(下は、海だったな・・・)
ゾロは我に返り、サンジが潜り込んで行った氷の裂け目をもう一度、覗き込む。

さっきは和道一文字に手を伸ばそうと必死で、そんな事さえ忘れていた。
今、立っているこの場所は、本来なら船でなければ行き来できない沖で、
氷の下は一体どのくらいの水深なのかなど、わかろうはずもない。

そして、けれど、それを感じると同時に、今、自分達が
立っているのは、不動の地面ではなく、とても脆い、不安定な場所だと言う事も、
思い知らされる。

這いずって、潜って行った跡にはやはり、氷に擦り付けられるようにして
微量ながらサンジの血が残っていた。

「・・・・っで、ひっぱれ!」
(あ?なに?)ゾロは下から聞こえたくぐもったサンジの声を聞きそびれ、慌てて
耳をすませる。

「足掴んで、引っ張れって言ってんだ!片手じゃ逆戻り出来ねえんだよ!」と
ゾロが返事をする前に、そう怒鳴っているサンジの声が今度ははっきりと聞こえた。

腹ばいになり、ゾロは割れ目に頭を突っ込んで、サンジの足首を掴もうと、
思い切り手を伸ばした。

その時。
また大きく海が、足場の氷が揺れた。
さっきのような勢いのある揺れではなく、大きな大きなゆるやかなうねりだ。
体が浮き上がるような感覚、間違いなく、この氷の大地はただ、海の上に
頼りなく浮いている板に過ぎない、とはっきりと感じれる、大きな揺れに
サンジを飲み込んでいる氷の割れ目がいやな軋みを立てる。

ギシ・・・・ギ・・・ギイ・・・ギイ・・・ギイ・・・
(やべエ、氷が裂けるかも知れねえっ・・・っ)
さほど激しい揺れではないが、伝わってくる波動が大きい。
さっき、近くで暴れていた海王類が少し離れた場所で性懲りもなく、
氷をぶち割ろうと暴れているのか、揺れは少しもおさまらない。

ゾロが手を伸ばしても、少しづつ、少しづつ、サンジの足は下へとずり落ちていく。
慌てれば慌てるほど、手はサンジに届かない。

ほどなく、氷が軋む音が大きくなった。
さっきまで軋むだけだった音が、バキバキ・・と鼓膜に響くくらいの大きな音に
変わり、少し窮屈にゾロが体をねじ込んだ筈の氷の裂け目も大きくなっていく。

「もうダメだ、割れる!お前は離れとけ!」
サンジはそう怒鳴り、氷に挟まれた格好のまま、ずり上がってくるどころか、我から
奥へと潜り込んで行く。

びっしりと海面を覆う氷の下に不用意に落ちるより、自分から氷を割り、
海中へと目標を持って落ちた方が安全だと思ったのかもしれない。

ゾロは慌てて、裂け目からまた這い出る。
きっと、サンジは頭を下にした格好でも、ほんの少しの隙間を見つけ、
そこに体をねじ込み、そこから氷を蹴り砕くつもりだ。

もし、そうならゾロの足場も崩れる事になる。
(あの格好で、あいつが蹴り砕けるとしたら、)とゾロはおおよそ、サンジの
蹴りの威力を計算して、その場から少しだけ離れた。

氷の上に腹ばいになった腹巻がべっとりと濡れて冷たい。
そんなことをふと、感じた瞬間、耳を劈く大音響が海の上に響き渡る。
海面を覆っていた氷が足元から粉々になって吹き飛び、大小さまざまな大きさの破片が四方八方に飛び散った。
同時に、大きな氷の塊や、おそらくサンジ自身も海に投げ出されたような
水音も聞こえた。

(あいつ、人間かよ・・・)
今更ながら、ゾロはサンジの凄まじい足の力には、圧倒される。
剣士である自分の様に、サンジは戦闘だけを生きる目的として自分の技を磨いたのではない。
それなのに、足一本でしかも頭を下にした、不安定な格好のまま分厚い氷を蹴り砕いたその技量は、サンジと言う男を好きか、嫌いかは別にして、
(尊敬に値するぜ、)とゾロは思う。

おそらく、すぐにサンジは海中を泳ぎ、自分が蹴り砕いた氷の穴から顔を出すだろう。
(・・・待てよ、あいつ、どこか怪我をしてたんじゃねえか)
氷の下を泳いでいるサンジの姿を想像し、ゾロはさっきまでイライラしていた訳を
唐突に思い出した。

いつから血が出ていたのか、分からない。
だが、ズボンの裾を濡らし、歩いた跡に血の沁みが出来るくらいの出血を
しているのなら、水の中を泳いだらその傷からさらに血が流れ出てくるだろう。

「ブハッ!」

サンジが自分で氷を蹴り砕いて開けた大穴の真ん中辺りで、サンジが水を
吐き出しながら浮上してきた。

「・・・大丈夫か」
「刀だろ。ちゃんと拾ってきてやったぜ」

サンジは氷がプカプカ浮いている中を、滑らかに泳ぎゾロの言葉に飄々と答える。

(刀だろ、)となんの疑いもなく、サンジはゾロにそう言った。

その無神経な、なんの心も篭っていないような口ぶりが、ゾロの心に、
何かで刺された様な痛みを感じさせる。
大丈夫か、と言ったきり、サンジにどんな言葉を返せばいいのか、
ゾロは分からず、黙って、サンジが泳ぎ着いて来るのを見ていることしか
出来なかった。

サンジはゾロのことを何もわかっていない。
分かろうとさえしていない。それだけははっきりと分かり、それが無性に
悔しくなる。

ゾロが自分の心配などする訳がない。サンジは頭からそう思っている。
それは信頼しているから、などではない。

ゾロは、自分に関心がない。
だから、自分がどうなろうと、知った事ではない。
ゾロが大事なのは刀、刀さえ無事ならそれでいい。

サンジはそう思っている。
サンジにそう思われている。

サンジは水から上がる前に、「ほらよ、」と軽く言い、
しっかりと手に握った刀を差し出した。
その手首をゾロは黙ったまま、力任せに掴んで、氷の上に引き上げる。
握った瞬間、その細さにゾロは一瞬、息を飲んだ。
(力が弱エ訳じゃねえのに・・・こいつ、こんな細ッこい腕してたのか)

「へえ、・・・」ずぶぬれのサンジの髪からぽたぽたと雫が落ちる。
引き摺り上げてもらった事に少なからず驚いた様だが、
それでも、素直にその驚きを表わすような事はせず、そのゾロの行動を
まるでからかっているかのように、皮肉っぽく目を細めて
「随分親切だな、今日は」と言った。

「俺の為に海に落ちたんだ。引き上げてやるのが義理ってモンだろ」
「ふーん。俺ア、お前って、ルフィと刀以外はどうなろうと興味がねえヤツだと
思ってたぜ」
「てめえが、俺の何を知ってるって言うんだ」
サンジの言葉にゾロは思わず、苦々しい声でそう言い吐く。
苦いものを無理やり喉に突っ込まれたような気がしてムカムカする。

サンジの顔を見ていると、ますますムカッ腹が立つから、ゾロは目を逸らした。
そして、また、サンジの、片足だけ、その足元に薄い血だまりが出来ているのが
気になった。

(なんで、こいつは俺をこんなにイラつかせるんだ)

ゾロの価値観など、サンジが全然分かっていない。
サンジの体が傷ついて、血を流していると、ゾロは、
自分の力不足を思い知らされるような気がして、腹が立つ事も、
全くサンジは気づきもしない。
(無神経な野郎だ)
独り善がりの一人相撲を勝手に取って、それで1人でイライラしている。
それは自分の欲求が叶わないからこそ、
胸にこみ上げてくる憂鬱なのだと、その頃のゾロにはまだ分からなかった。

好きだと思う相手に、自分と言う人間をもっと知って欲しい。
もっと興味を持って欲しい。

好きだと思う相手を、肉体的にも、精神的にも大事に思う気持ち、
だからこそ、傷ついて血を流して欲しくない、と言う想い。

それが叶えられていないから、ゾロはイラつき、ムカついたのだ。
けれども、自分の感情の底にそんな理由がある事に気付くには、
まだ気持ちが育ちきっていない。

だからただ、ただ、無性にイラつき、ぶつけようのない腹立ちを胸に
抱えている事しか出来ない。

「ちんたら歩くより、少し休んでから歩いた方がいい」
気温はさして低くはないけれど、体に吹き付けてくる海風は、氷に冷やされて、
濡れていないゾロでさえ、寒さを感じる。
ずぶぬれで、少しづつだけれども、体から血を失いつつあるサンジの体はもっと冷えて、
それだけで消耗しているだろう。

夕暮れ近くなって、ゾロは大きな波が凍て付いて、岩の様に固まった氷を
切り出し、風だけは防げるような穴を穿った。
メリー号の見張り台くらいの広さしかなく、立つ事も出来ない程
狭いけれど、その分、自分たちの体温と息で中はすぐに温かく感じる様になる。

「座ってるとケツの下の氷が解けて来るな」
そうしてやっと、サンジは自分の足の傷を自分のネクタイで縛って止血した。
「文句言うな」ゾロはサンジの真正面にどっかりと腰を下ろし、
「何時までも血を垂れ流したまんまじゃ、どんどん歩くのが遅くなるだろうが」
「さっさと手当てしてりゃ、こんな場所でケツ濡らしながら止血するなんて事、
しなくて済んだんだ」と思い切り、迷惑げにため息をついた。

何故、こんな態度を取ってしまうのか、言ってしまってから後悔し、
そして、戸惑う。

自分のことをもっとわかって欲しいのなら、もっと違う言い方をするべきだと
頭では分かっている。けれど、ゾロ自身、
(俺は、こいつに何をどう、わかって欲しいんだ)と言う答えがまだ出せない。

サンジは寒そうに体を縮め、ため息を吐く様にして、自分の手を温めている。
ゾロの言葉に反論する体力さえ惜しいと思っているのか、
それとも、今はゾロと下らない口論をするよりも、凍えている自分の手が
これ以上、感覚を失わないよう、温める事だけを考えて、ほかの事など
どうでもいいのか、ゾロの言葉に何も答えを返してこない。



(・・なんで言い返さねえんだよ)

何一つ、思い通りになどならない。
それがもどかしく歯がゆく、またゾロの心の中に鬱々とした苛立ちが
頭をもたげる。
ぶつけどころのない苛立ちを抱えたまま、ゾロは見るつもりなどないのに、
真正面に座っているサンジを瞳に捉えていた。

こんなに側にいて、にらむような強い眼差しではなくても、目を逸らす事無く
見つめているのに、サンジはゾロを見ていない。
焦点の定まらない、寒そうな目をして、ただ、自分の手を温めるためだけに
意識を集中させている。
とてもとても寒そうで、
血の気が薄い顔色が今まで感じたこともないくらいに痛々しくて、
そう思うのに、何をしたらいいのか、わからない自分がゾロは歯痒かった。

人間の体温など、そう個体差はない筈だ。
その大差ない温度で温められて吐き出される息の温度も、きっとそう変わらない。
1人で震えて凍えるよりも、二人分の温度で温めたら、
かじかんだ手もすぐに温かくなる。
そう思うのに、ゾロは座り込んだまま、サンジを見ているだけで手を伸ばす勇気も、
そうして温めてやりたいと思う理由も自分で見つけ出せなくて、
じっと座っている事しか出来なかった。

今、ゾロが出来るのは、サンジの呼吸の温度を知る事、
それを感じる場所に座っているだけだ。

(なんで、こいつといると、こんなにイラつくんだ)
育ちきれないたくさんの感情に心を乱されている事にさえ気付かず、
ゾロの心はささくれていくばかりだ。

苛立ちと、もどかしい気持ちを噛み殺しながら、ゾロはサンジの手がもとの
温もりを取り戻すのをただ、じっと待っていた。


(終わり)



最後まで読んで下さって、有難うございました。

初々しい感じのゾロでした。
片思いにもなってない感じで。

感想、ご意見などお待ちしています。

戻る 

2004.12.10