世界を変える雨




別に特別なことをしたつもりは全くない。

ルフィやナミにも同じ事をしていたし、バラティエにいた時から、
自分なりにいつも精一杯やっていた事だから、ただ、それと同じ事をしただけの
つもりでいた。

同じ船に乗って、「仲間」と言う間柄になって、何度目かに迎えたゾロの誕生日、
ちょうどいい具合に、ログが示していた島に辿り着いた。

「ゾロの誕生日パーティをしようぜ」と言う、何かと名目を探しては、
宴会をやりたがる船長の発案で、サンジはたっぷりの食材を買い込み、
食料が尽きる事を心配せずに心行くまで思う存分に腕を振るって、用意を整えた。

豪華な食事と、それを肴に飲むたくさんの酒を用意でき、その「パーティ」は
大いに盛り上がった。
ゾロの誕生日だからと言っても、普段の宴会とさして変わりはない。

それでも、仲間が楽しそうに笑って騒いでいるのがとても嬉しくて、
サンジは自分でもわかるくらいに浮かれていた。

ルフィの傍若無人な食べ方に怒って見せたり、
出遅れがちなソップとチョッパーにさりげなく取り分けてやったり。
ナミやロビンには食べやすく、きれいに料理を盛り付けた皿を手渡しながら、
「とても美味しいわ」と誉められて嬉しがったり。
どことなく気恥ずかしそうなゾロをからかってみたり、皮肉ってみたり、
そんな風にいつも何も変わらなかった。

だから、つまり、サンジはゾロの誕生日だからと言っても、
特別な事など何一つしなかった。

そして、サンジが頃合を見計らって用意していた、ゾロの年齢の数だけの蝋燭を
点したケーキをテーブルの上に置いた。
当然、そう言う「誕生日を祝うパーティ」では、その時が食卓も華やぐし、一番盛り上がる。
「うわあ、んまそうだな!」とルフィは舌なめずりをし、
「ホント、おなか一杯だけど、これは食べなきゃ!」ナミも目を輝かせた。

けれども。

この日の主役の無神経な一言が、その盛り上がりを台無しにした。
「俺ア、いらねえ。そんなもん、食いたくねえ」

※※※

仲間の前で、いつもどおりの大喧嘩をした挙句、止めにゾロは、
「食べたくねえって言ってるモノを無理矢理食わせたがるのは、てめえの自己満足だ」と言った。

そこまで言われて、サンジはもうゾロと口を利くのが急に忌々しくなった。

「そうかよ。じゃあ、食うな」

自分が作ったケーキは、なんの価値もない。
人に食べて貰える価値がないのなら、そんなものはクズ同然だ。

(…こんなクズみたいなもの…っ!なんで作っちまったんだ…!!)

頭の中が真っ白になって、そんな声だけが心の中で空しく響いた。
頭に血が上ったのか、感情のコントロールが出来なくなったのか、逆上したのか、
自分でもわからない。
どうでもいい、と自棄になった事すら、その時は自覚出来なかった。
呆然とする仲間の視線も、気にする余裕もない。

我に返ったのは、ラウンジのドアを力任せに乱暴に閉め、我から一人きりの寒々しい空間に飛び込んで、その空気の冷たさに気が付いた時だった。

灯りを点さないキッチンの中の薄暗さをサンジは凝視する。
(俺は一体、なにやってんだ…?)
さっきまで、ほんの数分前まで、あんなに賑やかで、楽しかったのに、
今、何故、自分はこんな惨めな気持ちで、こんな場所にいるのか、一瞬、わからなくて
混乱した。

ようやく、サンジは自分の行動を省みて、愕然とする。
自分の手で確かにその皿を持ち上げた事は覚えているのに、その重さを思い出せない。

(なんであんな…わけのわからねえ勢いで、あんな事したんだ)
サンジは得体の知れないモノを見るような気持ちで、自分の両手を眺める。

(この俺が…絶対にあり得ねえ。考えられねえ)と否定しても無駄だ。
この手が、感情に任せてしでかしてしまった事は紛れもない事実だ。
それはどう足掻いても変わりはない。
(…俺が…。自分で作ったモンを自分で海に投げ捨てるなんて…)

ゾロが食べない、と言ってもナミやロビンは食べてくれる。
ルフィが手を出せば、きっと、ものの二分と経たずにその胃袋の中に収まった筈だ。

(これじゃ、まるで我侭が通じなくて暴れてるガキと同じじゃねえか…)

情けなくて、頭がガンガン痛くなる。
体中から力が抜けて行った。
遂には、ドアに凭れたまま、ズルズルとしゃがみこんでしまう。

何が悲しいのか、何が悔しいのか、何に腹が立つのか、わからないのに、
悲しさや、悔しさ、腹立ちが、強烈な勢いでサンジの心を侵していく。

※※※

「ゾロ!なんであんな事言ったんだ!サンジに謝って来い!」

ケーキを海に投げ捨てて、そのままプイとラウンジに入って行ったきり、サンジは
いくら待っても出てこない。

「ああ、お前に言われなくても、悪イと思ってるよ!」
ゾロはルフィにそう怒鳴り返した。

「まさか、あいつがあんな事するなんて…俺も思わなかった」
言い訳がましい口調が我ながら情けないが、ゾロはそう呟いた。

「…サンジ君が食べ物をあんな風に粗末に扱うなんて…よっぽど頭にきたのよ」
いつものようにヒステリックに怒鳴るのではなく、ナミは神妙な顔で
ラウンジを見上げ、ゾロの顔を見もせずにそう言って非難した。

「うるせえな、わかってるよ。悪かったっつってるだろ」
耳を塞いで逃げたいくらいなのに、ロビンがさらにゾロへ追い討ちをかける。

「私、あのケーキを作るところを側で見ていたんだけど…」

※※※

「その瓶詰めのフルーツを使うの?」
サンジの準備を手伝っていたロビンは、サンジがケーキを仕込んでいる最中に
その傍らに置いてあった瓶が気になってそう尋ねた。
「あ、これ?」

サンジはその瓶を手に取り、白い蓋を取り、その口をロビンがその香りを吸い込めるように差し出してくれた。
そっと邪魔にならないように髪を掻き揚げて、ロビンはその瓶に鼻を近づけ、
香りを嗅いだ。
「いい香り。いろんなフルーツの香りがするわ。とても上質なお酒に長い間漬け込んであるのね」
「うん、これは俺がまだこの船に乗る前に漬けたのを持ってきたヤツだから」
「…三年以上は漬けてあるかな。とっておきだよ」そう言って、サンジは笑った。
「なんだか、小さな子に、内緒の宝物を見せて貰ったみたい」とサンジの表情の豊かさにロビンも思わず微笑む。

「何か特別な思い入れがあるの?」と尋ねると、
「ん〜、思い入れ…って程じゃないけど」とサンジは再びその瓶にキュ、キュ、と蓋をしながら、しばらく言葉を考えて、
「俺に料理とか、いろいろ教えてくれた人と一緒に作った瓶詰めなんだ」
「最高級のフルーツと、最高級の酒をどう合わせればいいかを二人で考えて
吟味して、あれが違うとかそれが違うとか言い合いながら作ったんだ」
「…もう、二度と同じ様に作る事は出来ないから、これが最後の瓶なんだけどね、」
「甘いモノが苦手で、酒好きなヤツが喜ぶケーキを作るなら、これを思い切り
贅沢に使わなきゃ、と思ってさ」と、とても穏やかな声でそう言った。

※※※

「コックさんは、あのケーキを作るのに、その瓶の中に入ってた洋酒漬けのフルーツ全部使ったの」
ロビンの話はそれで終わったが、その目はゾロをはっきりと詰って非難している。

「…でも、あれは…」
(あいつが勝手に捨てたんだ。なんで俺がそんなに非難されなきゃならねえんだ)
居たたまれなくて、そんな卑屈な逃げ口上がゾロの喉まで出かかった。

謝るべきだ、と頭では分かっている。
ゾロの胸は、ものすごく濃密で重たい空気を吸い込んだように息苦しい。
心臓が、ズキン、ズキン、ズキン、とかつて聞いた事のない、澱んだ音を立てているのも聞こえる。

(あいつの顔、今見るのは…)ゾロの気が竦む。サンジの顔を見るのに勇気が要る。
それは怖い、と言う感情に似ていた。そんな感情が心の中に居座って、自分では
どうしようもない。ゾロにとって、そんな経験は初めてだった。

人を傷つける事の罪悪感と後ろ暗さに苛まれつつ、ゾロはラウンジへの階段を
上る。

サンジに罵詈雑言を浴びせられる事には慣れている。
けれど、口を引き結んで黙って背を向けられた時、心臓に楔が打ち込まれたような
痛みを感じて、時を負ってその痛みは増すばかりだ。

「おい…、クソコック」

いきなりドアを開く事が何故か躊躇われた。
もしも、今まで見た事もない、サンジの顔を見てしまったら、胸に打ち込まれている楔は大きさを増し、そしてより深く食い込み、経験した事のない痛さは増す。
そんな気がした。

何故か ゾロはそれがとても怖かった。

いつもどおりに、機関銃の様な罵詈雑言を浴びせてくれるように。

心のどこかでそう祈りながら、ドア越しにサンジに声をかける。
「…、おい、聞いてるのか?」

時間が掛かるか、と思っていたのに、ドアはあっさりと開いた。
だが、サンジはゾロの横をすり抜け、まるで目に入ってもいないかのように黙殺し、
甲板の下にいる仲間を見下ろす。

「せっかくのパーティ、台無しにして悪かった!頭、ちょっと頭冷やしてくる」
「後片付けは…、悪いが明日、朝帰ってきてからやるから、そのままにしといてくれ」

それだけをサバサバと言ってのけると、誰の言葉にも一切、耳を貸さずに
ナミやチョッパーのなんとかなだめようとする言葉も振り切って、
港へと降りてしまった。

仲間の思いやりすらも振り切って出て行く、そんな身勝手で、我侭で、やりたい放題のサンジをゾロははじめて見る。

罵倒され、非難され、なじられて、取っ組み合いの喧嘩をした方がよっぽど楽だ。

傷ついて、後悔に嘆いて、そんな感情に振り回される姿を、誰にも見せたくない。

我侭と無神経と言う刃でサンジを傷つけた上、その事を悔やんで、後悔と言う傷の痛みを持て余しているゾロには、一人で飛び出したサンジの気持ちがはっきりと分かった。

「…連れ戻してくる」

このまま、サンジを(勝手にしろ、)と放って置く事など、胸が苦しくてとても
出来そうにない。
どうして、こんなに苦しいのか、その理由を考える暇も賢しい頭もゾロにはなかった。何かに急き立てられるように、ゾロはすぐに港へ飛び降りる。

「お前一人で行くんだぞ!お前がサンジを怒らせたんだからな!」と船の上から
ルフィにそう言われて、ゾロは振り返り、

「俺が悪イって、言ってるだろ!すぐ連れ戻してくれるから待ってろ!」と怒鳴り返し、すぐにサンジの後を追った。

(一体、何で、どうして、…こんなに腹が立って、情けなくて、
悲しくて、悔しいんだ)

足の向くままに歩きながら、サンジは考える。
うっかり気を抜くと、俯いてしまう。そうなるともっと惨めになる。
そう思うから、サンジは何かに挑むように、まっすぐに前を見据えた。

自分の感情にかつて経験した事がないほどに振り回されていても、
今、挑んでいる相手は、自分自身の弱さだと言う事だけは分かっていた。

腹が立つのは何故か、情けないのは何故か。

その一つ一つの感情を深く掘り下げて、その感情に振り回される理由を考えれば、
胸一杯に痞えたこの息苦しさは薄れて行くかも知れない。

それも分かっているのに、サンジはあまり深く考えたくはなかった。
突き詰めて考えると、何か、とんでもない答えを出してしまいそうな予感がする。

そこまで考えた時、サンジは急に、この嫌な堂々巡りから逃げたくなった。
(ええい、もう面倒臭エ…っ!グダグダ考えずにパーっと飲んで忘れちまおう)
(女の子がたくさんいるところで、有り金全部はたいて、飲んで楽しく騒いで、浮かれて、
それでもう…いい)
(一晩きりでも、麗しいレディと恋に落ちたら、きっと、こんな腐った気分は綺麗に吹き飛んぢまうだろ)

そう思って、サンジは一番賑やかな酒場に入った。

埃が舞っているのが薄暗い照明の灯りで見えるけれども、店構えは古く、
女連れの男達が賑々しく酒を楽しんでいて、カウンターも客席もほぼ満席だ。

「お兄さん、一人?」
出入り口のところに佇んで、店の中の様子を眺めていたサンジの腕に、
豊かな胸を押し付ける様に体を摺り寄せ、ぽってりと唇の厚い、一見して娼婦と分かる派手な化粧の女が声をかけて来た。
年は、サンジより2つ、3つ、上、と言うところか。

「一人ですよ、マドモアゼル。ご一緒して下さいますか?」
「あらあら。随分、紳士的なお兄さんだこと」と言って女は甲高い声でホホホ、と笑い、
「もちろん、よろしくてよ。さ、どうぞ、こちらのお席に」とサンジの腕に、その白い腕を絡ませ、店の中へと誘った。

※※※

それから、何がどうなったのか、サンジはしばらく思い出せなかった。
例の女に薦められるままに、色々な酒を手当たり次第飲んだ事だけはどうにかぼんやりと思い出せる。
(なんだか手首がやたら痛エな…それに、なんか寒イ)
胸のあたりがシャツをはだけて寝てしまった時のように、スースーする。

酒を飲みすぎて、目が回るし、頭も、脳味噌自体に酒が沁み渡った様に鈍く痛い。

モノを考えるのが辛いが、何か嫌な空気を感じてサンジは重たい瞼をどうにか持ち上げた。

暫く焦点が合わなくて、見えているのは茶色の天井だけだったが、そのサンジの視界を、男の日に焼けた顔が遮った。

二回、サンジは瞬きをする。
すると、その男の顔がはっきりと見えた。

好色そうな、顎ががっしりとした四角い顔の40歳程の男がサンジを覗き込んでいる。
(なんだ、てめえ)と怒鳴りたいが、酔いの残る舌はうまく呂律が回ってくれない。

「お、目が醒めちまったかあ」
「どうせ寝てたって痛くて、目が醒めちまうだろうけどな」
そう言って、男はゲヘゲヘ、と下卑た笑い声を立てて笑った。

何がなんだかわからないサンジの顎に指をかけて、
「海じゃ、女を抱けない代わりに、男を犯るだろ?」
「俺ぁ、それに はまっちまってな。」
「特に、男を知らない男を無理矢理やるのが楽しくってね」
「しかも、明らかに俺らより強そうなヤツを、無理矢理押さえつけるのが…な」
とそう言ってヤニまみれの黒ずんだ歯を剥き出し、にたぁ…と笑う。

「ふん…、この変態野郎」とサンジは口の中でだけ呟く。
まともに口を利いて、抵抗するのも馬鹿馬鹿しい。そもそも、
そんな男に圧し掛かられたとしても、サンジは怖くも何ともない。

あきらめた振りをして、黙っているだけで、調子に乗ってサンジの体に手をかけてきた。
そこを狙い済まして、腹と蹴り上げ、それから顎を一蹴りすれば男はあっさりと動かなくなる。

けれども、ベッドに鉄の手枷でがっちりと両手首を固定されていて、
それがどうやっても抜けない。
「…くそ!くっ…!」
手首の皮が擦り切れて、血がにじんでも、全く緩む気配はない。
それでも、サンジは諦めずに少しでも枷が歪んで、緩む様に腕に力を入れ、ガンガンと力任せに引っ張った。

だが、ベッドと床がギシギシと軋み、手首の傷が深くなるばかりで、一向に手枷は緩まない。仕方なく、(不恰好だな)と思いながらも、
サンジは、体を丸められるだけ丸めて、右足の裏を鉄製の無粋なベッドの桟に引っ掛けた。

※※※

(何で俺がこんな目に遭わなきゃならねえんだ)

女に騙され、男に売られ、寝こけている間にシャツを肌蹴られて、両手に枷を嵌められて
ベッドに括り付けられて。

今日一日、いや、もう昨日の事になっているのかも知れないが、とにかく、
サンジにとっては最悪の一日だった。

蹴り倒したあの男は、上陸したばかりの海賊だった様で、どこかで奪ってきた
戦利品らしい宝石や、貴金属を大きな袋に詰め込んで持っていた。
この島に換金する場所がないのか、それとも、換金する場所がわからなかったのかは
サンジには何の興味もない事だ。
(…迷惑料だ)と思い、サンジはその袋に手を突っ込んで、中の「お宝」を鷲づかみにし、ポケットの中にねじ込んだ。
ズボンのポケットに収まりきれない、長い真珠の首飾りや、銀色に光る細い鎖の様な貴金属がジャラジャラ鳴る。

(これ、換金して帰ったら、…ナミさんが喜ぶかな)といつもどおりの事を考えたけれど、少しも心が弾まない。
空からは、いつの間に降り出したのか分からないが、雨が降り出していた。
あの酒場からさほど離れていない場所だとなんとなくわかる路地を、サンジは
鬱々とした気分を引きずって、当て所なく歩く。

もう、人の多いところに行く気も失せ、仲間のところへ帰る気にもなれなかった。

(へ…これじゃ、やらずぼったくりの美人局だ)
(何で、俺がこんな情けねえ目に遭わなきゃならねえんだ)

気が付くと、町外れの港の突堤まで歩いて来ていた。
雨足は少しづつ激しくなってくる。髪を濡らした雫は、額を伝い頬へと流れ落ちて行く。
ジャケットも、シャツも何時の間にかずぶぬれになっていた。

暗い海の上を照らす灯台の光をサンジはなんとなく目で追う。

居場所がなくて彷徨うように辿り着いたこの場所は、貨物船の船着場らしい。
もう朝が近くなるほど夜がふけている今は、人っ子一人いなかった。

(…、なんか疲れたな…色々ありすぎて)
心が疲れれば、体もそれに同調する。サンジは山積みになった大きな貨物の影に
ゆっくりと腰を下ろした。

なんで、こんな日になっちまったんだろ。

頭の中で考えていた筈なのに、サンジは無意識にそう口に出していた。
もう色々と考える事に疲れて、頭と心と、唇が直結してしまったのかもしれない。
あれだけ様々な感情が爆発しそうなくらいに詰まっていた胸の中が、
腰を下ろした途端に、急に空ろになった。

「あいつが普通に笑ってくれたらそれでいいって…思ってただけなのにな…」
「…それが良くなかったって事か…」

「お前の独り善がりだ」というゾロの言葉に、何故、こんなに傷ついたのか。
その答えにサンジはうっすらと感じ始めていた。

(…それを受け入れたら、俺の世界の何もかもが変わる)
(今度こそ、もっと惨めで情けない気持ちに苛まれて、じきに俺は滅茶苦茶に
壊れちまう)
(…これ以上考えねえ。絶対に答えなんか出さねえ)と湿気たタバコをかみ締めて、
しっかりと自分に言い聞かせる。

サンジはポケットから真珠の首飾りを取り出した。
少しだけ力をいれて引っ張ると、プツン、と音が切れ、立てた膝の間から、
濡れた板の上へとコロコロとその白い粒は雨と一緒に落ちて行く。

暇つぶしの手遊びをする様に、サンジは掌の上にその真珠を受け止め、それを
また一つ、一つと桟橋の板のへと転がり落とした。

(この真珠が全部無くなったら…何もかも忘れて、何事もなかったような顔をして、)
(…皆のところへ帰ろう)

ポトン、コロコロ…ポトン、コロコロ…と、囁くように降る雨の音にすら
掻き消されるほど小さな音を立てて真珠は どこかへと転がって行く。

そして、最後の真珠が、運命の糸に引っ張られるように、桟橋の上をコロコロと転がっていった。

※※※

(…畜生、一体どこにいやがるんだ)とゾロは10軒目の酒場を出てから、
深いため息をつく。

船を下りてから、サンジに追い着くくらい簡単だと思っていたけれど、
人通りも多く、夜も更けて薄暗い町中の雑踏の中であっさりとサンジを見失ってしまった。

「金髪で黒いスーツを着てて…。眉毛が渦を巻いてる、足癖の悪い女好きの若い男、
見なかったか」と何度同じ事を人に尋ねたか知れない。
面倒だ、とは全く思わなかった。

(もしかしたら、もう何もなかったような顔して、船に帰っているかも知れねえ)と
余りにもサンジの足取りが掴めないので、そんな事も頭を掠めた。

だが、その度に、サンジの後姿がゾロの脳裏に浮かぶ。

戦闘の最中、命を預けあっていた特別なその背中は、あの時、ゾロをはっきりと
拒絶していた。

サンジに突き飛ばされ、突き放された事にどうしてこんなに動揺しているのか、
ゾロには分からない。
誰が何を言おうと、自分が誰にどう見られようと、
結果、それで誰が傷つこうと、自分は自分の価値観と信念で生きているのだから、
それでいいと思っていた。
自分の言動に、何があっても絶対に言い訳をしないで、ゾロは今まで生きてきた。
それなのに、今、どうしてこんなに気が咎めて、胸が苦しいのか。

(なんであいつは…、あいつだけが俺をこんなに落ち着かねえ気にさせるんだ)

雨が降り始めた頃、ゾロはサンジが女に酔い潰されて、どこかへ連れて行かれた事を
知った。
その瞬間、ゾロの体中の血液の温度が急激に下がる。
(なんだって…!あの馬鹿が…!)
女相手なら、いかにもサンジがやりそうなヘマだと思った。

男相手で、足技が使える状態なら何も心配はない。
だが、サンジはゾロと比べると格段に酒が弱い。酔い潰れた状態で、どこかへ連れ去られてしまったと言うのなら、その戦闘力を封じ込まれているかもしれない。

(…あいつには指一本誰にも触らせねえっ…!)

どうして、そんな感情的な言葉が自分の中に噴出したのか、
サンジが連れ込まれたと言う宿に向かって走り出したゾロには もう考えられなかった。

自分の所為で、サンジが傷つく事に良心の呵責を感じるとか、そんな上っ面な
自己弁護の感情ではない。

雨粒を弾き飛ばすほどの勢いで、ゾロは走った。

やがて、宿での出来事を聞き、サンジは宝石を奪って、どこかへ立ち去ったと聞いて、
(良かった…、どうやら無事みてえだな)と、サンジが無事だと分かった途端、
緊迫して、強張っていた心が急に解れた。
無意識に息まで詰めていたのか、勝手にゾロの口から安堵のため息が漏れる。

(けど…、この状況じゃ、相当滅入ってやがるだろうな…)と、今度はまた違う気掛かりが頭をもたげる。

女に騙され、男に陵辱されかけたなど、あのプライドの高いサンジがそんな目に遭って、
平気でいる筈がない。

雨に濡れて、辛そうな顔をして歩くサンジの姿を想像した途端、ゾロの胸にまた
痛みが蘇る。

(それもこれも、全部、俺の所為か…)とゾロは思わず立ち止まり、雨が降り注ぐ
真っ黒な空を見上げた。

(なんで俺は…あんな暴言、吐いちまったんだ)といまさらになって悔やむ。
(こんなに胸ン中がグチャグチャになって辛エなら、あんな事、言わなきゃ良かった)

自分の言葉、行動をゾロは生まれて初めて後悔した。
(…悪かった、って謝って…。それで終わりに出来る事じゃねえ)とも思う。

どうしてあんな事を言ってしまったのか、その理由をたとえ、言い訳だとなじられても、
サンジに伝えなければ、後悔に苛まれて痛む胸の苦しさは消えない。

初めて感じる、自分では持ちきれない、耐えがたい痛みを消してくれるのは、
サンジだけだと、夢中でサンジを探す内に気がついていた。

自分だけでは考え及ばない心の奥深くに何かが芽生えて、その所為で、
気持ちが制御できなくなっている。その何かが、知りたい。
その為には、サンジの前で、胸の中にあるグチャグチャしたものを全部曝け出したい。
そんなゾロの強い思いが、サンジへと繋がる運命の糸を手繰り寄せる。

サンジが何を考えているのか、普段は全く興味がなかったし、分かるはずがないと
思っていた。
けれども、ゾロは出会ってから、今日まで過ごして来た時間の中で知り得た
サンジの事を全部、思い返す。

普段、しかめっ面や、横柄な顔しか見ていない筈なのに、
そうやって思い出せば、遠巻きに見ていたサンジの鮮やかな笑顔ばかりが思い浮かぶ。

(あいつなら、…滅入ってるとしたら、あいつはどんなところに行く…?)

サンジが何を考え、どう行動するかをゾロは初めて真剣に考える。
その心の動きを知りたいと、こんなにはっきりと自覚したのも初めてだった。

(一人きりになれるところだ。海が見えて、静かで…誰もいないところ…)
そう思い決め、ゾロはまた雨粒を飛ばして走り出す。

その足は、静まり返った港へ、貨物船の船着場への道を、奇跡的にも迷いもせずに
まっすぐに駆けていく。

※※※

濡れた桟橋の上に、一粒の白い真珠が落ちていた。
ゾロは身を屈め、指でつまんでそれを拾う。

(なんでこんなところに…?)と思った途端、不思議と
(この真珠、あいつがかっぱらったって言う首飾りだ)とゾロは直感した。

左右を見回し、サンジの気配を探す。

サア…と、海にか細い雨が落ちる音と波音、そして冷たい海風がゾロの胸を締め付ける。

今、もしサンジを見つけたら、どんな言葉を投げつけてくるだろうか。
ゾロをどんな目で見るのだろう。

責めるような目で見るのか。それとも、船から下りる時の様にゾロを黙殺するのか。
傷つけられたくない、と心が竦んでいるのが分かるのに、ゾロにはそんな自分を
励ます事も、叱咤する事も出来ずに、持て余すだけだ。

サンジの罵詈雑言に腹を立て、言い返し、罵り合うのとは全く違う。

真正面に見える人影が揺らいだ。
それを目で捉えた時、ゾロの躊躇いや怯えが一瞬で、勇気へと劇的に変わる。

ズキンズキンと心臓が鳴るのは何故か、息が苦しい程胸が痛むのはどうしてなのか。
サンジへと近づき、歩んでいく先にその答えが必ずある。

切なさと言う痛みから逃げる為ではなく、ゾロは何かを手に入れる為に、
足を踏み出した。

「…なにやってんだよ、こんなとこで…。探し回ったぞ」
たったそれだけの言葉を言うのに、ゾロは気力を…、勇気を振り絞った。

相手は、いつも言いたい放題言い合っているサンジだと言うのに、
(なんだ、俺ア、今から一生を左右する様な重大事をこいつに言うみたいだ)と
我ながら思うほどに、焦っているのに、上手く言葉が出ない。

力なくしゃがみこんでいたサンジは、何も答えず、けだるげに顔を上げ、ゾロを
見上げた。

灯台が投げる切れ切れの光が数秒、サンジを照らす。
雨に濡れた髪が重たげで、無表情を装う目は、透明で蒼い。

目と目が合った、その時、その瞬間、サンジの心の中へ、魂の中へ、
ゾロの心が、魂が浚われて行く。

「…探し回った…?そりゃ、…なんの用で?」
無愛想な口調でそう言われ、ゾロの心臓がまたズキン、と軋んだ。
ゾロの答えを待たずに、
「俺を探して連れ戻して来いって、ルフィが言ったからだろ…?」
「そうでなきゃ、お前が俺を探し回るワケ、ねえもんな」とサンジはそう言った。
サンジの唇から出る言葉はまるで鋭い爪の様に、ゾロの心に傷をつける。

(…なんでこいつはこんな言い方しか出来ねえんだ)と腹が立った。
だが、ゾロはその言葉をぐっとこらえる。
(元を正せば、俺が悪イんだ。こいつは、何も悪イ事はしてねえ)
そう思い返し、余計な事を言わないうちに、言うべき事を言おう、とゾロは
「…悪かったよ」と声を絞り出した。

「…何が?」ゾロの言葉を聞いて、サンジはそれを鼻で笑う。
「それもルフィに言われたのか。俺に謝れって?悪イなんて思ってねえのに?」
そう言って、口元に皮肉めいた笑みを浮かべた。
なのにその目は、その表情とは裏腹に、どこか強がっている様に揺らいでいる。

「…俺は自分が悪イと思ってなけりゃ、誰に何を言われても謝ったりはしねえ」
ゾロがそう言うと、サンジは「…はっ…」と馬鹿にしたように笑い、
目を逸らした。

「…もういい。分かった。何が悪イと思ってるのかわからねえが、」
「それでお前の気が済んだんなら、今は俺の前から失せろ」
「お前の面見てると、せっかく落ち着きかけたのに、また気分が悪くなる」

(…な…)
サンジのその言い草にゾロは絶句し、さすがにカチン、と頭に来た。
(こいつ、人が下手に出たら調子に乗りやがって…!)

その気持ちが爆発する寸前に、サンジが口を開く。
静かで、穏やかなその口調には、何かを諦めたかのように儚さが滲んでいた。

「俺は別にお前に謝ってほしいなんて思ってねえんだ」
「お前は何も悪イ事はしてない。俺が、自分でやった事に勝手に腹を立てて
勝手に飛び出しただけの事だ」
「…その気持ちの整理をつけたいから、一人になりたかった」
「それだけだから、…一人にしといてくれ」

その言葉を聞いて、ゾロははっと我に返る。
そして、目を開いて、サンジの姿をその中の心まで捉えるつもりで、じっと
見つめた。絶え間なく順序良く巡る灯台の光が、再びサンジの姿を明るく照らす。

ゾロに見下ろされても、もうそんな事に気を回すのも億劫なのか、
サンジはずっと座り込んだままだ。
その姿を見て、ゾロは痛感した。
(俺の所為だ。こいつがこんな面してるのは…)
思っていた以上に、サンジを深く傷つけた事に愕然とゾロは立ち尽くす。

棘のある言葉を吐くのは、ゾロを傷つける為ではない。
これ以上、傷つけられたくないからだ。
それが分かった瞬間、ゾロは見えそうで見えなかった答えに急に近づいた事を感じた。

(…こいつを傷つけると…俺はこんなに胸が苦しくなるのか…)

笑顔と真逆の顔。そうさせたのは他の誰でもない自分だと思っている今、
ゾロの胸の痛みがズン、と重さを増した。
これ以上、この痛みを抱えてはいられない。
体をどんなに傷つけられるよりも、苦しくて本当に息が詰まって死ぬかも
知れないと思う位に辛くて、ゾロはたまらずに呟いた。

「…あれが…俺の為だけに作ってくれたヤツだって分かってりゃ…」
「あんな事言わなかったんだ」

「…何?」ゾロの言葉にサンジは怪訝そうに顔を上げた。

「…いつもみたいに、他のヤツが喜ぶから…」
「それだけで、作ったモンかと思ったんだ」
「…お前が、俺の為に何かしてくれるなんて、…思ってなかったから…」

言い訳だとなじられても、あの時どうしてサンジにあんな無神経な事を言ってしまったのかその理由をどうしてもゾロはサンジに伝えたかった。

サンジを傷つけると、その痛みはそのまま自分の痛みになって跳ね返ってくる。
どうしてそうなるのか、そんな事は後で考えればいい。

心の中にある、グチャグチャしたものを全部、曝け出したい、と思っていた。
今がまさにその時だと、ゾロは一気にそれを吐き出す。

「他のやつらの前じゃ、ガキみたいな無防備な顔で笑うのに、」
「いっつも、俺には仏頂面で横柄な面しか見せねえ」
「でも、…昨日ぐらいはもしかしたら、少しは…特別な事してくれるんじゃねえかって…」
「ちょっとぐらい、他のやつらの前に見たいに、笑ってくれるかも知れねえ、」
「そんな事を、柄にもなく期待してた」
「それが全く期待はずれで、そんな期待をした自分が馬鹿臭くて…」
「それで、…拗ねたんだ。そんな幼稚な事しちまった結果が、…つまり、あれだ」
「お前にあんな酷エ事を…」

言いながら、ゾロの顔が何故か熱くなって来る。
言葉にして、初めて自分の気持ちが分かった。

(俺は、こいつに特別扱いして欲しくて、俺に向かって笑って欲しかったんだ)

それがわかった途端、胸の中に痞えていた澱んだ空気が晴れていく。

「…なに言ってんだ、お前」
サンジはそう言うと、やっと立ち上がった。

「一体、どう言う言い訳だよ、そりゃ…!」
「そんな事でお前が拗ねてただと…?そんな事、信じられるか!」

そう言って、サンジはゾロの胸をドン、と右手で突き飛ばした。
その瞬間、サンジは「…つっ!」と右手を押さえ、顔を顰める。

「…どうかしたのか?」思わずゾロがそう尋ねると、サンジは
「ああ、これもお前の所為だよ!」といきなり感情を爆発させた。

「もういいって言ってるだろ!余計な言い訳せずにとっとと消えろ!」
「そう言ってるのが、なんでわかんねえんだ!」
「お前に頭ン中掻き回されるのはもう嫌だって言ってんだ、このクソ野郎!」
「お前なんかに振りまわれて…、胸ン中引っ掻き回されてどうしようもなくて、
オタオタしてる自分が情けねえんだよ、惨めなんだよ!」
「どれだけ俺にそんな想いさせりゃ気が済むんだよ!」
「…なんでお前にだけこんな…。こんな想いさせられなきゃならねえんだよ!」

酷い言葉をぶつけられた。
そう思うのに、ゾロは不思議と全く腹が立たない。
乱暴なその言葉をそのまま複写したかの様な同じ想いが、ゾロの心の中にある。

バラバラに見えた二人の心が、その想いを糸口にぴったりと一つに重なった。

「俺もそう思う。いっつも、俺をグチャグチャにするのはお前だけだ」
「それがいつも忌々しかった。お前が忌々しいんじゃなくて、お前に振り回されてる
自分が、忌々しかった」

自分が辿り着いた答えに、サンジも辿り着いて欲しい。
まだ一方通行と変わりないこの感覚を、早くサンジに気づいて欲しい。
その気持ちに突き動かされて、ゾロの足がサンジにかつてないほど近づいた。

灯台の光の中に、雨粒がキラキラと光る。
その煌きの中に、サンジが立っている。

(こいつの髪って…こんな色をしてたのか)と見慣れている筈のサンジの鮮やかな髪色が、
とても眩しかった。

サンジの中へと飲み込まれていったゾロの一部が、今のゾロの心臓と同じ鼓動を
サンジの心臓に刻ませ始める。

(俺のこの心臓の音と、あいつの心臓の音は、今、絶対同じだ)
何故かゾロはそう信じられた。

笑って欲しい。特別な相手だから、特別に想って欲しい。
その気持ちの裏返しで、不器用に傷つけあった自分達を一緒に笑いたい。

重なった心が離れないように、もっと深くサンジの心にこの想いを刻むために
ゾロはそれを言葉にする。

「お前がそうやって俺に腹立てて、萎んでるの見てると、息が苦しい」
「だから、俺はお前にそんな想いさせちゃいけねえんだ」
「その分、全部、自分に跳ね返ってくる」
「俺にそんな想いさせるのも、…お前だけだ」
「…お前を嫌いってワケじゃねえ」
「…ただ、特別なんだ。俺にとってお前は…」
そして、意を決し、ゾロはサンジに尋ねる。
「お前だってそうだろ?」

サンジの表情が明らかに変わった。
見た事もない、曖昧な表情。けれども、困惑も戸惑いも驚きも、その心の中にある
感情を隠したりはしていない。

自分の心の事なのに、どうしても解けなかった謎の答えをゾロに教えられ、
それに驚き、けれど否定出来ない。
サンジの表情が普段よりも幼く見えるのは、そんな感情を隠す余裕がないからだろう。

「…そう言う意味では…そうかもな」とサンジは歯切れの悪い言葉でそう答える。
けれど、それは殆どゾロの言葉を全て肯定しているのと変わりない。

既にゾロは、今日まで考えもしなかった価値観と運命の中へ、自分が歩き始めている事に、
気づいていた。

(…そうか…。これは、つまりあれだ)
幼い少年は、好きな相手の気を引くのにわざと意地の悪い事を仕掛けて気を引く。
それと全く同じ事をしていた自分がゾロは可笑しかった。
自分の中のあの得体の知れない感情の正体が分かると、もうゾロは何も怖くない。

サンジの笑顔が欲しいと思うなら、その心ごと、欲しいと思えばいい。
欲しいのなら、手に入れればいい。

男がどうの、女がどうのと言う価値観は、ゾロの中ではどうでもいい事だった。
そんなありきたりな常識で、自分の中の感情を捻じ曲げるなんて、ゾロには
とても我慢ならない。

けれど、サンジにその想いをぶつけるのは今ではない。

サンジの心の中に同じモノがあるのなら、焦らなくてもきっとすぐに通じ合える。
そう思うと不思議に余裕が生まれた。

「今までのは、確かに全部言い訳だ」
「あれからロビンから聞いて…お前が棄てたアレがどう言うモンだったか、俺は
知ってる」
「俺のした事はもう取り返しがつかねえ事だ」
「気の済むまで、蹴ってくれていい。土下座しろって言うなら、土下座だってする」
「手の傷を舐めて治せって言うなら、舐めてやる」

ゾロがそう言うと、サンジは迷惑そうに「よせよ、気色の悪イ」と顔を顰めた。

「…お前が何を言おうとしてるのか、俺にはわからねえ」
「…わかりたくねえ。分かっちまったら天地がひっくり返る気がするからな」
どこかはにかんだような、はぐらかすような口調のサンジの言葉を聞いて、
ゾロは嬉しくなる。
(こいつ、ちゃんと分かってやがる)そう思うと、自然に顔が綻んだ。

「でも、…凹んだ俺を見てお前が辛くなるって言うのは、悪い気がしねえな」
そう言って、サンジは歯を見せてニ、と笑った。

サンジはゾロに、己では制御出来ないたくさんの感情を植えつけ、
その上、さらに引っ掻き回す。

それだけなら、ただの相性の悪い相手だと言う事になるだろうけれど、
そうではない。

魔法のような気まぐれな笑顔が、ゾロの心を撫で、誰にも出来ない程嬉しくも
させる。

ゾロを真っ直ぐに見つめ、悪戯を思いついた様にサンジは笑い、近付いてきた。

「これ、やるよ」そう言って、細い鎖を握りこんだ拳ごと、ゾロに突き出す。
「これ見る度に、お前は今夜の事、思い出すんだ」
「俺にした事、俺に言った事、…全部」
「…俺は忘れるけど、お前には忘れさせてやらねえ」


ゾロが手を差し出すと、サンジはその掌にシャラシャラと鎖を鳴らして手渡した。

(俺がこいつにした事、こいつに言った事…)サンジの言葉をゾロは決して今日の事を
忘れたくないと、心の中で反芻する。

雨に濡れた細い鎖の感触を掌に、灯台の光の中で眩しく映るサンジの姿を目に、
聞き慣れたはずの声なのにどこか優しい響きの混ざった声を耳に、
細く赤い痛々しい手首の傷の痛みを心に、しっかりとゾロは刻み込む。

ゾロは掌の中にある銀色の鎖をじっと見つめた。

お互いの中に同じ感情があるのだと初めて知った日の証として、この鎖は、
生まれた日の記念を祝う贈り物以上の価値がある。

「お前から食い物以外のモン貰ったの、初めてだな」と言いながら、
ゾロはそれをギュ、と握り締めた。

ずぶぬれの格好で向き合い、灯台の光が何度も照らされながら、
自分の世界が銀色の雨の中で、確かに変わり始めている事を

お互いが、はっきりと感じていた。


〈終わり〉



最後まで読んで下さって、有難うございました。

…えっと、甘いって言うよりも、甘酸っぱい飴って事で。

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