ライと別れて二日経った。
サンジを乗せた客船は、順調に航路を進んでいる。

先に、先に、考えて結局、人を傷つけてしまうことを
何一つ避けられなかった。

ライを、ジュニアを、ゾロを傷つけたけれど、
それでやっと、本当に大事な物、何を引き換えにしても
守らねばならない物を思い出した。

「あなたが幸せでない限り、誰も幸せになれない。」のだ、と
ライは教えてくれた。

どうすればいいのかはまだ わからない、
だからと言って、逃げても、言い訳をしても、何も得られない事だけは
確かだ。

(自分を責めることだけは、)もう、しないでいよう。
デッキで潮風に吹かれながら、サンジはオールブルーへと続く水平線を
眺めながら思う。

傲慢に開き直るのではなく、無駄に罪を背負って、余計な悲しみを
撒き散らす愚行は決して繰り返さない。

寂しいからではなく、生まれ変わったような清清しさの中、
ゾロに(早く会いたい。)とサンジは思っている。

自分が間違っていたこと、離れてみて、また気がついた、
確かにゾロを大切に思う気持ちの熱さと深さを、

まだ、何も解決していない状況ではあるが、それでも、
ほんの束の間で構わないから、

自分の言葉で、声で、しっかりとゾロに伝えたいと、
その為に、早く、ゾロに会いたい。


「あの、」

サンジの背中に、控えめな若い女性が声を掛けて来た。
振りかえると、黒衣にロザリオを首から下げた修道女がサンジを
清らかな瞳で見つめている。

「初対面の方にこんな不躾なお願いをして大変、恥かしいのですが。」と
言うので、サンジは、ニッコリと微笑み、
「何か困った事でも?」と尋ねた。

「実は、先ほど寄港した島で、子供の掏りに遭いまして、」
「旅費を全て、失ってしまったのです。」
「お返しする約束は出来ないのですけれど、」

彼女と同行しているのは、かなり高齢の修道女で、
無賃乗船で叩き出されでもしたら、そこで寿命が尽きてしまうかも知れない、と言う。

「どうしても、オールブルーに行かねば、と強く願っていらして、」
「構いませんよ。」とサンジは気安く、彼女らの旅費を出す事を承知する。

「まあ。」
「あなたは。」

その若い修道女に誘われて、彼女達の、サンジよりもずっと
格式の低い客室を訪ねて、サンジも、その老修道女も驚きの声をあげた。

かつて、ゼフの恋人だった女性。
サンジが唯一、「母親」に等しい存在だと思っていた女性だった。
「マダム・クレイン」、今は、シスターテレサ、という名の修道女だが、
もう、70歳近くなっている筈だ。

「随分、ご無沙汰してしまって。」とサンジは
粗末なソファに深く腰を下していた、サンジにとっては今でも
「マダム・クレイン」である修道女の前にひざまづいて、
皺だらけの手をとって、キスをする。

「随分、スマートになりましたね。」と笑ったけれど、
あのふくよかで、生命力に満ち、ゼフでさえ怒鳴り散らしていた頃の
面影は薄れて、小さく、やせ細ったクレインを見て、
サンジは哀しさを禁じえなかった。

「立派になったこと、」と声だけは変わらないけれど、
その品の良い声も、哀しいほど清楚で、弱い。

「なぜ、」
年老いた、だけではなく、クレインは一見して病がちのようなのに、
この危険なグランドラインを命懸けで、旅してまで、
オールブルーを目指しているのか、サンジは聞いた。

自殺行為に等しい暴挙だ、とサンジは思う。

「やっぱり、私に取っては神様よりも、あのクソジジイの方が
大事だったみたいね。」とクレインは笑った。

「あの人が憧れた海を見ないで死ねないし。」
「それに、夢を見たの。」

クレインの息子は海軍の兵士だった。
その息子は、「クック海賊団」との戦闘で海に命を散らした。

ゼフが直接殺した訳ではないが、同じ事だと言ってもいい。
そんな間柄だと知って、クレインの方から、ゼフの前から姿を消したのだ。

そして、幾年月かが流れ、サンジが海賊になって偶然再会した時に、
神にその身を捧げても、
ゼフと出会った事、愛した事を喜び、だからこそ、
その苦しみを二人で越えずに逃げた事を後悔している、と語ってくれた。

「ジジイの夢を?」
「ええ。」

息子をなした夫よりも、クレインは、生涯を貫いて、
そして、死に際までに、ゼフへの想いを抱いてくれている事が
サンジは嬉しかった。

彼女の心の中にはまだ、ゼフが生きている。
彼女の側にはゼフの名残が薫るような気がした。

「どんな夢を見るんですか。」とサンジは優しく尋ねる。

「あなたがチビナスだった頃の景色で、バラティエで、」
「旅に出るから、さっさと準備をしろって偉そうに急かすの。」
「自分の事は自分でやればって言い返すと、」
「自分でやったら忘れ物をするだろうって怒るのよ。」
「お前もグズグズしないでさっさと荷物をまとめろって。」

そんな夢を何度も見る、とクレインはゆったりと、静かに
おだやかに話す。

「ああ、とうとう私も天に召されるのね、って思うんだけど、」
「どうもそうではないようなのよ。」

「どこに行くんですか。」と尋ねると、ゼフはニヤリと笑って、
クレインの手を握って歩き出す。
「嫁に貰ってやるから、黙って付いて来い。」と言う時もあれば、
「世界で一番、綺麗な海を見せてやる」と言う時もある。

「チビナスが待ってるから」と、その言葉でクレインは
ゼフがオールブルーへ自分を呼んでいるのだ、と解釈し、

「どこで野垂れ死にするか知れないと思ったけれど、」
「ここまで生きた上にまた後悔するのは真っ平だと思ってね。」と
明るく笑い声を立てた。

「神様はいるのかも知れませんね。」とサンジは、
「この船にあなたが乗っている事、俺に声を掛けてくれた事、」
「全てが偶然だったんだから。」と静かに微笑む。

「家族は?」とクレインは悪びれる事無く、サンジに尋ねる。
「海賊稼業が長かった所為で、」とサンジは首を振る。

「マダム、何があってもオールブルーには、必ず、お連れしますよ。」
「そして、俺の料理をたっぷり食って、昔みたいにふっくらと」
「元気になって貰います。」

オールブルーに帰ったら、まだ、大事にしまってある、
ゼフとクレインの結婚指輪になる筈だった指輪を渡そう、とサンジは
白くて、皺だらけで、握り返す力も弱いクレインの手を擦りながら、
考える。

このめぐり合わせが「神様」の仕組んだ事なら、どうか、
クレインの命をもう少しだけ、この世に留めて欲しい、と願わずにはいられない。

話しこんでしまって、その夜はすっかり更けてしまった。

誰もいない夜の甲板に出て、自分の部屋へ向かってサンジは
歩きながら、海の上一面の星を見上げる。

「神様」が無理なら、

(せっかく、呼んだんだから、責任持てよ、クソジジイ)と心の中で呟いた。

(きっと、これが本当に最後だろう。)と思う。

どうしようもないほどに、苦しみ、悲しみ、のたうち回って、
そこから逃げようなく、追い詰められた時にゼフの魂はサンジの前に
手を差し伸べてくれる。

ゼフは、クレインを呼び寄せた。
二人の魂は、きっとオールブルーで一つになって、天へ還って行くに違いない。

きっと、なにもかもが上手く行く。
サンジはこれから先、何が待っていようと必ず、
自分の望む幸せの形を見出せるような予感と期待と決心を同時に噛み締めていた。

夜がとても深かった。

一時も早く、一秒でも早く、サンジは帰りたかった。
自分の場所へ。

「世界政府の決めた事だから、」
自分の母親とも慕う修道女と一旦別れて、サンジは、直線距離で、
激しい風に波が時化るオールブルーをひたすらに進んだ。

転覆するかもしれない。
そして、難破するかもしれない。
そんな恐怖はサンジの前を見据える目を曇らせなかった。

自分から飛出したくせに、大事な者に、大事な者達の姿がある場所へ
帰りつく為に躊躇いも迷いもなかった。

どれだけ批難されても、責められても構わない。
自分の間違いに気づいた今なら、きっと素直に、心から、その非を詫びれる。

ズブヌレになり、やっと、自分の家のある島へと船を寄せた。
吹きつける雨風がどれだけ強くても、サンジの足を止められない。

明かりが消え、誰もが寝静まった家。
ザワザワと草木がざわめいている音が庭から聞こえる。

馴染んだ家のノブに手を掛ける一瞬前、サンジは唐突に立ち止まった。
思いきりよく、ドアを開く事が出来なかった。

鍵を取り出す事を忘れるほど、サンジの頭には閃光のように、
一つの怯えが走ったのだ。

それ、をゾロに無理強いしようとしたのは他ならない自分なのに。
アトリの傷を癒す為に、彼女がゾロを望んだから、

自分が姿を消す事で、アトリとゾロの距離が縮む可能性を試した癖に、
本当に、
この家で、ゾロとアトリが楽しそうに暮らしていたなら。
同じ寝室で、当たり前のように抱き合っていたら。

そう思うと、サンジはドアを開くのが恐ろしくて、立ち竦む。
けれど、それはほんの数秒の迷いだった。

この嵐の海は、凄まじい風力でまっすぐにサンジをここへ
信じられないほどの早さで運んでくれた。
その事だけでも、自分とゾロの絆が人間のちっぽけたくらみなどで
左右されるような物ではない、と考えなおす。

全てが、運命なんだ、と自分に言い聞かせて、サンジはドアに手を掛けた。

(鍵が)閉まっていなかった。

当たり前のように、誰かが帰って来るのを待っているかのように、
玄関には小さな灯りが灯っていた。

ジュニアとゾロの服がリビングに脱ぎ散らかされている。

それを見ただけで、帰ってきた、その事を強く実感して、
サンジは目頭が熱くなった。

そっと、ジュニアの部屋まで行って、ドアを開くと、
やっぱり、鍵が掛っていない。
個室を与えてすぐに、自分で勝手に鍵をつけていて、眠る時は
いつもそれを締めていたのに。

ほんの僅かな隙間からサンジは顔を半分だけ覗かせる。

ジュニアの穏やかな寝息を聞き、薄暗い中で、壁に掛けられているコックスーツを見て、
張詰めていたなにかが溶けるような気がして、無意識に温かい溜息を漏らした。

眠りを妨げないように、サンジは静かにドアを締める。

そして、足音を立てないように、気配を殺して、自分の寝室のドアを
静かに開いた。

その姿がいつものように、当たり前のように、なんの違和感もなく、
そこにあるだけ。

それなのに、目尻に膨れ上がるほどに堰き止められていた温かな雫が
サンジの目から零れ落ちた。

静かに眠るゾロの伏せられた瞼も、髪も、寝息も、自分のベッドの上に在るものの、
なにもかもが、また、ゾロへの思いを強く自覚させる。

離れなければ、自覚出来ないようなバカではないつもりだったけれど、
離れたからこそ、やはり、

誰にも、自分以外の誰にもゾロに触れて欲しくないと言う想いが込み上げてくる。
こんなに、強く、深く、想っている事を普段は、

離れている寂しさを堪える為にあえて、振り返ることも、
噛み締める事もなかった事をサンジは思い知らされるけれど、
今は、起こさないで静かに、ゾロの眠っている姿を見つめていたかった。

「なあ。」

世界一の大剣豪がそんなに無防備に寝てていいのかよ。

サンジはそう囁くように話し掛ける。
ゾロに詫びて、許されるまで、口付けも自分からは出来ないような
戒めを課せられているようで、ただ、眠る身体の傍らに
腰を下しただけだった。

今だにどうしていいのか何も解決法など、見つけられない。
その不安は心の中に燻っているけれど、

それでも、サンジが望む以上に、サンジの幸せを願う者が流した涙は、
また、見失いそうになった時に必ず、自分の価値を思い出させてくれるだろう。

その為だけでは決してないにしても。
ライの流した涙を、無駄にしないように、自分の幸せを諦めたり、
投げ出したりは もう、決してしない。

サンジは、改めて、告白する。
自分の口から、自分の声で、これからどんな事があっても、
変わらない約束と等しい重さの言葉が唇から静かに漏れ出る。

俺は、お前がいい。


目を覚まさないのは、側にいる気配を無意識にサンジだと判っているからだろう。
そう思っていた。

サンジの静かな告白のあと、ゾロの手が包むようにサンジの身体を
自分に引き寄せる。

黙って、何も言わずに濡れて冷えて、疲れたサンジの体を労わるように、
柔らかく包みこんだ。

口付けを強請る様に、サンジの顔を自分の顔に近づける。
瞳はまだ、サンジを見ていない。
その瞼を開く呪いを掛ける様に、サンジはゾロの瞼にそっと唇を落とした。

身体を寄せた途端、ゾロの温もりが薫る。

温かくて、その温度が唇から一気にサンジの胸の中へ流れ込んで来た。
その熱が喉を締めつけ、言葉を阻む。

阻まれた言葉が、感情になり、指先に、唇に滲み出て、
そして、ゾロへと沁みこんで行く。

必ず、サンジは帰ってくる、とゾロは信じていた。
けれど、不安がなかった訳ではない。
もちろん、ライとサンジがどうのこうのと言う懸念ではない。

自分から飛出して、そして、自分の元へ帰って来るとき、
また、新しい傷を負って帰ってくるのではないか。

いつか、昔のように、満身創痍で、いつ死ぬとも判らないほどの
大怪我を負って帰って来るのではないか。

自分の知らない所で、命を落とすような事はないか。

サンジの心がどこか、手の届かない場所へ行く不安は考えもしない。
サンジの存在、そのものを失ってしまう事だけが
ゾロの不安だった。

けれど、こうして、自分の腕の中にいて、自分の温もりを
朝露を集めて喉を潤すように少しづつ、求めたサンジにゾロは
自覚していなかった、緊張とそれに伴う疲労が自分の体と心から
溶け出して行くのを感じる。

「何か言え。」

サンジの声がもっと聞きたかった。
だから、その体温と同じだけの温もりのある声で、
それでも高圧的ないつもどおりの口調でサンジに囁く。

けれども、サンジは黙ったまま、ゾロの頬や額を唇でなぞるだけだ。

言いたい事、伝えたい事が多過ぎて、まとまらない。
いや、言葉を忘れたように、なにも思い浮かばない。

何よりも大事に想う者達を傷つけた代償なのか、
言葉を封印されて使えなくなってしまったかのように、
今、口に出す言葉は、多分、同じ言葉の繰言にしかならない。

さっきの告白だけがサンジの頭の中にある、たった一つの言葉だった。

それしか、口に出せないでいるサンジの身体をゾロは、
力加減など出来ずに思い切り抱き締める。