心臓と強運



「食料がなくなった。」

あと三日間ほどで、ログが示す島に着く筈だから、水と蜜柑と非常食で
なんとか繋ぎ、あとは、魚を釣ったりして飢えをしのげばいい。

そう思っていたけれども、たまたま、船は小さな島を見つけた。
「ログが貯まるまでに出航すれば問題ないだろ。」
「なんか、食う物を手に入れて来る。」

それまでの空腹を抱えての航海で、ゴーイングメリー号の乗員は
コックのサンジ以外は体力を消耗していた。

(出来れば、水も欲しい)と思ったけれども、周囲をぐるりと見渡せるほどの
岩の大きな物といってもいいほど小さな島では、
窪みに貯まった雨水くらいしか期待出来ない。
まして、禿山かと思うような外観では、獣や果物なども見つけるのは無理だ。

「海藻と貝と、小魚くらいか。」とサンジに続いて、ゾロも当たり前のような顔をして
付いて来た。

「余計に腹が減るぜ」とサンジは迷惑そうな顔をしたけれども、ゾロは、
お構いなく、釣竿などを持って岩礁を歩き出す。

「何が食えて、何がダメかわからねえから、適当にやるぜ。」
「見たことのねえ、変な魚釣ったら絶対に触るなよ。」

消耗しているのは、サンジも同じの筈だ。
いや、誰よりも食料を取らずに、誰よりも動いているのだから、
実は誰よりも消耗しているだろう。ゾロはそう思って、自分も空腹だが、
サンジに付き添う様にして島に降りたのだ。
二人で食料を物色すれば、それだけ時間が短くて済む。

ところが、その日は、ゾロは運と言うか、ツキから完全に見放されている日だった。

(魚なんていやしねえんじゃねえか)
なんど餌を付け替えて、沖へ竿を投げても、一向に魚の気配を感じない。
(いっそ、潜ってモリで突いた方が手っ取り早い)と思い返して、
持ってきた銛を手に、磯辺を移動する。

「おい、海藻の上は滑るから」気をつけろ、と言うサンジの声が背中から
聞こえた。数日前の海軍との小競り合いで、サンジは脇腹に銃弾を受けている。

「食料が必要なのはわかってるけど、絶対に水に潜ったらダメだからね。」と
チョッパーに釘を刺されている所為で、サンジも釣り糸を垂れながら、
磯の貝などを拾い集めていた。

「判ってる。」ゾロはサンジの方へ振り向きもせずに、銛を持った手だけをあげて、
返事をする。

濡れている海藻が覆っている磯の面積と、岸の岩場の濡れ具合からして、
この海は、かなり干満の差が激しい様だ。
だが、少しずつ満ちている最中らしく、水際へ歩くゾロの足を洗う波は
風が穏やかな割りに、勢いがある。

気をつけて歩いたつもりだった。
が、ゾロは濡れた海藻が、磯の上にはびこっている時の滑りやすさを完全に
ナめていて、いつもどおりの足運びでさっさと歩いていた。

岩と岩の間に大きな水溜りが出来ていて、その上にびっしりと海藻が揺らめいていた。
てっきり、そこは平坦な岩の上だと思ったゾロはその浮いている状態の海藻の上に
こともあろうに、勢いをつけて、飛び降りてしまった。

「うお!?」

固い石を踏みしめるつもりで着地する筈の足は、バシャン!と派手な音を立てて
海藻の塊の中に埋もれる。
慌てて、片方の足を踏ん張ると、そこにもまるで苔のように海藻が
こびりついていて、ゾロは、その水溜りの中へと尻餅をついた。

慌てて、立とう、とした。
が、ふんばった足の、足首までが、岩の裂け目に嵌りこんだ。

捻挫したか、折ったかくらいの痛みが足に走った。
そして、みるみる腫れて行く。

(これくらいで)サンジを大声で呼びつけたら、きっと
「なにやってンだ。迷惑な野郎だな。」だの、碌な言葉を言わないだろう。
そう思って、ゾロはなんとか足を引っ張り出そうとしたけれども、浅い水溜りの癖に
海藻が気味の悪いほど浮いている所為で、どうなっているのか手探りでしかわからない。

が、手を伸ばせば、波で手を洗えるほどの波打ち際で、このまま
潮が満ちてきたら、間違いなくこのままの体勢で水没する。

「冗談じゃねえぞ。」と焦りを感じた時には、
最初、腰くらいだった水溜まりの水の水位が胸のところまで上昇していた。

さっさとサンジを呼べば、足で岩を蹴り砕いてくれると判っていても、
こんなみっともない状態で、助けを呼ぶなど、意地でも避けたかった。

頭から波がザブザブぶっかぶるようになっても、ゾロはサンジを呼ばなかった。
いや、呼べなかった。下らない意地や見栄で迷っている間に、
口を開けば、海水を飲まなければならないほどの状況になって
やっと腹が決ったが、もう遅い。

顎を上に向けても、もう海面はゾロの頭の上に来てしまった。
どれくらいで潮が引いていくのか判らない。

(冗談じゃねえ)と慌ててもがいても、海水は泡立つばかりで、
ゾロと空気を遮断する。

声で届かないのなら、とゾロは心の中でサンジを呼んだ。
やっと、助けを呼ぶ気になったのだが、だんだん気が遠くなる。


「ゾロ、気がついた?!!」

耳元で岩が粉砕されている音が聞こえたような気がした、それから
ゾロの記憶はぷっつりと切れて、
目が醒めると、チョッパーが自分の顔を覗き込んでいた。

「足の骨が折れてるけど、大丈夫、すぐにくっ付くから。」

助かって、ホとした、とはゾロは思わない。
溺れかけて、気を失っていた癖に、ゾロは自分が死ぬかもしれないとは
一瞬も思わなかったからだ。

サンジを信じていた、という事ではなく、自分の運を信じきっていた。

皆がそれぞれ、ゾロを労わるような、皮肉のような言葉を言いに来るけれど、
サンジは顔を見せない。

足が折れていても、歩くくらいは出来るので、皆が寝静まってから、
ゾロは船の中を歩いた。

(礼くらいは素直に言っとくべきだ)
どんなにバカにされても皮肉を言われても、
それが筋だ、とゾロは暢気にそんな事くらいしか考えていなかった。

サンジは蜜柑畑に、後甲板の方へ顔を向けて座っていた。
その向こうには、漆黒の夜に星が瞬いている。

「おい。」とゾロはいつもどおりの声でサンジを呼んだ。
サンジはゾロに背を向けたまま、何も答えない。

「悪かったな、面倒かけて」とゾロはすっぱりと言いたい事を口にだして、
あっさりと謝る。だが、サンジの背中は石のように黙ったままだ。

何も言わない、サンジの背中からは静かな怒りの感情が滲み出ていた。
それに気がついた途端、ゾロの胸は急に重い鼓動を打ち始める。

「悪かったっつってるだろ。」ともう一度言うと、やっと
「ああ。」とぶっきらぼうな声が返って来た。けれども、サンジはゾロを見ようとは
しない。

怒っている、と言う感情をサンジは必死で押し殺そうとしている。
ゾロに悟られたくない、と言う気持ちが青いシャツの背中が、
いつもとなんら変わらない姿勢で座っている後姿が、
ゾロを拒絶していた。向こうへ行け、放っておいてくれ、と言っている。

本気で怒っている、その感情をサンジはぶつけてこない。

「むかついてるならむかついてるって言え。」とゾロは憤りを込めて
サンジにそう言った。
「別に。」とサンジはそれでも短く答える。

「別にってどういう事だ。」とゾロは階段を乱暴な足取りでゆっくりと昇った。
昇り切って、サンジの真後ろに仁王立ちになった時、サンジは
億劫そうに立ち上がった。
「てめえのアホ面を今はみたくねえだけだ。」と背を向けたままで言い吐く。

「少しくらい、らしい事言えよ。」と
ゾロは強引に自分の方へ向き直らせようとサンジの肩を掴んだ。
サンジらしく、皮肉を言い、バカにしてもいい。
恋人らしく、心配したんだと、怒っているなら、その感情をぶつけて欲しい。
ゾロはそう思っているのに、サンジはゾロの手を鷲掴みにし、乱暴に振り解く。

「この船は狭過ぎだ。」そう言った、サンジの声は搾り出した様に苦しそうだった。
「自分の腹の中のモンをどうにかしたくても、一人になる場所がねえ。」

次の瞬間にはゾロの肩にサンジの顔が埋まっていた。
大粒の雨粒のような温かな雫が、
ゾロのシャツの肩先をほんの少しだけ濡らしたような気がした。

「俺の心臓を止める気か、てめえは。」

苦しそうにそれだけ言うと、ゾロはサンジに突き放された。
ギュっと抱き締められた感触を感じて、抱き締め返そうとした時には、
サンジは蜜柑畑から飛び降りて、下からゾロを見上げていた。
自分が月灯りで作る影の所為で、やっぱりサンジの顔は見えない。

「こんな事、二度と許さねえ。」
「それだけだ。」

咄嗟にゾロは言葉が出なかった。
色々な後悔と考え違いが頭の中を交錯した。

本気で心配して、本気で怒っていても、サンジはそれを露骨にぶつけてこない。
今サンジが何を考えているのか、どんな事を想っているのか、とても知りたいのに、
ゾロは聞く事が出来なかった。

誰よりも理解していると思っていたサンジが誰よりも理解出来ない人間で、
誰よりも近くにいて欲しいのに、誰よりも遠く感じた。

その距離を埋めるには、立ち竦んでいる場合ではない。
「サンジ、」とゾロは声を出してサンジを呼びとめる。

「心配させちまって、本当に悪かった。」
「許してくれ。」

「もういい。」サンジは面倒くさそうに答えてまた歩き出そうとする。
「よくねえ。」とゾロは大声でサンジを振り向かせる。

「まともに俺の面を見ねえ間は何度だって謝る。」
「もういいっつってんだ。」とサンジはイライラするような声だが、ゾロの方へ
やっと顔を向けた。

「あんな事くらいでオタオタした自分にムカついてるだけだ。」
「頼むから放っておいてくれ」

そう言って、サンジは困惑したような笑みをほのかに浮かべてゾロを見上げた。
それだけの事で、さっき感じたサンジとの距離も、寂しさも、ゾロの心から
消えてなくなる。

「本当に悪かった。」
サンジの、自分を想ってくれている気持ちをまるで理解して
いなかった事を、ゾロは改めて詫びた。

「こっちこそ、悪かった。」とサンジは言った。
「もっと、お前って奴を信じなきゃダメだな。」

それを聞いて、ゾロは何も言えなくなる。
適当な言葉が見つからず、そんな事を言う、サンジがただ、どうしようもなく
愛しいと思う感情だけで心が一杯になって唇からは何も声が出せなかった。

そのゾロの眼差しをサンジも黙って静かに受け止めている。
長い長い、沈黙の中二人は体を触れる事無く、言葉を交わす事無く、
お互いを見つめるだけで感情を伝えあった。

余計な心配をしてしまったと言う不甲斐ない想いを、
余計な心配をかけてしまったと言う後悔を、

お互いに伝え合って、
そんな心の鬱憤を相手に全て渡しきった時、同時に頬に笑みが浮かぶ。

「さっさと寝ろ。」とサンジはいつもどおりに言うと、
「ああ、」とゾロもいつもどおりの声で返す。

そして、いつもの二人に戻って行く。