「朝が来るのを待ちながら」



夏の暑さを忘れ、冬の寒さをまだ思い出せない静かな夜だった。
清みきった濃紺の夜空に、金色に輝く月が浮かび、波間にその光を投げている。

麦わらの一味の船は、今、秋の海域にある島に辿り着き、朝を待っていた。

海軍の姿もなく、海賊の気配もない。
港に停泊しているのは、商船か貨物船の類で、平和でのどかそうな島だった。

寝静まった船の上で、ただラウンジの明かりだけが細々と灯っている。

仲間はおのおの眠るべき場所でとっくに眠っているのに、ラウンジでは、
この船のコックのサンジと、その名を知られた海賊剣士のロロノア・ゾロが
まだ起きていた。

* **

今夜5杯目の酒を飲み干しても、ゾロは少しも酔いを感じなかった。
酔いたくて飲んでいる訳ではないので、別に酔わなくても構わない。
ただ、この静かな夜にこうしてサンジと差し向かいで、酒を飲んでいる事そのものが
今のゾロにとってはなにより大切な事だった。

「・・・酒は酒だけで飲むのが美味いって思ってたが、混ぜて飲むのも美味エもんだな」と言いながら、もう一杯、と言う代わりにサンジに空のグラスを差し出す。
サンジはそれを引き寄せ、
「適当に混ぜ合わせてんじゃねえから美味エんだ」
「ちゃんと味の組み合わせを絶妙に考えて作ってるから、美味エんだよ」
「それがカクテルってもんだ」と二本の違う酒をそれぞれ注意深く量を測りながら、
ゾロのグラスに注いだ。

そんな軽口を言いながらも、サンジは今夜、温めたミルクを飲んでいて、酒を一滴も
飲んでいない。



「・・・今夜は、飲まないのか」

飲めない理由を知っているのに、ゾロは思わず、そう呟いてしまった。
一人で飲むより、心を許しあった物同士で心置きなく飲む酒の方がずっと美味い。
美味い酒と美味い肴があれば尚更だ。

「・・・ああ。チョッパーに今夜は飲むなって言われたからな」
そう言って、サンジは目を伏せ、湯気の立つミルクを一口、口に含んだ。
コクン、と微かに喉が鳴る。

「・・・明日は、・・・たくさん薬を使うらしいし・・・」

何気なく呟いたゾロの言葉と、それに答えたサンジの言葉が、今夜二人がずっと避けて、遠回りしていた話題についに触れてしまった。

今、眠れない子供の様に暢気にミルクを啜っているサンジだが、
数ヶ月前には、破裂した砲弾の破片を体中に浴び、瀕死の重傷を負っていた。

一見すると、もうその怪我も完治して健康にはなんの問題もないように見える。
だが、爆風で吹っ飛ばされた時に強打した頭の中に出来た損傷は、未だにそのままになっていた。

固まった血の瘤を取り除かなければ、いずれは歩く事も目で物を見る事も、
運が悪ければ、自力で呼吸する事も出来なくなり、さらに運が悪ければある日突然、
その瘤が破裂でもしたら、即死する事もあると言う。

けれど、そんな複雑な手術を船の上では出来ないし、なにより重傷を負ったサンジには、その手術に耐える体力がない。
だから、チョッパーはサンジの体力が回復するのを待つ、と判断した。

サンジの体は順調に回復し、体力そのものは何の心配もない。
だが、頭を開いての手術は危険を伴う。

「必ずうまく行く。俺を信じてくれ」と言うチョッパーの言葉を、サンジは、信じていない訳ではないだろう。

それでも、場所が場所だけに不安を感じるのは当たり前だ。
その不安からはどう足掻いても逃げられない。昨日まで自分から遠ざかっていた死が
また近付いて、自分の影の中にひっそりと潜んでいるような気がするのも、
仕方のない事だ。

そんな口に出せない不安や恐怖を、サンジが持て余しているのをゾロは感じ取っている。

(・・・俺はどうすればいい)そう自問しても、答えが見えない。
サンジと向き合っているだけで、その心の中に押し込め、凝り固めようとする心細さも不安もまるで自分の心の中のように感じてしまう。

この苦しさ、不安、どうしてこんな目に合わなければならないのかと言う憤り、
そんなサンジの感情をこんなにも強く感じているのに、それをどう受け止めて、
どう宥めて、どう鎮めて、どう慰めていいのか、ゾロにはまだ分からなかった。

「…朝なんか来なきゃいい」
うっかりすると息をする事も忘れそうになるくらいの不安が、胸の中には納まりきれず、喉を押し上げられたのか、遂にサンジが窓の外へ目を向けながら、ポツリと本音を漏らした。

「…怖エのか」
絶対に「怖い訳ねえだろ、」と言う事場が返ってくる、と思いつつゾロはそう尋ねる。

「…ああ、怖エよ」サンジはゾロに顔も向けずにそう答えた。
顔を見るとどうしても強がってしまう。一人でいても、怖いと思う自分に対して
臆病者となじったり、自分で自分を励ましたり、そんな事をサンジはずっと繰り返して来たのだろう。

いざ明日、と言う今になって、どうしても拭えなかった臆病な心をとうとうサンジは
持て余してゾロに晒した。

チョッパーを信じていないのか、と言う言葉など、きっとサンジは自分自身の中でも
何度となく言い聞かせて来たに違いない。だから、今そんな言葉を言っても、
サンジの不安を拭う事は出来ないと言う事くらい、ゾロにもわかる。

他の誰でもなく、自分にだけサンジは弱音を吐いた。
強がらずに、「怖い」と言う気持ちを、自分にだけ漏らした。
それを受け止めて、励まして一緒に越えたい。ゾロは心からそう思った。
そう思うと、勝手に心も、口も動く。
「…何が怖エんだよ」
「…そうだな。俺には、明日が来ないかも知れないって思う事かな」
そう言って、サンジはカップに残っていたミルクを全て飲み干した。

一度堰を切った感情は、止めようとしてもきっともう止められない。
サンジはゾロに顔を向けた。
その瞳は、まるでとても遠い場所を眺めているようで、とても透明で、頼りない。
それなのに、その目にゾロの心臓はギュ、と掴まれたような気がして言葉が返せない。

「…ああ言えば良かった、こうすれば良かった…って事、山ほどある気もするし」
「それを全部、やりっぱなしでここからいなくなる事とか」
「…あの時は気持ち良かったとか、もっとイッパイああ言う事したかったな、とか」
「そんな事考えると…まだ、…死にたくねえなって」

湿っぽい話にしたくないのか、サンジの口調はどこかおどけている。
それが却って、ゾロの胸を抉った。

「大丈夫だ。お前は死なない」と言って力いっぱい抱き締めたいと思うのに、
テーブルで向き合う距離がそれを躊躇わせる。

なんの根拠もない慰めを言って、それでサンジの心が救われるのか。
心と心が溶けて重なっているからこそ、ゾロは動けない。

もしも、自分ならそんな上っ面だけの言葉を聞いても、きっと、空しく思うだけだ。

確実に自分が出来る方法で、サンジを安心させたい。
怖さも、心細さも全部、分かち合っているのだと伝えたい。

そう思うだけで、二人の手はテーブルの上でごく自然に重なっていた。
ゾロはサンジの掌を包むようにしっかりと握った。

ここにいたい、ここから去っていきたくない。
そんなサンジの声が柔かな温もりに染みて、ゾロの掌に伝わり、心に届く。

「…もし、眠ってる間に夢を見て、どっちへ行っていいか分からなくなった時、」
「他の誰の声が呼ぼうと、絶対にそっちへ行くな」
「俺の声だけを聞いて、俺の声が聞こえる方向へしっかり歩いて来い」
「そしたら…ちゃんと朝が来る」

掌に包んでいたサンジの指が、抱き締め返すようにゾロの指に絡む。
遠い未来を憧れたように見ていた目は、真っ直ぐにゾロを見つめて微笑んでいた。

「どうやって呼ぶんだよ?クソコック?エロコック?それとも素敵マユゲか」
「どう呼ばれたいんだよ、お前は」

触れているのは掌だけなのに、まるで腕の中にサンジを抱いて囁いているような
錯覚を覚えながら、ゾロはそう尋ねた。

サンジは瞼を閉じる。
それは答えを考える為に閉じたのではなく、溢れ出そうな甘えをぐっと堪える為の、
唇を噛み締める代わりのような瞑目だった。

「…どうでもいい。とにかくお前の声がする方に行けばいいんだろ」
「どうでもいいなら、名前を呼ぶぞ」

またおどけた口調のサンジの言葉を途中で遮り、ゾロはそう言った。
力いっぱい抱き締める様に、サンジの手を強く握る。

「お前が寝てる間、ずっと呼んでやる」
「この俺が必死に呼ぶんだ。聞こえねえ筈がねえ」
ゾロがそう言うと、サンジは「何だよ、その自信は」と本当に可笑しそうに笑った。

「ホントはもっと言っときたい事があったのに、そんな事言うの、馬鹿馬鹿しくなっちまった」
「・・・言い残す事なんて、まだ言う時じゃねえもんな」
そう言って、サンジはゆっくりとゾロの指を解く。

「当たり前だ」ゾロは行くあてを失くした手を飲みかけのグラスに伸ばして、また
一口、酒をグっと煽る。

「…この酒、ホントに美味エな」
「もう一杯、飲むか?」
「いや…。次、飲む時の楽しみにしとく」

ゾロはグラスをテーブルの上に置いた。
そして、真っ直ぐにサンジを見つめる。

「眼が覚めて動けるようになったら、一番最初にこの酒を飲ませろ」
「…なんだ、偉そうに…でも、分かった」サンジはゾロの言葉に深く頷く。

こんな風に朝を待ちながら夜を明かした事が、きっと後で笑い話になればいい。

そう思いながら、ゾロはまだ夜明けが来ないかと気になって、窓の外に目をやった。

まだ、金色の月の光がおぼろげに海を照らしているのが見える。
朝の気配はまだ遠い。

(終わり)