと育てたので、決して女々しい気持ちではなかったと
思います。どうか、もう、この世にいない人間の事、厭わしいと思っても、
どうか、幸生を貶めるような事だけは思って下さいません様に。

家族を全てなくして、たった一人残される私にも、最後まで優しく気遣ってくれる
息子でした。想い人が同性の君だなどと、一言も漏らさず、気配すら感じさせませんでした。
きっと、君に会いに行く、と決めた時、自分の最期が近い事を悟っていたのでしょう。
それでも、君に自分の気持ちを言わなかったのは、拒絶され、蔑まれるのが
怖かったからだろうと思います。

息子が秘め続けた気持ちを父親の私が君に伝えるのは、おかしい事だと重々、
承知しております。けれども、君への思いを、子供に文字を教え、文章を書く事を教える事を生業としていた幸生が、一片の紙にも残さず、一人胸に抱えて死んでいったのかと思うと、親として、たまらなかったのです。

今際の際に、自分の枕元に置いていた、君と二人で映った幼い頃の写真を見て、
幸生は幸せそうに笑い、一滴だけ涙を流して、逝きました。
親なればこそ、幸生の、その最期を見て分かったのです。

どうか、幸生のその気持ちを忘れないでいてやって下さい。
短い短い一生でしたが、君の側にいたくて一言も言えなかった幸生の想いを
哀れと思って頂けるだけで構いません。

子供を失った親の乱れた気持ちのままの乱文を並べ立て、さぞ読み辛かった事と
思います。

哲也君、最後まで読んでくれて本当にありがとう。

(・・・なんで、言わんかったんや)

幸生の父からの手紙を掌で握りつぶし、哲也はそのまま顔を覆った。

「なんでゆきお、ってそんな字なん?」と子供の頃に幸生に尋ねた事がある。
「幸せに生きる様にってオトンがつけてくれたんや」と幸生は自慢げに答えていた。

(お前、最初から幸せになる事、諦めてたんやん)
(・・・何もかも話してくれたら、・・・ちょっとの間でもめいっぱい
幸せにしてやれたのに)

あの夜、幸生が流した涙よりももっともっとたくさんの涙がとめどなく流れ落ちて
哲也の頬を濡らし続ける。
耳に、心の中にあの夜に聞いた、幸生の声が蘇る。

哲也
哲也

いまだに消せないあの日のメールの文字が、哲也の頭の中で、声になって
響いた。

ありがとう、哲也。お前のお陰で楽しかった

どれだけ涙を流せば、その声も、あの日、自分を見上げて無理に笑った
涙に濡れた顔も思い出に出来るのだろう。
幸生にしてやれる事はもう何もない、ただ、こうやって泣く事しか出来ないのが
辛くて、哲也は涙を止められない。

その日、東京では今年初めての雪が降った夜だった。