サンジがバラティエを去って、いくつかの季節が過ぎた。

「野郎ども、大掃除をやれ。」
男所帯は、よほど神経質でない限り、すぐになんだか、妙な湿り気と匂いが篭る。
ゼフは、バラティエが休みの日に、コック達にそう命じた。

もちろん、自分の部屋は自分で掃除する。

床を掃き、窓を磨き、シーツを、カーテンを洗う。
ぶちぬかれた天井はもう、しっかりと修繕されていた。

ライティングデスクの上には、褪せ始めた写真立て、その中からまだあどけなかった
サンジと若かった自分が、一人きりで自分の部屋を掃除するゼフを笑いながら見ている。

(どうしてるか、あのバカは。)まさか、空の上で雷に打たれて死にそうになっているとは、夢にも思っていない。

大方の掃除が終って、ベッドに腰掛けてふと、ゼフは、棚の上に埃を被った箱があるのに気がついた。
(あの上はまだだな。)とやり残した仕事が気になって、ゼフはその棚の上も綺麗に
埃を拭おうと、まず、その薄汚れた箱を床の上に下ろした。

その時、船が横波を受けて揺れた。
義足が、ワックスをかけたばかりの床で滑って、ゼフは箱を抱えたまま、
少しバランスを崩す。
「おっと、」と、と、と、となんとかバランスを取りながら、ベッドまで行き、
一旦、腰を下ろした。

膝の上に置いて、その箱を開けて見る。
恐らく、雑多な、役に立たないものばかりが入っているのだろう。
そうでなければ、こんなに長い間、放って置かない筈だ。
何をいれたのかさえ、入れた本人のゼフが忘れていたのだから。

開いて見て、ゼフは小さく、笑みを浮かべた。
そして、そんな物を大事に取っていた、自分が可笑しくて、だんだん笑いが込み上げてきた。
そして、腹が痛くなるほど、ゼフは大笑いをする。
どれだけ、自分があの頃、あの生意気なチビナスを大事にしていたか、
今になってその箱の中身がゼフに教えていた。

あれは、何年前の出来事だっただろうか。

ゼフは、箱の中の、短くなったクレヨンと拙い落書きが描かれた古びた画用紙を
手に持って、それを交互に眺める。

このバラティエを開店して、まだそう繁盛していなかった頃。
昼時でさえ、店が満席になることはなかった。

まだ、コックもチビナス一人。
ゼフは、客が来なくても、掃除も料理も店の設えも一切手を抜かなかった。

昼の営業が終り、二人は休息を取っていた。

「ジジイ、お客の忘れ物だ。」とサンジはゼフに小さな袋を手渡してきた。
その中には、新品の画用紙と使い古しのクレヨン、小さな子供が遊ぶ玩具など、
親子で食べに来た客の、子供の持ち物らしい細々としたものがいくつか入っていた。

「暫く、置いておけ」とその時、ゼフは言った。
けれど、1週間以上経ってもその忘れ物の所有者は現れなかった。

ゼフは手遊びにそのクレヨンで、バラティエの風景を描いた。
その次に、店を飾っている花瓶に挿した花を描いた。
その次には、魚を、野菜を。

それをチビナスは最初、遠巻きに眺めていた。
(休憩中まで、お前に構ってられるか)、と言ってゼフはチビナスと接触しないようにしていたからだ。
休憩中は、チビナスが自分の料理の勉強に費やす時間、そして、
育ち盛りの体をゆっくりと休める為に必要な時間だから、
その時間を下らない怒鳴り合いで費やすのは馬鹿げている、とゼフが考えての、二人のルールだったから。

ゼフに取っては、それは本当に退屈凌ぎだった。

客席の椅子に腰掛けて、食材を目の前に置き、それを見ながらクレヨンでスケッチしているゼフを、チビナスは、少し離れた場所で、腕を後に組み、壁に凭れて、
じっと見ていた。

どんな絵を描いてるのか。見たくて溜まらない。
そんな感情が目が合うと逸らす、つぶらな瞳の光の余韻に篭っている。

「チビナス、コーヒーとオレンジジュースを持って来い」

その日、ゼフは仕入れたばかりの野菜を籠に盛って、それを描いていた。
そして、やはり、ゼフの絵を見たそうにして、それでも近付いて来ないチビナスが
自分に近寄りやすい様に、そっちを見もしないで、ゼフはそう声を掛けた。

「判った。」チビナスは元気良くそう答えて、厨房に走って行った。
チビナスは、すぐにゼフに言われた物を持って来る。

ゼフは、自分の隣に腰を下ろすように、顎でそこを示した。
チビナスは嬉しそうに目を輝かせてゼフの差した椅子にちょこんと腰を下ろす。
まだ、床に届かない足が嬉しげにブラブラと揺れた。

「いいか、」料理は味はもちろんだが、見た目も大事だ。
そう、ゼフは言って、テーブルの上のクレヨンをチビナスの側に押しやる。

「この野菜を美味そうに描いてみろ。」

そう言われて、チビナスも画用紙に向かう。
ちらちらとゼフはその絵を横目で見る。

チビナスも、ゼフが絵に集中した時を見計らって、伸び上がってゼフの絵を覗く。
「見るな。」とゼフは背中で自分の絵を隠す。
「なんだ、ジジイ、へったくそだ」とチビナスはバカにしたように歯を剥き出して笑う。
「やかましい、なんだ、そんなでかいピーマンはこの籠には入ってねえぞ。」
ゼフがチビナスの絵をけなせば、すぐに
「そっちこそ、その緑の玉はどう見たって、レタスには見えねえ。」とチビナスは
言い返してきた。

それから、何枚か絵を描いた。
二人ともがヘタクソだった。

なぜ、その時間が途切れたのか、その記憶は残っていない。
今、ゼフの手元にあるのは、ゼフにはもう持てなくなるほど短くなってしまって、
そうして、チビナスの小さな手でさえもう、絵を描くことが出来なくなるほど
短くなったクレヨンと、そのクレヨンで描いた、

笑えるほどヘタクソで、仁王立ちになっている義足のコック長の絵。
両手には抱えきれない程の料理を持って、長い髭で飾られた口元は大きな口を
開けて笑っている。

そのすぐ隣には、黄色いひよこのような、小さな男の子がやっぱり両手に
たくさんの料理を持って、楽しそうに笑っている。

ゼフはそれをもう一度、箱に閉まった。

楽しかったあの頃は。
心からそう思った。

短いクレヨンと古びた絵を見る度に何度でもゼフはそう思うだろう。
その度に寂しさを感じるだろうけれども、捨てる勇気も持てないまま、

ゼフはそれをもう一度、箱に閉まった。


終り