「外は酷い嵐ね。海はさぞ荒れていることでしょう。」
そう呟いて、激しく雨が打つ窓を眺めて、その修道院の尼僧は外を眺めていた。
視界の端に、見なれた外の風景の中にそぐわない影を見たような気がして、
目を細める。
その影は、ヨロヨロと歩いてはつまづき、少しずつ歩を進めながらこちらへ
近付いて来る。そして、その後からは。
(海軍・・?)海軍の将校とは顔見知りだ。
その経験で海兵の風貌を見知っているから、雨の中、ぼんやりと見えた
数十人の人影を見て、すぐに追手の素性を悟った。
となれば、追われているのは賞金首の海賊だろう。
だが、近付いて来るその影が若い女性だと知るや、すぐに玄関へと駈け出した。
自分がズブヌレになるのも構わずに、尼僧は雨の中を飛出し、体中血まみれのその
少女を抱き上げた。
「しっかりなさい、あなた!」と怒鳴ったら、朦朧としていた彼女の瞼が
ゆっくりと開く。
「追われてるんです。助けて。」と言うや、まだ20歳には幾年かある少女は
尼僧の腕の中で気を失った。
彼女は海賊だった。歳は15歳。
名前はナギ。
「なぜ、海賊なんかに。」とナギを庇った尼僧が尋ねた。
「好きで海賊になったんじゃないよ。」ナギは手当てを受け、食事を与えられ、
海軍から庇ってもらったと言うのに、動けるようになった途端、
尼僧達の親切に対して、反抗的な態度を取った。
「生きて行く為に仕方なかっただけさ。」
「あたしは。」
(父さんを探して海に出ただけなのに。)
ナギが10歳の時、既に兄弟が6人もいて、母親のお腹の中には
まだ父親が誰か判らない赤ん坊がいた。
どの兄弟も父親が違う。海軍の将校に金で一時の愛を売る事を生業の母親は、
禄に子供に愛情を注がなかった。一番上の姉はナギが物心ついた頃、泣きながら
中年の男に連れて行かれて、それきり会うことはなかった。
兄達も文字を学べるくらいの歳になるとどこかへ追い出されて行った。
「食べ物が欲しいなら、自分でお金を稼いでおいで。」と言い放つ母親は
海軍の将校達に気にいられる為に自分の身を飾り立てるのに金を使い、
ナギ達はいつも、腹を減らして育った。
ナギが10歳の時。「女の子はこの子が最後だから、どうしようかと思ったんだけど。」
「腹の子が生まれるまで商売は出来ないからやっぱり引き取ってもらう事にしたわ。」と母親と兄や姉を連れて行った男とが自分を目の前にして話をしているのを
聞いた。
「コバト、あんたもよくやるねエ。腹の中の子供の父親、また海軍の将校さんなのかい。」
「そうでしょうね。私は海賊とは寝ないから。」と母親は男の差し出した金を数えながら答えている。
(あたしも売られるんだ。)売られた先にどうなるのか、薄々ナギは気がついていた。
仕方がない。それで、弟達が飢えずに済むなら我慢するしかない、と覚悟は出来ている。
でも、産まれてくる赤ん坊の顔は見たいと思った。弟達の面倒をずっと見て来て、
ナギは赤ん坊の愛らしさを知っている。それに自分がいなくなった後、
弟達の面倒を母親がちゃんと見るのか、とても心配だった。
「かあちゃん。」
「赤ん坊が産まれるまで、あたしが稼ぐよ。だから、もう少し家にいさせてよ。」
かっぱらい、摺り、盗み、10歳の子供の知力と体力で出来る事はやった。
そんなある日。
足腰の弱い年寄りのカバンを引っ手繰って、全速力で逃げる途中だった。
「こら!そのカバンを返しなさい!」といきなり襟首を引っ掴まれて、
子猫の様に持ち上げられた。
(海軍のっ)
青いジャケット、青い髪、やたらと背の高い男にナギは抱き抱えられる。
「お前のお父さんは海軍の将校さんなのよ。」と母親は誇らしげに言う。
頭の中に勝手に描いていた理想の父親の形が目の前にあった。
カバンを盗んだ事を責めずに、その海軍の将校らしき背の高い男はナギに
焼き立てのパンを買ってくれ、
「カバンを取られたおばあさんがどれだけ困るか」を話してくれた。
「あたしも、困るの。」とナギは自分がカバンを盗んだ訳を話す。
腹を空かした弟達がいる事。
自分が金を稼がないと明日にでも得体の知れない男に売られる事。
「それは、困るね。」と男はまるで自分もその厄介ごとを背負ったような顔で
言い、二人で焼き立てのパンを抱えたまま、途方にくれて道端のベンチの上に座った。
「明日、ここに弟達皆、つれておいで。待ってるから。」
その時はどうしていいのかわからなかったらしく、その男はナギにそう言ってから
立ち去った。
(口ばっかりで助ける気なんて無いくせに)とナギは思った。
身の上話を聞いてもどうしようもないから、男がその場を逃げる為にそう言ったただけだと思った。大人は嘘吐きで腰抜けだと言う事を照明する為に、ナギは翌日、
弟達を引き連れてその場所へ行く。
どうせ、来てはいない。そう思うのに、来ていなかったら多少は失望するだろう。
だが、大人など身勝手なモノだとつぶさに見てきたから、今更それを知ったところで
さほど落ち込む事も無い。
「ナギちゃん、」ナギは約束の時間よりもずっと早くその場所に行ったのに、
「ミルクさん。」海軍の中佐だと言う「ミルク」はすでに私服でナギ達兄弟を待っていた。
幼い弟達は子供好きのミルクにすぐに懐いた。
ミルクに抱かれて振り回されたり、肩車されたり、大きな体によじ登ったり、
キャッ、キャッと子供らしい歓声をあげて笑う弟達を見て、ナギも嬉しかった。
1週間ほど毎日、そうしてナギ達は決った時間にミルクと遊ぶようになった。
食べ物を食べさせてくれる、という事もあったけれども、ミルクとの時間は
母親の折檻にも飢えにも怯えなくて済む。常に笑って、手を繋いで、
じゃれる時間は楽しかった。
「ライさん、お父さんになってよ。一緒に帰ろうよ。」と一番末の三つになる弟が
別れ際にミルクにそう言ってしがみ付き、駄々を捏ねて泣いた。
「じゃあ、お母さんに頼んで見ようか。」とミルクは一番、歳上のナギに
冗談めいた視線を投げて笑った。
その日、弟達が少し離れた場所で遊んでいるのを眺めながら、ナギにミルクから
少しだけ「大人の話し」を聞いた。
「僕には赤ちゃんがいて、奥さんもいたんだけど、」
「赤ちゃんが病気で死んでしまって、奥さんとも別れたんだ。」
「でも、ナギちゃん達は皆元気で、ずっと一緒にいたいと思うよ。」
「お母さんがいいって言ったら、ライさん、お父さんになってくれるの。」
「いいよ。」
ナギの言葉にミルクはなんの迷いも無く答えた。
「ホントに?」
「じゃあ、今からでもお母さんに会う?」とナギはまだ、ミルクに対して
大人への不信感を払拭出来ないひねくれた感情のまま即座にそう聞き返す。
「いいよ。会いに行こう。」
どうして、11歳も年下のミルクがコバトと言う海軍でも有名な娼婦に、
結婚を申し込んだのか、周りは不思議がった。
「生真面目なだけにああいうやり手な女に引っかかりやすかったんじゃないか」
「なんで寄りによってあんなアバズレと。」
「何か弱みでも握られてるのか」
「自分から苦労を背負い込むなんてお人よしにも程がある。」悪口を言う輩よりは、
ミルクの事を心配する声の方が圧倒的に多かった様だ。
コバトに否やがある筈も無い。
海軍の中佐の妻となれば、住む所も安全な駐屯地、子供達も着る物にも食べる物にも
不自由しないし、教育も受けられる。
「一緒に暮らせる訳じゃないですが、」海軍の中佐ともなれば、船の上にいる時間の方が圧倒的に長い。自分の家があっても一年のうち、そこで暮らすのはほんの数日だと言う事も珍しい事ではない。だから、ミルクはあらかじめ、コバトにそう言った。
「ここに住む以上、あなたの子供達は僕の子供達でもあります。」
「僕の妻、という事はニの次で構いませんから、子供達が楽しく暮らせるように」
「努力して下さい。」
「ええ、仰る通りにしますわ。」とコバトは頷いていた。
その顔には女くさい媚びが滲み出ていて、娘であるのに、ナギは思わず目を逸らす。
ライさん、とミルクを呼ぶ母親の甘えたような声が癪に障った。
自然、母親に対して、反抗的になる。
言いつけに対して聞こえない振りをしたり、家の雑用をわざと手荒く、雑にしてみたり。「そんな態度は良くないよ。」と字を教えてもらいながら、ミルクに叱られた。
「もうすぐ、赤ちゃんが産まれるんだから、お母さんに優しくして上げないと。」
さほど露骨に反抗的な態度を示していた訳でないのに、自分が母親に反抗心を持って
いる、そんな些細な事をミルクはちゃんと見ていてくれた。
注意されたのに、ナギは嬉しくなる。そして、じゃれる様にミルクに意地悪く言い返す。
「ミルクさんだって、」
(ううん、ミルクさん、って呼ぶのもオカシイな。)と思ったけれど、恥かしくて、
言えなかった。ミルクに「お父さん」と呼べない。お父さん、と呼ぶにはミルクは容姿も歳も若過ぎる。
「お母さんに優しく無いみたい。」と手に持ったペンを弄びながらそう言って
上目遣いにミルクを見ると、ミルクはナギの書いた字の正誤を確認しながら、
「女のヒトに優しくする方法を知らないだけだよ。」とどうでもイイ事のように
淡々と答えた。
そのミルクの膝に一番下の弟がよじ登ってくる。それをミルクは軽々と抱き上げた。
ナギの隣では一番上の弟が、ミルクの書いた簡単な数字の計算を一生懸命問いていて、
真ん中の弟はミルクの隣でナギと同じに字を書いている。
「赤ちゃん、男かな、女かな。」と三人が勉強に集中している間、ミルクは幼い弟に
話し掛けていた。
子供と一緒にいる事がミルクにとっては一番の幸せらしかった。
父親になり、家庭を持つと言う事でミルクは自分の中にある、何かを埋めようと
している。誰か、思う存分、愛を注ぐ相手を探して、行きついたのが
愛に飢えた子供達だった。
需要と供給がぴったりと重なり合って、ミルクの家庭は一見温かに見える状態を
保てていた。
赤ん坊が産まれた後、すぐにミルクは長い休暇から明けて、再び長く家を
開ける事になったが、それぞれの子供達にあてて、常に定期的に手紙を寄越した。
母親のコバトには、それぞれの子供達の手紙の最後の方にちらりと
「お母さんの言う事を良く聞いてしっかり留守を守っててください」くらいの事しか
書かれていない。
夫婦中は冷えていると言うより、最初から存在しないのと同じだった。
「ルリ、お父さんから手紙の手紙、読んで上げるね。」
まだ、首も座らない赤ん坊を相手にナギは何度もミルクからの手紙を読んだ。
産後三月も経つと、コバトはまた、子供を放り出して出歩き始め、
留守がちになっていて、この赤ん坊の世話はもっぱらナギがやっている。
ルリ、と言うのが、ミルクが亡くした赤ん坊の名前だと知っていたから、
この子が本当にミルクの血を受け継いだ子のように思えて、ナギは
羨ましく、そしてこの妹が愛しかった。
妹を可愛がれば可愛がるほど、自分も本当にミルクの子供になれるような
気がした。
拙い字で一生懸命、ミルクの手紙に返事を書く。
「字が綺麗になったのでびっくりしました。」と言う返事を読んで
嬉しくて、その夜は眠れなかった。
真っ黒な母親譲りの髪と瞳を鏡で見ては、溜息をついた。
(青い髪になりたい。紺色の目になりたい。)誰から見ても、ミルクの娘だと
わかる容姿になれたらいいのに、と出来もしない事を考えた。
そうして、ルリの最初の誕生日が来る前に、
「来月には帰れそうです。」と言う手紙が着いた。
その頃から、コバトは家に知らない男を連れて来てはルリが泣いているのに
寝室に篭ってしまう日が続いていたが、ナギはそんな事はどうでも良かった。
1日が早く過ぎて、ミルクが帰って来る事だけを考えていたからだ。
「ライさんが帰ってきたら、みんなで言おうね。」と弟達を相談している。
「お帰りお父さんって。」