どんよりと空が雲っていた。

「アデルを迎えに行って来る。」
「雨が降ってきそうだ。」ビエラにそう言って、シュライヤは家を出た。

大きなホテルがあって、そこのボイラーを扱う仕事を見つけた。
今日は、夜から仕事に出掛ける。ボイラーについての技術はもう、
ビエラにしっかりと叩き込まれていて、一人前に仕事が出来るようになっていた。

血にまみれていた生活がどんどん遠のく。
これが幸せと言う物だと些細な事で感じる日々だった。

「大した雨にならないだろうし、あいつもちゃんと帰ってくるだろう。」
「わざわざ迎えに行くなんて甘やかし過ぎじゃねえか。」とビエラは笑った。
笑っているけれども、本気でからかっているのではない。

長い間、離れ離れだった二人。その距離を縮めようとお互いが懸命に努力している
姿を温かく見守っているからこそ言える戯言だった。

「濡れたら、可哀想だから。」と言って、シュライヤは自分用に真っ黒な傘を、
アデルの為に桃色の小さな傘を持って、出掛ける。

(傘、か)誰もいない往来で、シュライヤは手遊びにその傘の柄を、
剣の柄のように握った。
先端が尖っていれば、それはシュライヤにとって武器になり得る道具だ。

ポツリ、ポツリと降り始めた雨粒をささずに握った傘で斬る。
そして弾き飛ばす。

体は鈍っていない、つもりだ。
いつでも、大事な物を守れるように。

以前、アデルとビエラを浚われた事がある。
自分がどんなに穏やかな幸せを手にいれようとしても、過去がそれを許さないのかと
絶望しそうになった。

逆戻りして、また一人きり、そんな生き方が今更出来るかと言われたら、
シュライヤには自信を持って「出来る」とは答えられない。

どんなに温かい日でも、心地良い晴天の下でも、心までが凍てつくような
孤独な日々にはもう、戻りたくはない。
凍てつく木枯らしが吹く日でも、掌を暖めてくれる小さな手の温もりが
側にある今、罪を漱ぐ方法があるならそれを受け、安穏にこのまま暮らしていきたいと
毎日、それだけを思っていた。

「シュライヤ・バスクードだな。」

痩せこけて、みすぼらしい男が目の前に立っている。
いつも、アデルが遊び場にしている朽ちた石壁に囲まれた一角まで来て、
シュライヤの目の前にいきなり現れた。

その身のこなし、石壁の間から殺気を殺して潜んでいた所作。
シュライヤは即座にその男を「敵」だと認識した。

「何か用か。」とシュライヤは静かに答える。
「俺の顔を覚えているか。」と男はシュライヤに尋ねた。

「さあね。」とシュライヤは飄々と答える。記憶を手繰るのは無駄な事だ。
自分が賞金に変えた海賊の数は自分でも正確に憶えていられないほどだったし、
思い出したからと言って、相手の目論みを潰す事にもならない。

「俺は、」と男は名乗った。やっぱり、シュライヤには全く記憶のない名前だった。
「なんの用だと聞いてる。」とシュライヤは傘を握る手に力を込める。
アデルの傘は傍らの石壁に凭れさせた。
徐々に雨が激しくなってくる。

「随分、妹を可愛がっているようだな。」
「アデルはどこだ。」

男は口を歪めて笑った。まるで、しゃれこうべがそのまま薄気味悪く笑ったようだ。
目は落ち窪み、顔色もどす黒く、それこそ、骨と皮ばかりの半病人のような体。
それなのに、男の体からは殺気が漲っている。
男は銃を握っていた。

「虫が良過ぎるだろう、海賊処刑人シュライヤ。」
「さんざん、海賊の命を奪って、てめえだけが人間らしく生きようなんてな。」
「そう、思わねえか。」

男の細々とした、気味の悪い低い声は酷くシュライヤの癇に障った。
「だからなんだ。」
「妹の命を助けたかったら、死ね。」

シュライヤのイラついた口調を物ともせずに男はそう言って、銃を構えた。
「アデルはどこだ」と聞いたシュライヤが右に飛びのいた。
男が発砲し、シュライヤが立っていたその場所で石が爆ぜる。

「アデルを返せば、殺しはしねえ。」
「だが、アデルに傷一つつけてみろ、殺すぞ。」

そんなシュライヤの言葉を聞いて、男はカラカラと笑った。
「やれるもんならやってみろ、」そう言って、石壁の向こうに消える。

シュライヤが追うと、男はアデルを引き摺る様にして抱き寄せ、そのこめかみに
銃口を押し当てた。

「アデル。」
「おにいちゃん。」

大声を出すと怯える、と咄嗟におもったシュライヤは出きる限り冷静な声で
アデルを呼んで、無事を確かめる。
だが、答えたアデルの声は恐怖に怯え、震えていた。

「すぐ、助けてやるからな。」
「どうやって?」シュライヤの言葉に答えたのは、アデルではなく、
卑怯な痩せ男の、アデルの口調を真似た皮肉だった。

「その傘で俺の目を突いて見ろ。その傘で俺の喉笛を突き刺してみろ。」
「お前の大事な妹の前で、」気違い地味た声でそう怒鳴るといきなり銃を発砲する。

その弾はシュライヤの肩先の肉を抉った。
間髪いれずに、撃ったもう一発は、シュライヤの腕の付け根に食い込む。
その衝撃で、シュライヤは背中から雨に濡れた石壁に叩き付けられた。

「おにいちゃん!」雨音を劈いて、アデルの悲鳴が響く。
「大丈夫、」とシュライヤは痛みを堪え、アデルに向かって無理に笑って見せた。

「どうした、動きが随分鈍くなったじゃないか。シュライヤ。」
「この距離なら、思い切り踏み込んだら俺を殺して、妹を助けるくらい、訳のない事だろう。」

(こいつ、)シュライヤは男の卑劣な言い分に頭へ一気に血が昇った。

「賞金稼ぎって殻を脱いだ分、てめえは、弱くなった。」
「大事な者を持つほど、弱くなるんだよ、人間って奴は。」
「守る者なんか何もない奴ほど強い、負けるのが怖くないんだからな。」
「てめえも昔はそうだった。今は俺の弾を二発も受けて、俺になんの」
「ダメージも与えられない。」

そう言って、男はまた引き金を引いた。
まるで、シュライヤを嬲るように、その銃弾はシュライヤの太股に「プスッ」と小さな音と、硝煙の匂いを立ててめり込む。

「っ・・っく。」
「おにいちゃん、おにいちゃん!」男の腕にがっちりと拘束されたアデルが
必死にもがく。

「まるで、脱皮したばかりのカニだな。」と男は片膝をついたシュライヤを見下ろし、
そう言って、また、カラカラとしゃれこうべが鳴るような笑い声を立てた。
「平和ボケしてブヨブヨな殻でしか、自分の身を守れない、マヌケなカニだ。」
「そんな奴が生意気に家族とヌクヌク暮らしてるのがムカつくんだよ。」

「おにいちゃん、」と言うや、アデルはその男の腕に思い切り噛み付く。
「ギャア、」肉を食い千切るかと思うほど、アデルはその男にむしゃぶりついた。
痛さに男は思わず、アデルを振り払う。
その衝撃でアデルはつき転ばされ、泥の中に倒れ込む。
「このガキ、」と男はアデルに銃口を向けた。

アデルが息をのみ、身を竦ませ、眼を閉じる。
シュライヤが傘を逆手に持ち替えた。
狙いを定め、渾身の力を篭めて、その傘を男に投げつける。
まるで、槍を投げるように。

そして、その傘は男の首根に深深と突き刺さった。

悶絶しつつも、声も立てずに男は崩れ落ちる。
泥水をはねて男は倒れ伏した。傘の先端を引き抜けば、鮮血が吹き上がるだろう。
だが、傘が刺さったままで、鮮血はジワジワと漏れ出るだけで、無色透明の雨水を
真っ赤に染めて流れていく。

アデルはゆっくりと目を開けた。
血にまみれた、兄が目の前に立っていた。

それだけで、アデルは自分の為に兄が人を殺めたのだと悟る。

(おにいちゃん)と言う言葉が喉につっかえた。
怖くて、体が動かない。何が怖いのか、判らない。ただ、体が勝手に震えて止まらない。

「アデル、」怖かっただろうと言いたい言葉をシュライヤは言えなくなる。
今自分を見上げているアデルの大きな瞳の怯えの理由が自分の姿なのだとしたら。

こんな風にしか、お前を守れない。
それでも、俺はお前の側にいたい。

そんな気持ちが溢れ出てきても、シュライヤはそれを上手く言葉に出来ない。
アデルに怯えられ、拒絶されたら、と言う恐れがシュライヤの声を震わせた。

「俺が怖いか、アデル。」



そう尋ねるシュライヤの瞳から雨に混じって雫が零れて行くのをアデルは見た。
何故、シュライヤが泣いているのか判らない。
けれども、ただ、自分がシュライヤに守られている事、愛されている事だけは
はっきりと判った。
そして、怯えが消えていくと同時に、兄を悲しませたくないと言う気持ちが
芽生える。

「怖くなんかないよ。」
「あたしは、」

おにいちゃんがあたしの側からいなくなる事の方がずっと怖いよ。



そう言って、アデルはシュライヤの腕の中に戸惑いなく飛び込んだ。
雨の中で泣きながら怒鳴ったアデルの声がシュライヤの心に届く。

まだ、シュライヤの胸にまで届かないアデルの肩をシュライヤはしっかりと抱き、
やがて、しゃがみなおして、しっかりと背中から抱き締めた。

「これからもっとたくさん、怖い目にあうかも知れねえぞ。」
賞金稼ぎ、と言う殻を脱いだばかりの柔らかい殻しかない脆弱なカニ、と
あの男は言った。(その通りだ)とシュライヤは思う。
大事な者を守るには、自分が血を浴び、汚れる姿を見られたくないと怯えている、
殻のない、剥き出しの肉を晒した今の自分に相応しい例えだ。

「それでもいいよ。」アデルは即座に答える。
「おにいちゃんが側にいれば、それでいい。」そう答えて、ギュっと
シュライヤの首にしがみ付いた。

どこへも行かないように。
どこかへ行く時は、必ず、自分も連れて行かねばならないほど、
誰にも引き剥がされないように強く、しがみ付いていたい。

二人は雨の中を手を繋いで、家路につく。

「あのね、」アデルが桃色の傘の中からシュライヤに話し掛ける。
黒い傘を失ってしまったから、シュライヤがその傘を差し、その背中に
アデルはまだ、しがみ付いていた。

「どうして、カニが脱皮するのか、知ってる?」

アデルはさっき、シュライヤが「マヌケなカニ、」と言われているのを思い出し、
自分の知っている知識になぞらえて、シュライヤを励ます。

「いや。」とシュライヤは足の傷が痛むのをアデルに知られないように
いつもどおりの足取りで歩きながら、明るい口調で答える。

「なんでだ。」
「大きくなるからだよ。大きくなって、もっと強い殻が出来て、」
「大きくなる度に脱皮するんだよ。」

(そうだよな。)とシュライヤはアデルの心地良い声に耳を傾けながら
考える。

もっと強くなればいい。
今は脱皮したばかりで弱いかも知れないけれども、守る者が出来たのなら、
それを守る力を身につければいい。

身を太らせたカニが窮屈になった殻を脱ぎ捨てて成長するように、
自分の命の領域の中にアデルがいるのなら、そのアデルごと、守れるように、

過去の自分を脱皮して、大きく、強くなる。

「アデルはおりこうさんだ。」とシュライヤは笑った。
何時の間にか雨が止んで、港の向こうに見える水平線にはうっすらと夕日が見えた。