記憶に残っていない、小さな時のことを いくら言われても、
まるで、

他人の思い出話か、恥じを聞いてるような気分にしかならない。


オールブルーのレストランには、15歳になる少年が
副料理長を務めていた。

彼の名前は、ウソップ・ジュニア。

麦わらの一味、と呼ばれる大海賊の狙撃手、ウソップの息子だ。

彼は生まれてから4歳までを ゴーイングメリー号で、
4歳から10歳までを イーストブルーの海上レストラン、バラティエで、

そして、10歳から、このオールブルーのレストランで
かつて、赫足のサンジと怖れられた、
ゴーイングメリー号のコックに育てられて、今に至る。


「まあ、随分、立派になったこと。」
特別の個室で食事をしていた夫婦が、目を細めてジュニアを見上げて微笑んだ。
この二人の顔に、ジュニアは見覚えがない。



その日も、大忙しの厨房で 汗を拭う暇もなく、働いていたジュニアを、
オーナー兼、料理長のサンジが

「ちょっと、来い」と呼んだ。

エプロンを外すように言われ、サンジもコックスーツから手早く、
いつもの 濃紫のシャツに黒いスーツに着替えながら、ビップルームへと足早に
歩いて行く。その後を、ジュニアは慌てて追い掛ける。

「誰?父さんが来たの?」
「ウソップが来るわけねえだろ。」

ドアの前で、サンジは一旦 立ち止まり、ジュニアの頭の上から
脚の先まで ゆっくりと検分するように眺め降ろした。

固く、黒い髪を手早く整え、ハンカチで額に浮いていた汗を拭う。
それから、ドアをノックした。

「どうぞ。」
中から、品の良さそうな声が応える。


「まあ、随分、立派になったこと。」

そう言って、自分に微笑み掛ける、女性をジュニアは知らない。
ただ、困惑した顔で背中に触れるほど 側に立っているサンジを振りかえって
見上げた。

「おかげさまで。」とサンジがジュニアに替わって微笑みながら応える。

「小さな、坊やだったのに。月日の流れるのは本当に早い。」
婦人の夫だろう、男性も柔和な笑みを二人に向けた。

一体、誰か判らないまま、サンジとその二人の昔を懐かしがる話を
ジュニアは 所在無く、黙って 聞いていた。

「ジュニア君はいくつになるの?」と女性が尋ねる。
「15歳です。」とよどみなく応えると、

女性の目から涙が 零れ落ちた。
「そう、もう、15歳になるのね。」
「あの子が生きていたら、15歳になっていたのね。」




その夜、仕事が終ってから、ジュニアはサンジに
「あの二人は誰さ。」と聞いて見た。

自分の姿を見て、声を聞いて、歳を聞いて、涙を流す。
気になって当たり前だ。

「ま、そこに座れ。」とサンジは リビングのソファにドカ、と
深く越し掛けていたが、
突っ立ったままのジュニアを隣に座らせるために、
体を起こした。

ジュニアは、サンジの隣に腰を下ろす。
サンジは、まじまじとジュニアの顔を眺めていた。

父親に似ているのか、ジュニアは 素直で優しく、芯が強い。
どこへ出しても、自慢の息子だと いつも ウソップが鼻の穴を膨らませて言うが、

ジュニアを赤ん坊の頃から、厳しく育て上げてきたのは、
サンジだった。

足技も、航海術も、料理も、そして、銃器の扱い方も、
海で生きて行く為に必要な事を全て、
本当に幼い頃、

自我さえ 育ちきっていないほど 幼い頃から
厳しく、教えこんだ。
覚えが人並み以上に早い、利口な子供だったし、
どんなにサンジが厳しくても、歪む事無く育ったのは、
本人の生まれ持った性格もさる事ながら、

麦わらの一味の誰からも、充分な愛情を受けて育ったからに他ならない。


「覚えてなくて当たり前の話だ。」
「まだ、ションベン垂れてた頃だからな。」と薄笑いして
煙草を新しく咥え直す。



ジュニアは、話が長くなりそうだったので、
一旦立ちがり、キッチンへ、二人分のコーヒーを入れに行く。

サンジはジュニアが戻ってくる前に話をし始めた。


「お前が、3つになるか、ならないか、それくらいの頃だ。」



大きな嵐の後だった。
全員がその操舵に必死にならなければ とても乗りきれなかった。

そう言う時、幼いジュニアは、男部屋の樽の中に放り込まれる。
が、あまりに激しい揺れで、その樽が壁にぶち当たり、木っ端微塵に粉砕した。

当然、中に閉じ込められていたジュニアも頭の皮をすっぱり切り、
男部屋の中を 海に揉まれる小さなゴーイングメリー号の男部屋の中、
壁に、まるで ピンボールのように 転がり回った。


嵐が去って、男部屋に一番、最初に戻って来るのは いつもサンジだった。

壁際で 血まみれになりながら、泣き声ひとつ上げず、
打ち身だらけでその痛みに身動きも出来ず
ただ、うずくまっているジュニアを見て、

サンジの顔色が蒼ざめる。

「ジュニア。」と彼らしくない、取り乱した声をあげ、
すぐに 大声で 船医の名前を叫ぶように呼んだ。


「やっぱり、こんな子供を連れて航海するのは無理だ。」

そう言ったのは、ジュニアの本当の父親のウソップだ。
普段は、サンジや、ゾロに対して弱腰だが、一度、腹を括ったウソップの
頑固さは、一筋縄では 論破できない。

「どうするってンだよ。」と ルフィが 痛み止めの薬を飲んで、
ぐっすりと眠っているジュニアを背負い、ゆるゆると体を揺らしながら、
睨むように ウソップに尋ねる。

「養子に出す。」

実の父親がそういうのだ。
他の者の口に出すところではない。

が、そこにいる全員が不服そうな顔を露骨に見せていた。


重苦しい空気の中、ゾロが苦々しげに口を開いた。

「変な奴に預けられねえぞ。どうやって探すんだよ。養い親を」

「預けるんじゃねえ、」ウソップは覚悟を決めきった、顔付きでゾロを見返し、
「養子に出すって言っただろ。」
「親子の縁を切るんだ。」

「このまま、船に乗ってたらとても生き延びられねえ。」
「それだけじゃなく、いつか俺達の足手まといになる。」



そこまで聞いて、ジュニアは コーヒーを黙って一口、すすった。
自分の父親が そんな事を一度でも 口に出していた事を
初めて知って、それなりに衝撃を受ける。

「なにもかも、お前の為だとウソップなりに考えての事さ。」と
サンジは飄々と、しかし、きっぱりと言い切った。

「誰も、反対しなかったの?」と ジュニアは恐る恐る尋ねる。
今、自分が こうしている事を思えば、過去の事など
なにも懸念しなくても構わないのに、ジュニアは 父親に裏切られたような気分が
払拭出来ずに 悶々としながら サンジに尋ねる。

「反対もしねえが、同意もしなかったな。」

サンジはさらに話を続ける。



それから、1ヶ月ほど後。
ジュニアと同じ年頃の子供を亡くしたばかりの船乗り夫婦に出会った。

「神様が 引き合わせてくれたんですわ。」と
生きる気力を亡くしていた、その夫婦の妻が ジュニアを一目見るなり、
そう言った。

黒い髪、黒い瞳。
夫婦、二人とも、その髪色で、麦わらの一味に見せてくれた、
彼らの息子は、確かに ジュニアに良く似ていた。

母親の温もりも、温かで穏やかな寝床も、優しい子守唄も知らずに
ジュニアは育って来た。

だから、子供として当然欲しがるべきその温もりを差し出されたら、
彼らに懐くのは当然の事だ。

人柄も、素性も、申し分なかった。

その夫婦と数日、船を並べて航行し、彼らの住む島に着くまで、
船長のルフィはもちろん、ゴーイングメリー号の仲間達は、
ジュニアを本当に 吾が子として守り、育ててくれる人間かどうかを
じっと 彼ら夫婦を観察していたが、

「あの人たちなら、ジュニアもきっと幸せになる。」と
たった一人を除いて、確信した。

いや、確信はした。
その方が、ジュニアにとって幸せだと頭では判っていた。

自分だけが反対しても、実の父親も、この船の船長も、
自分の心を誰よりも 知っているはずの恋人さえ、

「ジュニアの為にはその方がいい」ともう、既に
ジュニアの行く末を決めてしまっている。
なにより、

もう、実の親子しか見えないほど、ジュニアは 妻にも、
夫にも懐いていたし、彼らも、本当に 細やかに ジュニアの
身の回りに気を配り、愛しんでいる。

それを今更 引き裂けない。
吾が子を亡くした悲しみを ジュニアを抱く事で癒しているようにしか、
サンジには見えないのは、

ゾロに言わせると、「お前のひがみだ。」と言う事になるらしい。


そして、ついに 彼らの住む島へと着いてしまった。
既に ジュニアを自分達の船に連れていった夫婦に渡す為に
ナミとサンジがジュニアの荷物を、全部、まとめていた。

いつもなら、ナミと二人きりになれば、饒舌に ナミへ
話し掛けてくるのに、サンジは一言も喋らない。

「サンジ君。」ナミが手を止めて、サンジに声をかける。

「ジュニアは、きっと、サンジ君の事忘れないわよ。」


「忘れちまってもいいですよ。」
「俺も、忘れますから。」

心から、ナミはサンジを慰めるつもりだった。
けれど、こんなに無愛想で、ぶっきらぼうなサンジを目の当たりにして、
ナミは 一瞬、唖然とし、次の瞬間には、

キリキリと鋭い痛みが胸に走った。

ウソップより、サンジの方がずっと ジュニアに心を残している事を
改めて 思い知らされる。
けれど、もう、どうしようもない。



その頃、ジュニアは、まだ あまり口が利けなかった。
片言で、側にいる者にしか判らない、独特な言葉を話すだけ。

「本当に喋るようになるのかよ。」とウソップが心配するほど、
ジュニアの言葉は明確ではなかった。



ゴーイングメリー号は、その島のログが貯まると困る。
自分達の持つ、ログは別の島への指針だ。
だから、すぐに出航しなければならないし、
幼くても、自分の置かれた立場を悟って 泣くだろう。

そうなると、お互い、辛い。
だから、特別な別れなどせず、船はゆっくりと港を離れる。

「バイバイしようね、ジュニア君。」

何気なく、ジュニアを抱いたまま、ゴーイングメリー号を
見送る妻が呟いた。


キッチンでしなくてもいい、棚の整理をしていたサンジが
船が動きはじめた事に気がつく。


滅多に泣かない、ジュニアが火が着いた様に泣き出した。
身を捩って、必死で 抱かれた腕から逃れようと泣き叫んだ。

その声が、田舎島の小さな港に響き渡る。



「もう、会えないと思ったら堪らなくなっちまってな。」

サンジは照れくさそうに コーヒーをすすって、煙草の煙を
吐き出した。

「それで?」
ジュニアは、覚えていない筈だった、記憶の底にある、
幼かった、その日の事を急に思い出した。

それでも、サンジの口から聞きたくて、尋ねる。


「海に飛びこんだ。」苦笑いしながら、サンジは答えた。

おぼろげな記憶が鮮明な映像になって、ジュニアの頭に浮かぶ。


波の間に、向日葵色の頭が揺れていた。
何度も、何度も、名前を呼ばれた。


自分を抱き締めていた、温かな腕に思い切り、噛み付いた。


「さんじ、」とはっきり、はじめて名前を呼んで、
木で出来た桟橋を走った。



「俺も、海に飛びこんだよね。」

そう言うと、サンジは 驚いた顔を隠さずに、ジュニアを見た。



温かな寝床も、優しい子守唄も、ジュニアはいらなかった。
いつも、潮風に吹かれて、煙草の匂いに守られて、

波のうねりに揺られる事を本能で選んだ。


「今日、尋ねてきたのは、その時の人達だ。」と
ジュニアはようやく 合点がいった。
サンジは静かに頷く。

「あの時、思わず飛びこんだんだが、」
「後悔してるなんて言わないよね。」

サンジの言葉を途中で遮り、ジュニアは真っ直ぐにサンジを見ている。
黒い髪、黒い瞳。

サンジは黙って、小さく笑う。
その蒼い瞳は、世界中でジュニアだけに向けられる、
ただ、ただ、温かい眼差しが滲んでいた。

血が繋がっていないのだから、似ているところなど一つもない。
けれど、

いつか、一人前になる日が来たら、
間違いなく、サンジはジュニアに言うだろう。


「お前は 俺のかけがえのない、息子だ。」と。


(終り)