「いいわ、それは私がやります。」

そう言って、砂漠の国の王女は侍女の仕事の手を止めさせる。
細々とした私物を整理しようと、その侍女が薄汚れた袋の中身を床の上に広げていた。

「でも、ビビ様。」とまだ、少女の面影の抜けない侍女は思いがけない
主人の言葉に戸惑った様に顔をあげる。

「いいの、それはとても大切な物だから。」
「私の手で、やりたいのよ。」

細かな、乾いた砂が袋の中からサラサラと零れ落ちる。
薄汚れたハンカチ、破れた水筒、どす黒い血のついた使いなれた武器、
およそ役になど立ちそうにない物ばかり、
近い将来、この国の王になるビビにはおよそ、似つかわしくない物ばかりが
ビビの前にある。
それをビビは一つ、一つ、愛しそうに手にとって眺めた。

「皆、どうしているかしら。」

こうして、この国にいる事を少しも後悔はしていない。
これ以上の選択はなかったと思う。
今でも、仲間、いつまでも仲間だと無言で腕の印を示してくれた、
ゴーイングメリー号の優しく、勇敢な海賊達に、ビビは思いを馳せる。

砂煙に汚れた小さな薬瓶をビビは掌で包む様にして眺めた。

「眠れないの」と可愛い船医に言ったら、処方してくれた睡眠薬がまだ、数粒、
残っている。

(あの頃、)自分の未来の事や、国の事、苦しんでいる国民の事、
苦悩する種はいくらでもあった。疲れていて、眠りたいのに、眠れない。
嫌な想像ばかりが頭に浮かぶ。眠っていても、バロックワークスに潜入して、
こなしてきた任務の中で体験した恐怖が、ビビに安穏な眠りの邪魔をする。

アラバスタに近付くにつれ、神経が尖る。
どうして、この人達を巻き込んでしまったのだろう。
成り行きだとは言え、一介の、駆け出しの海賊にしか頼る事が出来なくてそんな
可能性に縋ってでも自分の国を救いたいと言うのは、なんど、考えを巡らせ、
考えなおしても、(私の身勝手だわ)と言う答えに辿りつく。

アラバスタを愛しているのは、自分だけ。

本当に危機が迫った時、この人達は、きっと命を投げ出してくれるだろう。
でも、死なせたくない。

そんなビビの心に薄暗い猜疑心が囁く。

安心しなさい。彼らは、いざとなったらあなたを見捨てて逃げる。
常に自由奔放、それが海賊なのだから。

強く、信頼しているつもりになっているのか、本当に信頼しているのか、
ビビは眠る為にベッドに入って、ナミと枕を並べ、そしてナミが心地よい寝息を
立てはじめたら、いつもそんな不安定な気持ちが込み上げて、眠れなくなってしまう。

もう、リトルガーデンを経て、新しい仲間を加えて、ドラムを過ぎ、
間もなく、アラバスタへの上陸は目の前に迫っているのに、ビビはぐっすりと
眠る事が出来なくなっていた。
だから、チョッパーに言って、こっそり睡眠薬を貰っていたのだ。

詳しい薬の説明を聞いたような気がするが、よく覚えていない。
ただ、軽い抗鬱剤の類だとか聞いた事だけが記憶に残っていた。
それを飲まないと、眠れない、というよりも、それを飲むことによって、
眠れるのだと自分が安心する為に飲む、と言う一種、
全く効果の薄い精神安定剤のような物だった。

そして、いよいよ、砂漠に足を踏み入れる。
水がなく、食料もない。だから、薬も飲めない。
疲労し切っている筈なのに、やはり、ビビは寝むれないでいた。

零下まで下がる砂漠の夜。
ビビは身を竦めながら、仲間が眠っているテントから出た。

誰かが焚き火を焚いている。

「サンジさん?」揺れる朱色と、暗闇の間に影が見えた。
その影の形からして、ビビはそれが誰かを尋ねる。

ルフィや、ゾロの人間離れした強さをビビは見たことがあるが、
サンジが戦うところをビビはまだ、ちゃんと見ていない。
いつもニコニコと笑っていて、気を張っていてもそれを和ませようと色々と
世話を焼いてくれる。どこにでもいる、普通の人間だと思えた。
言葉などいらない、と言う時もあるけれども、言葉が心を揺らす時もある。

大丈夫だよ、俺がいるから。

冗談なのか、本気なのか、わからないけれども、そんな浮ついた言葉も、
サンジが言うと、なんだか、ふわりと心が和む。

そう言えば、
ビビさま、と敬われて呼ばれるか、逆に「ビビ」と親しみを以って呼び捨て去れるかの
どちらかだったが、生まれてはじめて、男性から「ビビちゃん」と呼ばれている事に
ビビは急に気がついた。

派手な容姿だし、どんな女の子にでも媚びへつらうのだろうと思うけれども、
やっぱり、サンジは普通の女の子なら、惹き付けられるモノをたくさん持っていると
ビビは思う。
ゾロやルフィは、確かに強い。顔立ちだって、決して悪くはない。
だが、男性に「堅気」として平穏で、堅実な生活を望む女なら、決して近付きたくない男の類だが、サンジは違う。
(この人に本気で愛された女性は、きっと幸せね)とビビは思っていた。

優しくて、強くて、女の子を喜ばせる言葉をたくさん知っていて、
女の子の為なら、命まで賭ける。甘やかすだけの優男とも違う。

「眠れないのかい?」とサンジは焚き火の向こうからビビの呼び掛けに答えた。
その声は、声だけしか聞こえないのに、優しさと思いやりに満ちている、と
ビビに感じさせる。
「サンジさんも?」とビビは震えながら砂を踏みしめてサンジに近付く。
「こっちにおいでよ。」とサンジは自分のとなりを指差した。

砂に突き出た岩を背に凭れていた。
「まだ、傷が?」ビビは隣に腰を下ろしながら尋ねる。
ドラムで負った背中の傷が痛むのか、それで眠れないのか、と思ったのだ。

「まさか。そんなの、もうとっくに治ったよ。」とサンジは笑った。
「夜露を集めたら、少しくらいは飲み水になるかな・・・と思ってさ。」
「それに夜行性の動物もいるだろ。なんとか、食料になるものはないかと思って。」

ビビは、小さな瓶をじっと見つめながら、その時の会話をつぶさに思い出す。
忙しさに紛れて、忘れ掛けていた恋心が一緒に記憶の中から掘り起こされて、
ビビの脳裏に広がっていく。

あの夜、色々な話をした。他愛のない話だった。
いつもどおりの雑談だった。

静か過ぎる砂漠の夜、時折、砂が巻き上がる風の音と、焚き火がはぜる音、
それと自分とサンジの声しか聞こえない。
薄い炎の光りに照らされたサンジの顔、こんなに間近で見たことがなかった。

ふと、会話が途切れた。

サンジがほんの数秒、ビビの瞳をじっと見ていた。
一瞬、サンジの青い眼の中に今まで見たこともない真剣な光りが走った。

「サンジさん。」
隣同士に座って、ほんの数センチ、手を伸ばせば、サンジの指に触れる。
触れたいと手を伸ばすまでの勇気が出せなくて、ビビはサンジの名前を呼んだ。

サンジは黙ったまま、ビビの顔を見つめている。
サンジの胸の中の動悸がはっきりとビビに聞こえていた。

サンジの鼓動の音ではなく、すぐにそれが自分自身の鼓動だとビビは気がつく。

とても不安で、眠れないんです。
大丈夫だよ、安心して眠っていいんだよ、と言って。
焚き火よりも温かい場所で眠りたいんです。

そんな言葉がビビの口から吹き上がりそうだった。
それを押さえるには、唇を塞ぐしかない。

出来るなら、自分の掌で塞ぐのではなく、自分の心に吹き上がってくる
たくさんの、はしたない言葉を形良い、優しい唇で拾ってほしい。

そんな思いがビビの瞳から溢れていた。
切羽詰まった状況で、張り詰めていて誰にも弱音を吐けない今、
ビビは素直に甘えられて、心を休ませる場所が欲しかった。

普通の女の子だったら、きっとサンジは自分を抱き寄せてくれただろう。
そして、口付けて自分の気持ちを優しく受けとめてくれたに違いない。
あの時、自分を見つめていたサンジの瞳には、くっきりとルフィやゾロとは違う、
仲間として見る目ではない気持ちが篭っていた。

「膝枕、してあげるよ、ビビちゃん。」

サンジは少しだけ溜まった水分で、ビビに例の対鬱剤を飲ませることも出来た。
けれど、そうはせずに、ナノハナで買った服についた、砂埃を払って、
ビビにそう言って自分の膝をポン、と叩いて笑った。

無理に作った笑顔。
はじめて、ビビはそんなに辛そうに笑うサンジを見た。

今、気持ちを伝え合って、そして、何が残るんだろう。
どう考えても、終わりしかない恋に踏み出す勇気ない二人がそこにいた。

「そんな、悪いわ。」とビビは笑って首を少しだけ振った。
「いいんだ、俺にはこれくらいの事しか出来ないんだから。」

この国を出るまでは、どんな事があっても君を守る。
けれど、それは仲間として。
自分が恋した女が眠れない夜に飲む、
トランキライザーの代わりになる事しか出来ない男だと、短い言葉にそんな
サンジの想いが含まれていた。

「どうぞ、お姫様。」そう言われて、ビビはサンジの膝の上に頭を乗せる。
見上げたら、吸い込まれそうな星空、息を飲むほど夥しい星屑が広がっている。

「サンジさん、砂漠の星は綺麗でしょう。」とビビはサンジの顔を見上げる。
きっと、さっき見た、辛そうだったサンジの笑顔と同じ様に今、自分も同じ様に
辛そうに無理に作った笑顔で笑っているとビビには判っていた。

「うん、怖いくらいだ。このまま、星空に飲みこまれそうな気がするよ。」

身を丸めて、ビビは瞳を閉じた。
まだ、サンジの温もりが残っているブランケットがビビの体にふわりと被さる。

かじかみそうな指先だけでも触れたら、きっと今ビビの心にある、歳相応の女の子が
宿す恋心をサンジは悟ってくれるだろう。そして、サンジの心にある気持ちも、
ビビに伝わった筈だった。

だが、二人はこんなに体を寄せ合っているのに、同じ気持ちを感じあう事に怯えて
動けない。
本当はもう、お互いの気持ちを知っているのに、自分の気持ちが零れ出ないように
息を潜める。

もしかしたら、明日、ユバに着き、そして、アルバーナへ向かって、
クロコダイルと直接戦う事になるだろう、数日後には二人とも命を
落としているかもしれない。

ふと、ビビの心にそんな考えが浮かぶ。今、言わなければ、後悔するかもしれない。
ビビは目を開いた。

サンジさん、と口を開くよりも先に、サンジの手が優しく、ビビの髪を撫でた。

「大丈夫だよ、ビビちゃんが悲しむような事にはならない。」
「何も心配しなくていいよ。」
それは、魔法の薬のように、その言葉はビビの胸の鼓動を沈める。
こんなに自分の気持ちを判ってくれるサンジなら、今だって、きっと伝わっている。

伝えたところで、余りに刹那で先の見えた恋だった。
冷たい髪を暖めるようにサンジの手がビビの髪を撫で、そして、サンジの言葉は
その掌にだけ篭っていた。

大好きだよ、ビビちゃん。

そして、あの優しい唇からは、「おやすみ、ビビちゃん。」と言うありきたりな優しい言葉だけが零れてくる。

美味しい料理を作る魔法のような手を握り返せば、きっとその気持ちに答える言葉が
伝わる筈なのに、ビビは自分の体を抱いて、サンジに触れたがる自分の手を
封じ込めた。

震える声がサンジに伝える。

私もよ、サンジさん。

「おやすみなさい、サンジさん。」

あの夜から、この瓶の中の薬は減っていない。
もどかしくも、甘い気持ちに揺れて、切なくても、哀しくなかった恋の名残が、
今だ、砂埃にまみれて、小さな瓶に詰っている。

ビビは暫し、その小さな瓶を見つめて想いを馳せる。
懐かしい日々、懐かしい仲間、懐かしい、

あの頃の自分にとって、世界一、優しく温かい抗鬱剤だったあの夜の思い出を。