やがて、サンジの足が止まった。
かなり視界は暗くなったが、ホテルからの灯りはまだ届いていて、夜中だと言うのに、周りは夕方の様にオレンジ色の光に照らされて、はっきりと見通せる。
(…ここは…?)ガースは、サンジの背中越しに周りを見回した。

思い掛けないほど小さな「港町」がそこにある。
レストランは、海に浮かんでいるから、大きな貨物船から直接荷物を運び入れる事が簡単に出来るだろうが、陸に建てられているホテルまで、さまざまな物資を運び込むのは、人手も労力もかかるし、大変な作業だ。
その不便を考えて、海から船で行き来出来る様、この小さな運河は作られたのだろう。
サンジの目の前に山と積まれている真っ黒なワイン樽は、まさにこの小さな運河を使って、運び込まれたものに違いない。

「…ずいぶん、たくさんあるんですね…。爆発したりしねえんで?」
「さあな。…中から、何が出てくるか、楽しみだ」

ごく、自然な足取りでサンジのそばに近づき、そう囁いたガースに、サンジは不敵に口元を綻ばせた。
落ち着き払っているサンジの様子を見て、何故かガースの背筋にゾっ…と寒気が走る。

命を狙われているのは、サンジの方なのに、そのサンジ本人が、怪しげな樽を前にして、少しも警戒していないし、怯えもしていない。
むしろ、ワイン樽を見上げるサンジの顔つきは、獲物を嬲り殺しにするのを楽しみにしている、残忍で冷酷な猛獣の様にすら見えた。

ガースは、もう一度、ワイン樽を注意深く見上げてみる。
一見して怪しい、と言うより、何か、禍々しい殺気が押し込められ、それが樽の一つ一つからじわりじわり…と滲み出ているかの様だ。

(…何か、…確かに、何か要る…)
それを感じた時、無意識にガースの喉がゴクリと鳴った。
おそらく、樽の中にはワインなど一滴も入っていない。
ワインが入るべき樽の中に、得体の知れない、何かがいる。

「…オールブルーのオーナー、サンジ…ってのは、お前だな?」
何処からともなく、男にしては勘に触るほど甲高い、少ししゃがれた、耳障りの悪い声がした。
その声のした方向を見定めようとガースは、左右を見回すが、気配が感じ取れない。
だが、サンジは全く、動じる事無く平然と、
「…今の俺には、賞金なんて1ベリーもかかってねえ筈だが、…いったい、なんの用だ?」
まるで世間話をする様な穏やかな口調で、耳障りの悪い声の主にそう尋ねた。

「…海賊の首に賞金を掛けるのは、何も、世界政府だけじゃない」
「…フン」サンジは、口から煙草を離す事もせずに、不気味な声の主の答えを鼻で笑う。
「…そんな事ぐらい、嫌ってほど知ってるさ…で?」
サンジの目が、薄く、不適に笑う。
その目が、まるで鋭利な刃物の様に、あるいは、獣の爪の様に、強くギラリと光った。
「今度はどんな国が、このオールブルーを欲しがってるんだ?」

声は、しばし、気圧された様に沈黙する。
だが、サンジは構わずにゆっくりと顔を上げた。その視線は、もうはっきりと声の主の居場所を確信しているかの様に、まっすぐにただひとつの樽に向けられている。

「…聞いても、無駄らしい」
その時、サンジは、クスッ、と小さくガースに笑いかけた。
一緒に、大人が顔をしかめる様なタチの悪い悪戯をふざけて楽しみ、遊ぶ共犯の友達に囁く様な、そんな笑い方だった。
その笑顔は、あまりにも唐突に少年ぽく、今、この状況に全くそぐわない。
だが、そのちぐはぐな表情が、ガースの恋心をまた激しく揺さぶった。

ガースの心臓が、ドキリと甘く鳴ったその瞬間、サンジの姿が風に掻き消される様に消える。
ハっとした時には、積み上げられていた樽の山が、ガラガラと大きな音を立てて崩れている最中だった。

息を潜める様な殺気が、それを合図に一気に膨れ上がり、そして、弾けた。
樽は、内側から鋭利な刃物ですっぱりと切り割られ、ブ…ン…と不気味な羽音と、共に、人間の子供ぐらいの大きさのカマキリが次々と這い出て来る。

「パウリーさんよりも、強い」と、ガレーラでは、ガースのロープ術の評判は高い。
その上、腕っ節にも自信はある。すぐに、身に着けている自らの武器であるロープを手に取った。

口笛とも、風の音とも知れない音が間断なく聞こえるのは、おそらく、虫たちを操る合図なのだろう。

虫たちの動きは、ガースよりもずっと早く、得意のロープでは、全く太刀打ち出来ない。
絡めとっても、スッパリと切られ、逃げられてしまう。
仕方なく、足やこぶしを使って、襲い掛かってくる巨大なカマキリを叩き伏せようとしても、その敏捷な動きに目すらついていけない。

ひきかえ、いつからこの場にいたのか、サンジの義理の息子、ジュニアはカマキリ達の動きよりもさらに早く、俊敏に動いて、次々とカマキリ達を蹴りつぶしていく。
腰に携えている、銃を使う事など最初から全く頭にないらしい。

サンジは、と言うと、最初に樽の山を蹴り潰してからは一度もカマキリと戦っていない。綺麗に真横に二つに切られた樽を椅子がわりに腰掛け、タバコを吹かしながら、
何故か全く、やる気を削がれたのか、いかにもつまらなさそうな態度で、見るともなしに、ジュニアが戦っている様子をただ、眺めている。

「…虫が嫌いだからって、そうやって、ずっと座ってる気?少しは、動いたらどうなのさ!」

痛みを感じないカマキリ達は、ジュニアが蹴っても、何度も起き上がり、鎌を振り上げて、
羽を震わせて襲ってくる。頭を蹴り潰し、首を蹴り飛ばしても、カマキリの体は死なず、
鎌と羽、足が動いているうちは、執拗に人間に襲い掛かってくる。

「…虫が嫌いだから動かないんじゃねえよ、やる気が失せただけだ。たかが虫相手に、ムキになってられるか」
息を弾ませ、虫の体液を返り血の様に浴びているジュニアを見ても、サンジは全く興味なさそうにプイ、と顔を背けてしまう。

(…なんとか、ここで男を見せないと…!)
年も若く、自分よりもずっと小柄で弱そうに見えるジュニア一人がカマキリの相手に獅子奮迅の戦いぶりを見せているのに、自分は全く役に立っていない。
ガースはその事が、急に気恥ずかしくなった。

なんとか、ジュニアが弱らせた一匹をひっ捕まえ、腕力でギリギリと締め上げる。
その事に、必死になりすぎた。

「動くな!」
いつの間に近づいてきたのか、背後に数人の男が立ち、その内の一人が、ガースの背中に硬い、筒を押し付けている。
「…虫なんざ、いくらでも殺すがいい」
あの、甲高い、耳障りの悪い声がガースの耳元で聞こえた。カチリ、と檄鉄が降りる音も。背後に立ったこの男が一発、引き金を引けば、ガースは背中から心臓を打ち抜かれて、即死する。
その上、背後に立っている男達が携えている銃の銃口は、全てガースに向けられている。
そんな気配をはっきりとガースは感じ、腕の中で絞め殺したカマキリの死体をゆるゆると手放し、意気地なく、両手を上に上げた。

「お前は、ここのコックか?」
グリグリとさらに強く、男は、ガースの背中に銃口を突きつけて、ガースにそう尋ねた。

振り返って、殴りつけてやれば押さえ込める。
そう思うのに、脇の下から二本、胸回りから喉へと一本、同じ太さの腕が巻きついていて、そのせいで、ガースは身動き出来ない。
それに、背中には銃が突きつけられている。
男達には、どうやら、腕が4本ある。足も合わせれば、つまり、6本。
サンジの命を狙ったのは、普通の人間ではなく、どうやら、魚人ならぬ、「虫人」と呼ばれている種族だろう。

「動くな、子せがれ!黒足のサンジ!」
虫男は、また甲高い声で喚いた。

もうすでに、息をし、動いているカマキリは残り少ない。
地面にはピクピクと痙攣し、蠢き、這いずっている個体もいるが、生きているとは到底言えない姿になっている。

「…動くと、大事なコックが一人、死ぬぞ!」

その声に、サンジとジュニアがゆっくりと振り向いた。
最後の一匹になったカマキリの死体が、地面にドサ…と乾いた音を立てる。

サンジは、口に銜えていた、もう消えかけのタバコを指でつまんで、一息、ため息をつくように煙を吐き出す。
そして、言い放った。

「…そいつは、うちのコックじゃねえ。殺したかったら、勝手に殺せ」

ガースは耳を疑う。だが、聞き間違いではない。

そいつは、うちのコックじゃねえ。殺したかったら、勝手に殺せ

確かに、サンジはそう言った。さも、面倒そうに、さも、迷惑そうに。

その残酷な言葉が、一瞬でガースの恋心が木っ端微塵に砕き、その破片が、ガースの胸に突き刺さり、その痛みで恋上手と自負して来た自信も、一緒に粉々に砕かれた。

お前になんか、興味はない。お前なんか、どうでもいい
面と向かってそう言われるよりも、ずっと傷ついた。

ガースが死のうが生きようが、サンジにとってはどうでもいい事なのだ。
むしろ、勝手に死ねと言われているのと変わりない。

そう言われているのに、怒りなど全くわかず、ただ、胸が息苦しくて泣きたくなる衝動が、身体の奥からこみ上げてくる。
泣きたくなるのは、悲しいからで、そう感じるのは、やはり、セックスの相手としてだけでなく、一時の恋の相手としてだけでなく、心からサンジに惚れかけていたからだと、
サンジに見捨てられた今になって、はっきりとガースは気がついた。

「…オジさん達さ、」
サンジに変わって、ジュニアが虫人間達を説得するかの様に、サンジを押しのけて前へ進み出てきた。
「悪い事は言わないから、そんな悪あがき、しない方がいいよ」
「もし、その人を撃ち殺したら、…逃げ場がなくなって、サンジに殺されるよ?」
「大人しく海軍に捕まれば、命だけは助かるかも知れない」
「自分達だけで逃げようったって、オールブルーからは出れないんだから」
「ワイン樽を運んできたのは、ただの貨物船じゃない。オールブルーへの航行を許された特別な貨物船なんだ」
「どうやってその貨物船にワイン樽を潜り込ませたのかはわからないけど、この海の海流も地形も、特別な技能を持ってる航海士がいないと、外から入ってくる事も、ここから外へ出て行く事も出来ないんだよ、…この事をオジさん達、知ってた?」

が、その理路整然とした、真摯な説得も無駄だった。
「うるさい!黙れ、小僧!そのくらい、言われなくてもわかってる!」とわめきざま、
ガースの背後に立つ男が一人、ジュニアに向けて発砲する。
けれど、碌に照準も定めず、自棄っぱちで撃った銃弾が、ジュニアの身体を掠める事はない。それどころか、「ギャ!」と声を上げたのは、ガースに銃を突き付けていた男の方だった。

男達の悲鳴が上がり、数人の人間が一気になぎ倒される音が聞こえるだけで、何が起こったのか全くガースにはわからない。
ハっと我に返った時には、サンジの華奢な背中と、暗がりでも艶やかな向日葵色の髪が目に入った。
返り血が、ほんの僅かにサンジの前半身に飛び散っているだけで、息一つ乱れていない。





(…何があったんだ…?)
サンジが動いたのは、時間にしてほんの数秒。10秒にも満たない刹那だった。

ガースの後ろに立っていた男達を、サンジはその僅かな時間で、全て、一撃、いや、一蹴りで、倒してしまったのだ。
男達の無様なうめき声が、足元に聞こえ、ガースは恐る恐る、視線を落とす。

悶絶している者もいれば、ピクピクと痙攣している者もいて、全く身動きしない者もいる。
このまま、放って置けば、彼らは間違いなく死ぬだろう。
いや、もう既に息絶えている者もいるかも知れない。

「…あの、…こいつら、死んでしまいますよ、このまま放っておいたら…」
「死んじまったら、いろいろ、厄介な事になるんじゃあ…」
さっきまで、自分を殺そうとしていた輩だが、見殺しにするのは後味が悪い。
それに、命を狙われたからと言って、こうも無造作に人を殺めていいと言う法はない。
圧倒的に力の差があるのが分かっていて、嬲っただけの様なサンジの所業は、決して正当防衛だとは言えないし、もしも、彼らがどこかの国からの刺客だと言うのなら、
その国から、さらに報復を受ける事も考えられる。

だが、サンジはガースの言葉を背中で聞いて、そしてせせら笑った。
「俺の命を奪りに来た奴を、俺がどうしようと俺の勝手だ」
「…大人しく帰れって、忠告はしただろ。それを無視したのは奴らの方だ」
「全く…こいつら、もう少し、骨があるかと思ったが、てんで、話にならねえな。暴れ足りねえよ」
そう言ってから、
「…海賊してた頃なら、もっと思う存分、戦える相手がわんさかいたのに…」と、煙草の煙を深々と吐き出して、溜め息混じりにそう言った。

(…この人は…)ガースは、自分の浅はかな恋慕の情を省みて、居た堪れなくなる。

巨大だったとは言え、無様にもカマキリ相手にさんざん手こずり、その上、銃口を突きつけられて、窮地に陥り、危うく、サンジに見捨てられそうになった。

ほんの短い間の出来事だったけれど、ガースにしてみれば、一大事だったのに、サンジにしてみれば、取るに足らない事に過ぎず、軽い運動にもなっていない。

(…この人と、俺とじゃ、…男としての次元が違う。違い過ぎる…)
強さも、度量も、肝っ玉の太さも何もかもが、桁違いだ。
一時の戯れで、手を出していい相手ではない。それこそ、命がけで惚れ抜く覚悟でないと、惨めな思いをするのはきっと、ガースの方だ。

つくづく、骨身に沁みてそう思った。

※ ※※

サンジが、ガレーラカンパニーに依頼した仕事は、無事に終わり、ガースは逃げる様に
オールブルーを去った。

だが、ガースがサンジに惚れて、手を出そうとしていた事は、その時、一緒に仕事をしていた仲間、全員が知っている。
うまく事が運んだかどうか、誰も知らない事だが、噂と言うのはオヒレがつくもので、
回りまわってガースの耳に自分とサンジの話しが入って来た時には、何がどうなってそうなったのかは全く定かではないが、事がうまく進んで、ガースが思いを遂げた事になっていた。

「…とんでもない!」その噂話を聞いた時、ガースは震え上がった。
「そんな根も葉もない話が、世間に広まって、もしも、ロロノア・ゾロの耳に入ったり
したら…!」
事実無根だと言っても、聞き入れて貰えないかも知れない。そうなると、首をすっ飛ばされるか、一刀両断にされるか、いずれにせよ、ただでは済まないだろう。

確かにサンジに惚れたけれど、一切、手は出していない、
そんな恐れ多い事など、とても出来なかった、と土下座してでも必死に弁解するしか
自分が助かる道はない。

それから、ほどなく、ガースはとある酒場でとうとうロロノア・ゾロの姿を見かけてしまった。
黙って、その場を立ち去る事も出来たけれど、これから先、いつ、サンジとの噂がロロノア・ゾロの耳に入り、自分のところに火の粉が降りかかってくるか、いつも恐怖に怯えながら生きていくのかと思うと、とるべき道は一つしかなかった。

煙草や葉巻の煙で、少しかすんでいる、薄暗い酒場の中をガースは、意を決し、人を掻き分け、カウンターに腰掛けているロロノア・ゾロに向かってまっすぐ進む。
夜もとっぷりと更けていて、その上、町外れなのに、その酒場はとても盛況で、海賊や船乗りらしい男達の酔っ払った声や、その男達に買われた女達が笑いさざめく喧騒で、かなりやかましいけれど、ガースの耳には何も聞こえなかった。

「…ロロノア・ゾロの旦那とお見受けします…!」

ガースは、精一杯の声を出し、ロロノア・ゾロの足元に両手をついた。

※※※

「盛り場で、酒飲んで、飯を食ってたんだ」
「そしたら、…見た事も無エ男がいきなり、だ」
「一言、詫びさせてくれって言って、いきなり土下座だ」
「…お前、ガースって名前の船大工、知ってるか?」

そのゾロの言葉に、サンジが瞼を持ち上げる。
「…ガース?…船大工…?」と、呟いて、首を傾げ、ややあって、ゆっくりと頭を振った。
「お前、ちょっと前にこの島に新しい名所、作っただろ?」とゾロが尋ねると、少しづつ頭が動き出したのか、ややあってから「…名所…って、潜水艇の事か」と聞き返してきた。

「…俺は、まだ見てねえけどな」
せっかく、開きかけた瞼をゾロは唇で軽く塞ぎながら、そう答える。

「…天気が良かったら、雪掻きついでに行くか…?」
サンジはそう言い、ゾロの温もりが染み込んだ腕をしなやかに伸ばし、その頭を引き寄せて、ゾロの唇をついばむ。

「…で、ガースって奴の事、知ってるのかよ?」
口付けの最中、じゃれる様にゾロがそう尋ねると、
「そんな名前の奴、…知らね」
そう答えたのに、サンジは、表情を隠す様にゾロの頬に自分の顔を押し付けて、クス…と
意味深に含み笑いをし、それから、またゾロの唇を愛しげにそっと塞いだ。

(終わり)