嫌な感情を抱えている時ほど、時間が過ぎるのが遅い。

(さっさと)謝った方がいい、とゾロは思う。
可笑しな事に、死ぬ事さえ恐いと思った事がないし、肉体を傷つけられて
痛む傷など数えきれないほど負って来たのに、

これほど、本気で痛いと思った事がないと思うほど、サンジが殴った頬が痛んだ。

自分の言葉で怒らせた、その事よりも、自分の言葉と行動がサンジをどれだけ
傷つけたか、その自責の気持ちの所為で、頬の打撲がギシギシと痛みを
ゾロの心に噛み付き、痛みの感覚を増大させる。

だが。

(あのへそ曲がり野郎は、俺が謝ったらますますヘソを曲げるんじゃねえか。)とも
思った。

コバトは、もうすぐ海軍に引き渡す。
それが済んだら、土下座でもなんでもして、自分の非を詫びた方がいい。

問題を先送りした訳ではなく、それが一番、素直にサンジは謝罪を聞く気になり、
ゾロの謝罪を受け入れてくれるかも知れない。

(そうだ、今は近づかない方が話しをややこしくしなくて済むかも知れねえ。)

サンジの複雑な性格を知りつくしているからこその判断で、
決して間違ってはいない。最善策だとさえ言える。
後、ほんの少し辛抱すればきっと、機嫌を治せる、とゾロは自分に言い聞かせ、
追い駆けたい気持ちをグっと堪えた。


見張り台から勢いに任せて滑り落ちる様に降り、サンジは腸が煮えていると思うほど、
全身の血が怒りで沸騰しそうだった。

逃げ込む様にキッチンに入って、ドアに背を押しつけるとそのまま、
ズルズルとしゃがみこんで頭を抱える。
噛み締めていた煙草がギチギチと音を立てていた。

(クソ、)

今まで、死にそうになっても、どんなに辛い目に遭っても、
誰よりもゾロが大事だと思う気持ちも、そんな自分である事も、
後悔した事だけはなかった。

が、今サンジは目の奥がきしむ様に痛んで、その痛みを洗い流す水が
絶対に目の表面に滲まないように、掌の付け根でグイグイと自分の閉じた瞼を
押した。

押しながら、初めて思った。

(人なんか、本気で好きになるモンじゃねえ。)

ゾロは何も悪くない、と殴っておいてまだ思っている。

誰も悪くはない.
こんな感情に勝手にがんじがらめになっている自分だけが
バカで愚かで滑稽なだけだと判っている。
それなのに、

この情けなさも、怒りも、悔しさも、胸の中で膨らむ一方でどこにも吐き出せない。

「・・・ク。」喉の奥で慟哭のような音がなる。そんな自分さえ忌々しい。

そして、サンジも思っていた。
嫌な感情を抱えている時ほど、時間が過ぎるのが遅いのだ、と。

翌朝もコバトはゾロに纏わりついていた。

「私を海軍に引き渡すって本当ですか、ルフィさん。」とやっと、着岸の準備を、と
ナミが指示した後、コバトは心細そうにルフィに尋ねた。

「ああ、そうだ。」とルフィはあっけらかんと答える。
「お前エの行きたいところまで俺達が送るより海軍に送り届けて貰ったほうが
安全だろうしな。お前エも、海賊船の不自由な生活向きじゃねえし。」

だが、コバトはルフィに懇願するような媚びた表情を浮かべて、
「私、この船に乗ってから一度も不自由な生活だなんて思ってません。」
「また、知らない人ばかりのところへ放り込まれるくらいなら、どれだけ危険でも、」
「この船に」いさせてください、と言う前に、

ルフィは、コバトの言葉を最後まで聞きもせずに 全く悪びれない、いつもの
飄々とした口調で、「迷惑」と言い切った。

「俺の船は客船じゃねえ。冒険出来ねえヤツを乗せとく余裕なんかねえから。」

ルフィの言葉にコバトは表情を凍らせる。
それでも、
「目が見えないから、ですか。」と涙声をどうにか搾り出してルフィを見つめた。

「お前エは海賊には向いてねえ。目が見えるとか見えねえは関係ない。」
「俺は、一度決めた事は変えねえ。泣いたってダメだ。」

サンジはすぐ側でその会話を聞いていた。
ルフィの口調は少しもきつくはないが、思い遣りもないと感じてしまう。

ゾロの兄弟弟子でもあるし、
しかも、ついさっきまではコバトが 
ルフィに「一緒に連れて行ってください」と強請れば快諾してくれると
勘違いするのも無理がないほど、仲良さげに会話していたのだから、

コバトが面食らって泣き出すのも無理はないとも思った。

「ルフィ、そんな言い方しなくてもいいだろ。」と思わず口を挟んでしまったが、
「どんな言い方したっておんなじだ。」と言い返されて、サンジは咄嗟に言葉が返せなかった。

「そりゃ、そうだけどよ。」なにも、泣かさなくてもいいじゃねえか。
可哀想に、とサンジが言うと、

ルフィは眉間に珍しく皺を寄せてサンジを軽く睨んだ。
「女の嘘泣きはキライなんだ、俺は。」と言うと、プイ、と顔を背け、そのまま
背を向けてサンジとコバトを置いて、フィギアヘッドの方へ歩いて行ってしまった。

「コバトちゃん、」と力なくうな垂れているコバトにサンジは気遣う様に
優しく声を掛けた。

「サンジさん、ゾロはどこにいますか。」と
焦点のあまり定まっていない瞳を潤ませてサンジに尋ねた。

年下ながら、ずっと思い募ってきたゾロとの別れが迫っている。
万に一つの可能性でも、縋りたかっただけなのに、ルフィはそんな女心を全く
労わりも思いやってもくれなかった。

海賊に浚われて、死んだ方がいい、と思うほどの仕打ちを受けたけれど、
肉体関係を持つに至って、男達を喜ばせる術を覚えた頃には、海賊達は
体を抱いている間だけは優しく、コバトを扱うようになったのだ。

男は体さえ差し出せばいくらでも優しくなる。
そんな風に勘違いしていたところへ、ゾロはただ、手を繋ぐだけで優しい。

この船に乗っている海賊の男達は、皆、無条件に優しかった。
その中で、見知った温度のぬるま湯にどっぷり浸りきるように振舞うのは心地良かった。

それなのに、その場所からこんなに簡単に放り出されるとは思わなくて、
衝撃を受けたのだ。

「ゾロは今、忙しくて、」とサンジは事実を言う。
下船する準備にゾロは忙しく船内を動きまわっていて、その作業を中断させるのを
判っているから、サンジは他意もなく、コバトを宥めるように

「碇を下ろすまでは皆忙しいんだよ。キッチンで港に着くまで待ってて。」と
優しく言葉を掛けた。

すると、コバトはまるで、ルフィに傷つけられた心の鬱憤を、
一番ぶつけやすいところへぶつけるかのように、サンジに対して腹立ちをぶつけて来た。
「ゾロの仕事をサンジさんが替わってあげればいいじゃないですか。」
「もう少ししたら、私、二度とゾロに会えないかもしれないんですよ。」と、強く詰め寄る。

サンジにはサンジがしなければならない仕事があり、人数の限られているこの船では、
一人が二人分の仕事をすると大きな負担になるし、不可能な事もある。
例えば、帆を巻くとき、一人では時間が掛るし、その分、予測もしない風に煽られて、
マストから落下したりする危険もあるし、
船のバランスを取るために、左右同時に微妙な力加減で、
ロープを引っ張らねばならなかったりするから、接岸し掛けたこの状態で
コバトの我侭を通すのは かなり難しい。

それでもサンジはやっぱり、女性の我侭を断わる事は出来なかった。
女性の希望を何よりも優先する、と言うのはどんな時でも遂行すべきだとごく自然に
判断する。

「判った、ここで待ってて。」となるべく、明るい声を装って答えた。
本当は、ゾロの顔を今は見たくない。

と、言うよりも、醜態とも言える自分でも、認めたくなかった嫉妬を露にした後、
押し込めても、押し込めても、表情にその醜さが滲んでいないか、
それをゾロに悟られ、また、指摘されないか、を考えると

ゾロに自分の顔を見られたくない、と言うのが本心なのだ。
けれど、コバトがそんなサンジの気持ちを知る筈もなかった。

メインマストの帆を畳む為にロープを登り掛けていたゾロに、サンジは下から
いつもどおりの声で呼び掛ける。

(酷エ面だ)と腫れた頬を見て、苦々しく思った。
何も悪くないゾロを殴ってしまった自分に対して、そう思った。

だが、今更謝る気にもならない。
「コバトちゃんが呼んでるぜ。」

サンジがそう言うと、ゾロは黙ったまま、驚いた表情を露骨に現してサンジに向き直る。
腹の底を探り合うように黙ったままで二人はお互いの顔を見つめていた。