今日は、風も、太陽の光も、それを照り返す波の輝きも、あの日に似ている。
嵐の様にやってきて、その風にずっと腕の中で温めていた夢を託した、あの日。

「今頃、どこで何をやってるんだか」

思い出さない日はない。月を見ては、星を見ては、優しい朝陽や、真っ赤に燃えて海に落ちていく夕陽を見ては、どうか無事でいてくれる事を願っては溜息をつく。
その願いが叶っているのか、叶っていないのかさえゼフには確かめる術はない、
それがもどかしく、やるせなかった。

側にいた頃は、1日も早く大人に、一人で夢を追い駆ける力が持てるようにと
思っていた。
側にいなくなって初めて、その頃の気持ちをゼフは思い返す。
何故、あんなにひたむきに、本気で感情を剥き出しにして、必死になれたのだろう。

本当に伝えたかった事は何一つ、伝えていない。今になってそんな後悔ばかりが
胸に澱む。
サンジはずっと、自分の側にいる。そんな驕りはなかったか。
今でも、自分の周りにはサンジよりもずっと自分を労わって、気の利く連中が
大勢いるのに、何故、いつまでもこの寂しさは拭えないのだろう。

「オーナー、お客さんです」
「客?俺にか」
昼の営業が終って、自室で休息を取っていたゼフにレストランの客ではなく、
個人的に客が訪ねてきた、とドアの向こうでパティが言う。

ゼフはベッドの上で横になって、ぼんやりと窓の外を見ていたが、体を起こした。
正直、夜の営業の為にゆっくりと体を休めたい所だが、わざわざ営業時間を外して
訪ねてきた客を追い帰す訳にはいかない。

「おや、こりゃ、珍しい」
「こんにちは、オーナー」

甲板には、若い女性がにこやかに立っている。
長い栗色の髪を綺麗に結い上げて、薄い水色の品のいいブラウスを身に着け、
手には皮で出来た大ぶりのカバンを下げていた。
「サンジさん、とうとう、ここを旅だって行ったって聞いて」
「オーナーを慰めに来ましたよ」
そう言って、彼女は柔らかく微笑む。
やや面長の顔立ちはしっとりとした落ち着きと知性を、
形のよい唇は芯の強さを感じさせ、百合の花を連想させる女性だった。
彼女は、他の常連の女性達同様、サンジが優遇していた、見目麗しい女性だった。
違うのは、彼女はいつも同じ男性と訪れていて、サンジがいくらチョッカイを出しても、
その男性は、むしろ、サンジが彼女を構えば構うほど、
美しい彼女の価値があがるとでも思っているのか、少しも動じる様子は見せない。
最初、親子だとばかり思っていたが、そうではなかった。

サンジなど、到底及び持つかない、立派な大人の男だった訳だ。

「やっと、私達、一緒になれることになって・・・」と彼女は、ゼフの前で
頬を赤らめて、煌く波の上へと視線を移した。

ゼフは彼女を見つめながら、脳裡で、黒いスーツ姿のサンジを思い出す。
他の客を放り出して、時に店のピアノを弾く、ピアニストとして店に招かれた彼女に
ずっと纏わりついて、その傍らに佇んでいた姿。

「あいつ、あんたの邪魔ばかりして・・・」とゼフはつい、苦笑いする。
「ええ、でも、楽しかった」
「この店で、ピアノを弾いた時間は私のかけがえのない宝物です」

彼女は、これから、親子ほども歳の離れた、自分のピアノの師匠でもある男と、
自分達の作り出す音楽を沢山の人に聞いてもらう為に、旅に出ると言う。

「こんな荒くれコックが大勢いて、海賊も海軍もごちゃまぜでやってくる賑やかな店でも通用するんだ、きっとあんたならどこへ行っても、通用するだろうよ」
ゼフはそう言った。

「寂しそうな顔をなさってますね」ふと、数秒、会話が途切れた時、彼女はゼフの顔を見てそう言った。
「そんな事はない。セイセイしてるくらいなのに」ゼフは鼻で彼女の言葉を笑った。
空々しい、と自分でもそう思うほど、その言葉にも態度にもまるきり真実味がない。

心に降り積もった、誰にも言えない、自分でも認めたくない寂しさは、
押し隠せば押隠すほど、深い皺となってゼフの額に刻まれる。
無理に強がろうとすればするほど、本当の気持ちが込み上げてくる。

消すことも、誤魔化すことも、忘れる事も出来ない、胸の中にぽっかりと穴の空いた様なこの感覚が、一体なんなのか、考えるのもゼフには辛かった。

思い出すまいとしても一番最初に瞼に浮かぶのは、最後に見た、
一人前に育てたと思った、あのチビナスの鼻水まみれの泣き顔。
それを思い出してしまえば、次ぎから次ぎへと、ゼフの脳裏にチビナスの姿が
蘇る。
泣き顔も、歯を剥き出したサルの様に生意気な顔も、懸命に料理をしている顔も。
横柄な顔も、傲慢な顔も、側にいた時は、そんな顔、見るのもたくさんだと
思っていたのに、今は懐かしくて、思い出せば出すほど、胸の中が熱く、苦しくなる。

「もっと、言いたい事、教えなきゃならねえ事がたくさんあった様な気がしてるだけだ」と答えても、きっと、感受性の豊かな彼女には見抜かれているに違いない。

「ピアノ、弾いても構いませんか?」
「ああ、」

昼間の喧騒が嘘の様に静まりかえった、誰もいない客席にゼフは彼女を招き入れた。
ドアを開いた時、時折、まだ、その中にサンジが立っている様な幻を見てしまうのは、
きっと、まだサンジの残した空気がこの場所にこびりついているからだろう。

傷が出来る度にそれを隠す為に塗装した壁にも、何度も壊しては修理を繰り返した
店のテーブルにも椅子にも、踏み散らしても決して破れない様にと特別に誂えた
分厚い絨毯にも、蹴破る度に穴を穿って、そして貼り直しを繰り返した床の板にも、
サンジがいた事実が、サンジが刻んだ時間が、サンジがここへ残したたくさんの思い出が決して消える事無く、ここに在る。

「なにも、替えないんですね」と彼女は安心したカの様に溜息をついた。

「あいつがいなくなったなんて、内装を替える理由にはならないからな」
サンジがいつも凭れていた、ピアノの傍らにゼフも凭れる。

「聞いてて下さるんですか?」と彼女は譜面を広げながら、優しげな眼差しでゼフを見上げる。
「聞き納めになるだろうから」とゼフは短く答える。

「オーナー、誰も見てませんし、私もピアノを弾くのに夢中になります」
「心の中にあるモノ、全部、吐き出してしまって下さい」
「きっと、皺が少し、減りますよ」

そう言って、彼女は小さなハミングと共に、優しく、軽やかにピアノを奏でる。
ピアノの音色が好きならば、誰でも知っているだろう、美しい旋律にゼフは目を閉じて
耳を傾ける。

心が温かくなる、それが幸せと言う感覚を知ったのはいつの頃だったか。
豪快に笑うのではなく、頬と唇の端だけに笑みが浮かぶ、そんな笑い方を知ったのは
いつだったか。

あの幼く、包丁を握る事しか知らない小さな手を引いて、細い手足が一人で
歩ける様に見守り、育てるのが自分の使命だと疑わなかったのは、何故なのか。
ぶつかり合う言葉の中で、自分達は一体、どれだけ傷つけあい、その中で、
どれだけの感情を分かち合ったか。
もっと言いたい言葉もあった筈、言わなければならない言葉もあった筈。

「風邪、引くなよ」としか言えなかった、あの言葉の中に篭めた思いを
あの鼻水だらけの半人前のチビナスはどれだけ受けとめてくれたのだろう。

「いい曲だ」とゼフは呟く。
温かく、幸せな気持ちを優しく撫でるような、心地良い音色と旋律を聞いていると、
ずっと、その曲の作り出す世界の中に浸っていたくなる。

浸っている、その時間こそが幸せなのだとさえ思えてくる。
偉大なる航路、そこでの海賊稼業が穏やかな訳がない。けれども、今、自分が
感じている穏やかな空気が、あの鼻垂れボウズをいつも包んでくれる事を
心から願う。

切なくて、寂しくて、やるせない。けれども、それはこの手の中に確かに
幸せがあって、そして、その幸せの価値を今更になって気づいてしまったからこそ、
感じるのだとゼフは思う。

大人になれ、と思うあまりにその過程をあまりに無我夢中で突っ走り過ぎてしまった。
もっと大事に時間を積み重ねれば良かった。

あの向日葵色の頭が傍らにあった日々、海賊をしていた頃には知らなかった事を
たくさん知った。
見飽きるほど見た朝日も、ただ方角を知るだけの星空も、丸くて小さな向日葵色の
頭が側にあれば、何もかもが違って見えた。
背伸びして、大人ぶる癖に時折見せる無邪気で眩しい笑顔、そしてその笑顔を
誰でもない、自分の言葉、自分の行動一つで引き出せる事を知った時の喜び。
心が温かくなる、それが、幸せだと言う感覚を知った。
一つ一つの困難を逃げずに真正面から挑んで、そして乗越えて行く様を見守り続けて、頬と唇の端だけに笑みが浮かぶ、そんな笑い方を知った。

輝く向日葵色の光に照らされた世界が、どれだけ色鮮やかだったか。
そんな事は何一つ、言えないまま見送ってしまった。

今はもう、出来る事、してやれる事は、何もない。
穏やかな人生などつまらない、けれども、どんなに波乱万丈な人生でも、
いつも、幸せだと笑って言える人生であって欲しいと祈る事しか出来ない。

「この曲は、あの鼻垂れ小僧も知ってるのか」
「ええ、とても好きだって言ってましたよ」

彼女はピアノを弾く手を休ませずに、ゼフの湿った声で訪ねる質問に、
何も気づかぬ顔で答える。
「きっと、グランドラインでもピアノを弾く人なら誰でも弾けると思います」
「どこかの酒場で聞いてるかも知れませんね」

胸イッパイに詰まっていたたくさんの感情を乗せて、ピアノの音色は海風に浚われて行く。少しだけ息がしやすくなる明日からは、思っても無駄な追憶を押し込める事もなく、
ただ、幸せを祈れる様な気がする。
そして、その想いをこの体を失う日まで持ち続ければ、
きっと、心はサンジが一番辛い時に守ってやれる程、近くに飛んでいける。
そんな感傷的な事さえ、否定も自嘲ももう出来ない。
本当の自分の気持ちを認めて受け入れ、向き合える事でこんなに楽になるのなら、
もっと早くこうすれば良かったとゼフは思う。

どんなに離れても、離れた場所にいる、それだけで失うような絆ではなかった、と
ゼフの中にあった寂しさがそんな感情に生まれ変わった。

優しく奏でる音色は、ゼフとサンジをいつでも、どんな時でも繋がっているのだと
思い出させてくれるだろう、そう思うから、共に、この場所にいた時は知らなかったけれど、サンジが好きだと言ったこの優しい旋律をゼフは心と魂にしっかりと刻み込む。

いつしか、彼女の奏でる優しいハミングとゼフの少しだけ、調子の外れた鼻歌が
溶け合って、静かな、午後のバラティエの客席の中に流れていた。

伝えたい人の姿がなくても、その思いが間違いなく届く事を信じて。

(奏で)終り


6月3日にレンタル屋さんに行って、新しいのを何曲か仕入れて来ました。

テレビで、宣伝見て、「いい曲だな〜〜」と思って仕入れたら、歌詞も歌声も良かったです。

「スキマスイッチ」と言うディオの、「奏で」と言う曲です。
聞きながらでも、歌詞を見てもらって読んで頂いても、面白いかもしれません。