この世に存在しているもの全ては、存在する為に理由が必要なのだろうか。
何故、こんなものが存在していたのか、存在する必要があったのか。
ライは、意識を無くして地面に倒れこんでいる自分の部下達を崩れ落ちた瓦礫の下から
全て引きずり出した後、その廃墟に火を着けた。
そして、それが苦しそうに、また人の愚かさを嘲笑うように、激しく燃え、炎を
吹上げる様子を呆然と見上げながら、そんな事を考えた。
(この世に存在しているもの全ては、存在する為に理由が必要なんだろうか。)
(何故、こんなものが存在していたのか、存在する必要があったのか。)、と。
考えても答えなど判る筈もない事を、と知っていても考えずにはいられなかった。
つい、昨日のことだった。
海賊相手ではなく、世界政府に反抗する国との戦闘でライ達はこの島にやってきた。
一旦、この場所で別の海域からやってくる部隊と合流するのだが、彼らが到着するのは
あと3日ほど時間が必要だと言う連絡を受け、つかの間、戦闘前の張り詰めた気持ちと
訓練とここまでの長旅で疲労した体を休める為にライは1日だけ、部下達に
自由な時間を与える事にしたのだ。
「ミルクさんもどうです」「いや、俺は」
小さな辺境の島で、休暇をたった1日貰っても若い海兵達にはすることがなかった。
そして、ライの部下の一人が島の住民から聞いたある場所で「肝試し」をしよう、と
言い出した。無口で無愛想な割りにライはほぼ同世代の部下達からは慕われているので、
声を掛けられたが、ライは気乗りがせず、「俺は色々やることがあるから行けません」と断わった。
「どこへ行くんですか」それでも、部下達が住民に迷惑を掛けたり、戦闘前に
不測の事故にあったりしてはならないので、ライは「肝試し」に行く、と言う
部下達にそう尋ねた。
「森の中に"鏡の神殿"と言われた廃墟があるそうなんです」と狙撃手のタキが
溌剌とした声でライの質問に答える。
「そこがどうして肝試しの場所になるんですか、昼間から行くんでしょう?」
肝試しには独身の者が10名ほど固まって行くらしい。だが、昼日中から行く肝試しなどライは聞いた事がないので、タキにそう尋ねた。
「昔は、恋の成就とか安産とか、鏡を一つ供えるごとに願い事を一つ、叶えてくれる
神様を祭った神殿だったそうです。でも、何10年も前から何故か廃れてしまって、」
「今は廃墟になってるそうです」
「供えられた鏡はその神殿の中に今でもあるそうで、中には高価なものも」
「そんなの、とっくに泥棒に盗まれてるんじゃないですか」タキの言葉をライは
怪訝な顔付きで遮った。「別に鏡を取りに行くんじゃないですよ。そこへ行った者は誰も帰ってこないって謂れがあるそうなんで真偽を確かめに行くんです」
「ふーん」ライはそこにいる者の顔を眺め回し、(まあ、この顔ぶれなら別に
心配する事もないかな)と思い、「絶対にどんな高価なモノがあったとしても、
持ち帰ってこない様に。それと、帰営時間は厳守する様に。」とだけ言って、
許可した。
今、ライは少佐になったばかりなのだが、他の少佐連中よりも部下の数は相当
少ない。だが、その分戦闘能力はずば抜けた精鋭ばかりが揃っている。
鋭い槍の先端が肉に食い込むように、敵陣へと攻撃の突破口を開く為の大事な役割を担う事がライの部隊は多い。その為、大勢の部下を仰々しく従えるよりもライの思うまま、自分の指先を動かす如く思うがままに動かせる者達を使う方が効率的だ。
その為に、ライの直属の部下達、危険な任務を幾度も乗り越えてきたと言う
他の部隊にはない、固い信頼と言う絆がある。
ところが。
帰営時間を過ぎても、彼らは誰一人帰ってこなかった。
脱走する事など絶対に考えられない。
(なにかあったんだ)とライは居てもたってもいられず、帯剣して彼らの言った、
"鏡の神殿"と言われる場所へ向かった。
その場所を尋ねるついでにライはその神殿にまつわる謂れを漏れ聞いた。
あそこはね、海兵さん。
昔、この島を治めていた女王様の別荘だったんだよ。
その女王様は、この島をどこの強い国からも干渉されずに自由でいる為に
色々な国の王様と恋仲になったりしたんだが、ことごとく上手く行かず、
結局、その神殿で自ら毒蛇に胸を噛ませて死んだんだ。
でも、その女王様の御魂を慰める為に神殿にして、女神様として奉ったんだ。
いつの頃からか、鏡を供えたら片恋を叶えてくれるとか、子宝を授けてくれるとか、
夫の浮気が断てるとか、恋人が出来るとか言うご利益があるって有名になったんだけど、
何10年も前からすっかり寂れてしまってね。
「誰も帰ってこないって言うのは?」とライはその神殿への道を詳しく教えてくれた
中年の女性にそう尋ねた。「本当らしいよ。尤もこの海域も戦ばっかりしてるだろ。
だから海賊も多いし、そんな輩が若い男や女を浚うのも珍しい事じゃないから、そうやって姿を消した子達の親があの神殿の所為にしてるって言われてるけどね」と教えてくれた。
ライはそんな言葉を頭の中で反芻しながら一人で神殿があると言う森の中へ入った。
空からは満月の寒々しい程の白い光りが森の木々の葉を擦り抜け、ライの歩く道を
うっすらと照らし出す。
薄い灰色の弱い光の中、その神殿は唐突にライの前に姿を現した。
神殿、と呼ぶにはあまりに小さな石造りの建物、壁にはツタが這い、壁も長年の
風雨に晒されて、おそらく豪奢に彫刻されて居た筈の壁ももはや、なんの模様かさえ
判別出来ない。
(ここが鏡の神殿・・・?)とその粗末な佇まいにライは場所を間違えたかと思った。
農機具を突っ込む小屋と言われたらそう思ってしまうほどその神殿は小さい。
(昔はもっと大きかったのかもしれないな)と1本道で迷い様も無かった事を
思い起こして、ライはその神殿の扉に手を掛けた。
耳障りな音、そして石で作られたその扉はかなり重い。
(!)扉を開いた途端、真っ正面に人影が見えた、と咄嗟に身構えた。
が、それは月明かりを背負った自分の影だとわかり、思わず溜息をつく。
小さなその神殿の中の扉の真正面は大きな鏡になっていた。
ライは扉を開け放ったままでその鏡に近付く。
(変だ)長年放置されていた鏡なのに、それはツヤツヤと光り、綺麗に磨き上げられている。埃一つなく、一切の曇りも無い。
それをライが確認した瞬間、開け放っていた筈の扉が「ギ・・・」と小さな軋み音を立てて閉じられた。
天井には天窓があるのか、真っ暗な筈なのにその空間はぼんやりと明るい。
そして扉の内側までが鏡、他の三方の壁も全て、鏡だった。
無数の自分が自分を、自分の向こう側の自分を見ている。
(タキさん達はどこにいるんだ)とライは一瞬その不気味な空間にゾっとしたが、
すぐに気を取りなおして辺りを伺った。
鏡の中さ。
そう、ライの声にも出していない言葉に誰かが答えた。
自分の後ろにその声の主がいる。ここに居る筈も無い人だ。
真正面に顔をあげれば、その人の姿を目で捉える事が出来るのに、ライは
唐突過ぎて、異様過ぎるその声の現れ方に警戒し、視線を自分の足元へ落したままで
背後の気配を探った。幻覚か、幻聴か、なにかの能力者の罠なのか。
そんなに警戒するな。
俺はお前の心の中を鏡が映してお前に見せているだけの影だ。
お前が望む事をする為にここにいるだけだ。
「望む事?」ライはゆっくりと振り向いた。
姿を見たら、それで自分の魂ごと鷲掴みにされてしまう。
それが判っているのに、声とその声が語る言葉の誘惑にライは抗えずに振り返ってしまった。
「ここはなんです。僕の・・・大事な仲間はどこにいるんです」
部下、と言う言葉をライはその時、何故か使えなかった。
ライにとって彼らは初めて、命懸けで戦うべく配属され、そして死線を何度も共に乗り越えてきた部下達だ。ごく自然に彼らはライは「仲間」だと言った。
「今、お前が俺に望んでいるのは、それを知る事なんだな」とその愛しい人の影は言った。ライが知っている声音のままで。
「この場所に名前は無い。」
「ただ、なにかを欲しがっている者にそれを与えて、魂を食らう女の怨念がいるだけだ」
無数の鏡は人の姿だけではなく、その心の中まで映し出す。
「この鏡に取り囲まれたこの場所にいれば、自分の欲望は全て叶う世界の中で
生きているのと同じ経験を得られるんだ。そしてこの場所に囚われた奴は満ち足りて
透けて、鏡にも映し出されなくなって、いずれ消える」
「なぜ、そんな事を知っていて、それを何故、俺に教えるんですか」と思い浮かんだ矛盾をそのままぶつけた。
「お前が見ている俺はこの壁の鏡がお前に見せている影だって言っただろ」
「ここの鏡が生み出した事をお前が教えて欲しい、と俺に望んだ」
「だから、俺は教えた」
ライの心に邪なものが少しでもあれば、その影はライの心を鏡の中へと引き摺りこむ事が出来たかもしれない。
「俺はお前の思う事全てを満たせる」と言っても、ライには目の前にいるサンジの影、
ライが創り出したサンジの姿はあまりにも眩し過ぎた。
肉欲や独占欲などにライは惑わされない。
「なぜ、彼らは鏡の中に」とライが聞くと影は
「人間誰にも欲望はある。望めば望むほど鏡の中ではそれが得られるんだ」
「現実に生きて、苦しんだり哀しんだりするよりもずっといいと思って当たり前だろ」
「痛みも哀しみも怒りも涙もない、満足と歓びだけがある世界に生きられるって」
「思ったらそっちへ行きたくなるのは、悪い事か」
「ここへ鏡を捧げに来る人間は誰もが、生きる事に物足りないって思ってる」
「満ち足りてる奴はここには来ない」
影の言葉にライは思わず素直に頷いた。だが、心の中は説明の出来ない哀しさが
どこからか滲んでくる。
部下達を助けようと来た、それが理由だけれど結局こうして自分の願い事は
鏡の中で曝け出された。確かに自分は「満ち足りてる奴」ではない。
叶えようとしても叶えられない唯一の想いだと目の前のサンジが
綺麗過ぎて またそれを思い知らされた気がする。
それが哀しい、と言う気持ちの正体だ。
(このまま、この鏡の中でサンジさんと二人きりで透けて消えて無くなるまで
一緒にいたい)とライは思う。偽者ではなく、影だと言うなら、鏡が創り出した幻影でも自分の中のサンジである事に変わりは無い。
抱き締めたり、肌を寄せ合ったりしたい訳ではない。
サンジを誰にも渡したくないと言う独占欲も無い。
だた、サンジに必要とされ、サンジの側にいたいと願うだけがライの望みだ。
サンジ以外の何一つ、鏡から現れないのは、ライが望んでいるのは、
サンジと言う存在以外は何もないと言うことを鏡はライに教えている。
「きっと、このままここにいる方が僕は幸せかも知れない」とライは呟いた。
「でも、ホントに僕が望んでるのはそうじゃない筈ですよね」そう言ってライは
影を真っ直ぐに見据える。
「そうだな」影は微笑んだ。ライの事を誰よりも知っている、と言いたげな
自信に満ちた優しい微笑みでライの言葉に頷いた。
「サンジさんは、僕が間違っていたならそれを正してくれますよね」
「ああ」
鏡の創り出した影はライの心の中で叫んだ言葉を映しだし、そして言葉は
影の口からライへと投げ渡される。
「本気で生きてなきゃ本当の幸せなんか見つからない」
「鏡の中で生きて得た幸せなんて所詮、全部がみせかけだ」
「本気で生きて自分の幸せを探せ」
影はサンジの声でそう言うとまるで鏡にとけて行くように姿が薄くなり、やがて
消えた。
ライが我に返った時、その狭い薄暗い鏡に囲まれた埃っぽい鏡の前だった。
自分の部下達が床の上にぶっ倒れているのが見える。
真正面の鏡には大きなヒビ割れが出来ていた。
自分が鏡に囚われなかったのかは判るけれども、何故、部下達が無事に
帰って来れたのかまではライの考えの及ぶところではない。だが、なんにせよ、
意識を無くしているだけで、全員が無事である事を確認してライは
心からホっとした。
この世に存在しているもの全ては、存在する為に理由が必要なのだろうか。
何故、こんなものが存在していたのか、存在する必要があったのか。
ライは、意識を無くして地面に倒れこんでいる自分の部下達を崩れ落ちた瓦礫の下から
全て引きずり出した後、その廃墟に火を着けた。
そして、それが苦しそうに、また人の愚かさを嘲笑うように、激しく燃え、炎を
吹上げる様子を呆然と見上げながら、そんな事を考えていた。
合わせ鏡の不思議な空間で見たサンジの姿をした無数の影の姿は、
まだ、ライの瞼に焼きついていた。