空島から、ようやく、青海へ戻ってきた。

以前と、皆、なんら変わらない。
毎日、海と戦い、命懸けながら、夢に向かって一直線に無我夢中、
ただ、がむしゃらに楽しく生きて行く。

何も変わっていない。

空島で負った傷などどこにももうその名残さえない。
賑やかな笑い声、じゃれ合う罵詈雑言、歯の浮くような美辞麗句、
それに応えるアタリさわりのない皮肉、デタラメな歌、そんな言葉がひっきりなしに
飛びかう。

空島で負った傷などもうとっくの昔に癒えている。
船は、自分達の足は、前へ、ただ、前へとだけ進む。
立ち止まる者は一人としてない。

そんな風に誰もが騙された。
心の中に、自分ではどうしようもない、けれど、自分でしかどうすることも出来ない
傷を抱えたままで、いつもどおりにサンジは笑っていた。

敗北の苦い味を思い知って、その毒が心から抜け切らない。
何も出来なかった自分の無力さを思い知って、身悶えするくらい悔しくても、
それを口に出すことも、態度に出す事も出来ない。

悔しい。
自分の無力さに腹が立って仕方ない。
そんな言葉を吐いたなら、きっと優しい言葉が返って来る。
労わりと、思い遣りに満ちた同情以外の何物でも無い、例えば、こんな言葉。

仕方ないさ。
お前は、逃げたわけじゃない。

そんな言葉を言われたら、ますます惨めになるだけだ。
だから、サンジは無理に笑っている。誰にも、そんな自分の気持ちを悟られる事のない様に。
体の傷は癒えても、心の中の傷は今だ疼く。

そして、何食わぬ顔をして、日々を過ごしていた。

「大きな嵐が来るわ」ログを辿って次の島を目指す前に、ナミがそう言った。
「海上で避けるよりも、あの、」ナミはすぐ側にあった小島を船の上から指差す。

「風は南西から吹いてる。それを帆に受けて、あの島に向かうわ。」
「一時、避難するわよ、いいわね、キャプテン」

ナミのその言葉に全員が頷き、すぐに行動を開始する。
空は見る見るうちに灰色の分厚い雲に覆われて行く。

「かなり荒れそうね。」とナミは空を見上げた。
その途端、空に閃光が走る。数秒して、雷鳴が轟く。

全員が、耳を塞ぐ。それほどの大音響だった。
嵐の前に吹く、強風を受けてゴーイングメリー号は凄まじい早さで進む。

そして、また、稲光が、灰色の空を裂くように走った。

サンジはそれを見上げる。落雷の耳を劈く、バリバリと言う空気を揺るがすような
音が世界を震わせる。

港に碇を下ろし、すぐに全員が下船した。
波が高くなっても、大きな防波堤の中の港は頑丈そうで、船を離れても
「大丈夫だと思うわ。」とナミは判断する。

そして、ゾロとサンジはその嵐の中、「宿代」を稼ぎに出掛けた。
嵐が過ぎるまで、何日掛るか判らない。
先立つモノはあればあるだけ邪魔になら無い筈だ。

だが、こんな嵐の日は、流石にその小さな島の住民達は家に引きこもっていて、
往来には人っ子一人いない。

「どうする。」とゾロはサンジに尋ねた。
「俺は、」

サンジはゾロと目線を外し、雨が降り始めた町並みに視線を移す。
「もう少し、探してみる。」
「時間の無駄だと思うが。」とゾロは即座に反論した。

空からは、ひっきりなしに雷鳴が鳴り響いている。
空からは大粒の雨が吹き狂う風に乗り、容赦無く頬や体に打ち下ろす様に
降って来た。

「そう思うなら、来るな。」サンジは、そう言って、歩き出す。

(なんだと)偉そうに、お前の指図は受けねえ。
ゾロは、そう言い掛けた言葉を飲みこむ。
激しさを増した雨に打たれながら、歩いて行くサンジの背中は、ゾロを異様なほど
拒絶していた。

一人になりたい、と言っていた。

(なんでだ)とゾロは一瞬、呆然となり、サンジの背中を見送る。

この嵐が来るまでは、いつもどおりのサンジだった。
賑やかに笑って、罵詈雑言を吐いて、バカな戯言を言って騒いで。

それが何故、急に自分を拒絶して一人になりたいと言うのだろう。
(理解出来ねえ)ゾロはサンジが理解出来ない、自分に焦った。

何もかもを理解しているつもりはないけれど、腹の中に何かを抱えているのなら、
他の誰が気づかなくても、自分は気付くべきで、また、サンジも自分に
なんらかのサインを送るべきだ。
自分の予想外の事が起これば、それに対処すべき行動を取らねばならない。
ゾロは激しい雨が目を打つ、その痛みに目を細めながら、サンジを追い駆けた。

だが、雨と雷と風がサンジをゾロから引き剥がす。

薄闇色の空に目を刺すような閃光が走った。
途端、地面が揺れるほどの雷鳴、すぐ側に落雷したに違い無い。

どれくらい、サンジを探してさ迷ったか。
おそらく、雨が降りだして、2時間は経ったか。
それ以上かも知れない。

サンジを見つける事が出来たのは、一つの奇蹟だった。
ゾロはただ、歩いていただけだ。
足の向くままに、サンジの胸の中にあるモノの正体を見極める為に、
そしてそれに対して、自分が出来る事を見つける為に闇雲に歩き回っていただけに過ぎない。
ゴーイングメリー号が停泊している港が見える岬だった。
その突端に灯台がある。サンジはその側の、雨を遮る物など何も無いだたっ広い斜面に
ポケットに手を突っ込んで立ち竦んでいた。

落雷がなければ、見つけられなかった。
閃光がサンジの姿を灰色の世界から浮き上がらせる。




鼓膜を揺るがし腹わたにまで響く雷鳴が空気をビリビリと震わせた。

激しい風にサンジのシャツはバタバタと音が聞こえるほど乱暴に吹き揺らされ、
海からの風は、岬の下の波の雫さえ吹き上げ、雨の粒と一緒にサンジに叩き付ける様に吹いていた。

(あいつ、)自殺行為のように見えた。
雷が直撃したら。そうでなくても、この水で濡れた地面のどこかに落雷しただけでも、
感電するだろう。なぜ、こんな狂った様に雷がなる場所で、微動だにせず、
立っているのだろう。

ゾロは近寄りたい気持ちを堪えて、サンジを見つめる。
雨が痛くて、大きく目を開く事は出来ないけれど、近寄って言葉で
サンジの行動の理由を尋ねてもきっと答えは返ってこない。

自分達しか判りえない方法で、ゾロはサンジの事を知ろうとする。

同じ風に、同じ雨に打たれて、雷の音に魂を揺さ振られて。

サンジの悔しさと、腹立ちがゾロに伝わってくる。
雷の音が鳴る度、その音が地面を揺るがす度に、サンジのやるせない苦しさを
ゾロの心に強過ぎるほどはっきりと伝えてくる。

息が詰るような敗北感。
かつて、自分が体験したことのある、決して負けたくは無い相手に
完膚なきまでに破れた時の壮絶な、息が詰るほどの悔しさ。

己で越えていくしかこの痛みを消す方法はない。
その苦しさからサンジを助けてやりたくても、どんなにゾロがそれを望んでも無駄だと
ゾロは知っている。

心が同調する。サンジの心を理解しているのではない。
痛みも苦しさも今、自分も同じ様に感じる。

雷の音を聞いて、身を竦ませる様にじっと宿に閉じ篭るのは嫌だったのだ。
自分の惨めさをとことん、自分に突きつけて、そして、飲みこめ切れない
悔しさも苦しさも全て吐き出す為にサンジはこの場所に立っている。
敗北の味を噛み締めて、悔しさを全身に滾らせて、一人でその鬱屈した感情と
戦っている。

それをゾロはただ、見つめていた。
同じ気持ちで、見つめる事しか出来ないでいた。

どのくらい、そうしていたか判らない。
気がつけば、夜の帳かと思うほど分厚い雲を引きつれて嵐は去って、
冴え冴えとした青空が二人の頭上に広がっていた。

だからと言って、サンジの心を曇らせているモノが全て消えて行く訳ではない。

サンジは振り返った。
激情を吐き付かれた瞼が少し重たそうに見える。





ずっとゾロが自分を見ていたのを知っていたのか、それともそんな事には
興味が無いのか、サンジは目を伏せたまま、黙って歩き出す。

擦れ違い様に、ただ、「帰ろうぜ。」とだけ言った。
ゾロもそれに短く答える。「ああ。」

ふと、ゾロはサンジの背中の向こうに優しげな太陽の光りが降り注いで、
ひんやりとした湿った風が心地良くて目をあげた。

「虹が出てる。」とサンジに伝える為に、ではなく、
ただの独り言がゾロの口から漏れる。
サンジはその言葉に振り返って、数秒、虹を見つめていた。

そして、「帰るぜ。」とまた、言って、歩き出す。

何度、こうして雷と遭遇すれば、サンジの傷は癒えるのだろう。

激しい嵐の去った後に太陽の光が降り注げば、海には虹が掛る。
常に、同じ場所に、同じ気持ちで立って、それを何度も一緒に眺めて。

何も出来る事はないけれど、
ゾロはサンジの背中を見つめて、例え、何も出来なくても、
その胸の内の痛みが完全に消えて行く様を側にいて、見守りたい、と
それだけを思った。