その島は初冬を迎えたままの気候のまま季節が止まっている。
そぼ降る雨はすぐに細雪に変わり、ぬかるむ事の無いようにと整備された
灰色の石畳を凍て付かせて、その上に柔らかに降り積もる。
世の中で彼の名を知っている者は彼を「世界一の剣豪」と言う飾り名をつけて呼ぶ、
一人きりで旅をするロロノア・ゾロはそんな島に辿り着いた。
この島を根城にしている海賊の中に、自分こそが世界一だと称する者がいると
聞いたから、ゾロはやって来た。だが、実際にゾロが姿を見せ事が人の口に登った途端、
その海賊はこの島から逃げた。
(やる事がなくなっちまったな)この海域は冬でも、きっとあの気難しい、蒼い海の辺りは今頃、最も美しく命に満ち溢れた夏の頃だろう。まだ、帰れない。
ゾロの往く道をサンジが決して踏み込んでこない様に、ゾロもサンジが歩くサンジの道へ簡単には踏み込まない。お互いがふと立ち止まり、疲れた足を休める為の時間と場所が必要になる時、二つ道が交わるだけ。
今は疲れは感じない。ただ、一人で冷たい空気に晒されて行くあてもなく歩いていると
サンジが持っている暖かなものが懐かしくなる。
サンジ自身の温もりや、サンジが作る温かな食事、それを囲む、サンジが大事にしている者達の幸せそうな笑顔が次々に脳裏に浮かんでくる。
最も濃く、最も強く鮮明に思い出せるのは、そんな彼らと共に笑うサンジの姿だ。
声も、足音も、煙草の匂いも、思い出そうとしなくても、それはまるで本能のように
ゾロの脳裏に蘇る。
まだ、日が暮れてはいないけれども、薄い雲のかかる夕暮れにふと気がつくと、
街の中の公園にゾロは迷い込んでいた。
イルカや鯨の形を模した遊具、ブランコ、束の間に訪れる春を待つ花壇、
冷え冷えと光る鉄を組み合せて建てられたジャングルジム、そこから滑り落ちるように
設えた滑り台。雪がちらついていても、子供達は楽しげに雪を踏み散らし、笑い声を上げて夢中になって遊んでいる。
大勢の子供の中には、黒い髪の子供もいた。歳の頃、4、5歳だろう。
同じ歳頃の子供と仔犬の様に雪の中を駆け回っていた。
(似てるな)
髪の縮れている様や、生き生きと輝く黒い瞳、どことなく、幼い頃のジュニアをゾロに思い出す。ゾロは空いているブランコに腰を下して、子供達が笑いさざめく様子を
見るともなしに見ていた。腰に三振りの刀を挿した男を誰も警戒しないのは、
子供達の誰もがその男が「ロロノア・ゾロ」だと知っているからだ。
(どこかで見た風景だな)暮れていくに連れ、徐々に景色は灰色になって行き、
子供の数が少しづつ減り、やがて踏み荒らされた地面の上の小さな無数の足跡は
ゆっくりと雪に隠されて行く風景をゾロは以前、見た事がある様な気がした。
寒くても、そこにいなければならなくて、じっと座って何かを見ていた事がある。
やっぱり、雪が降り積もって行く公園だった。
(ハーモニカだ)
ゾロは記憶を手繰って、目の前の風景をデジャブーの様に懐かしく感じた理由を思い出した。
あれは、ジュニアをサンジと二人でバラティエへと送って行った旅での事だった。
どこだかの冬島だった。
普段、同じ子供と遊ぶ機会など殆ど無いまだ、4歳になったばかりのジュニアは、
その島でふと立ち寄った公園で、偶然居合せた子供達と遊んだ。
雪玉を投げ合ったり、雪を固めて雪だるまを作ったり、新雪の上に足跡をつけたり。
頬を紅潮させて、無邪気に、夢中で遊んだ。
「日も暮れてきたし、そろそろ船に帰るぞ」そんなジュニアを遠くから眺めるだけで、転んでも転ばされても決して近付かなかったゾロが誰も居なくなり、ジュニアだけ担ったのを見計らってやっと、ジュニアに近付いた。
「もうチョットだけ遊ぶ」と言いたげに雪を捏ねていたジュニアはしゃがんだまま
ゾロを見上げていたが、そんな我侭を言う子ではなかった。麦わらの一味の誰であれ、
彼らから与えられる物の全ては、自分を愛しているからこそだとジュニアは知っている。
「うん」と素直に頷いて、立ち上がる。
そして、名残惜しそうに雪が静かに降り積もって行く楽しい時を過ごした公園を振り返った。暫し立ち止まり、ふと、「ちょっと待ってて」と何かを思い出した様に、
今は止まって枯れている噴水の側に向かって歩き出す。
「ジュニア.帰るぞ」と今度はサンジがジュニアに声を掛けた。
「あっ」と噴水の中へ縁を乗越えて入ったジュニアがその中心の優しげな女性の
彫像辺りの雪を払ってから声を上げた。
「「なんだ」」とゾロとサンジは同じタイミング、同じ口調でジュニアの「あッ」と言う声の理由を尋ねる。「ハーモニカがない、俺、ここに置いたのに」とジュニアは泣きそうになって二人を振りかえった。
「お父さんだと思え」そう言って、ジュニアがゴーイングメリー号から旅に出る時、
ウソップがジュニアに渡した、小さな掌にさえ乗るくらいの可愛らしいハーモニカだった。
「良くこんなの手作り出来るわね。海賊やるより、楽器職人の方が向いてるんじゃない」とナミが皮肉を言いながらも、そのハーモニカの出来を誉めた。
「音階もバッチリね。素晴らしいわ」とそれが完成した時にロビンも驚いていた。
何かを参考にした訳ではなく、ただ、海に落ちていたハーモニカを分解し、
その仕組みを見覚え、小さな部品の一つ一つをウソップは作り上げて完成させた
世の中でたった一つしか無い、ジュニアの為だけのハーモニカだった。
どうしよう、とジュニアは小さく呟いて、ゾロとサンジの方を見もせずに
必死で探し始める。
当然、ゾロもサンジも辺りを探そうと、キョロキョロと視線をさ迷わせた。
「俺が探すから。俺のだから、俺が探すから。」
泣き声まじりの声だったけれども、しゃがみ込み、降り積もって足跡を隠してしまった地面の雪を手で掻いてハーモニカを探そうとしたゾロとサンジを
ジュニアはそう言って止めた。
二人は唖然としてジュニアを見つめる。引き結んだ口、絶対に意志を曲げない頑固な
眼差しに大の大人二人が一瞬、言葉を失った。
(やっぱり、コイツウソップの倅だな)とゾロは思った。
ここぞと言う時には一歩も退かない、ウソップの血がはっきりとそのジュニアの面差しに現れていた。
「でも、おまえ」とサンジが言い掛けたが、「判った」とゾロは答えて、サンジの腕を
掴んで引き摺る様にジュニアの側を離れる。
雪はどんどんと容赦無く降り積もる。早く探し出さないとなんの罪の意識もない雪が
ハーモニカを隠してしまう。
(風邪を引くかも)(手袋ももう濡れて指先が冷たいだろうに)(もしかしたら
もう誰かが持って帰ってしまった後かもしれない)(腹も減ってる筈なのに)
ただ、煙草を咥えて、黙ったまま隣に佇むサンジの気持ちが、余計な手出しをさせないように捕まえた、肘の辺りに添えたままになっているゾロの手へと伝わってくる。
無表情を装っていても、サンジの声が聞こえるくらいにゾロはその気持ちを感じられた。
「寒かったら先に帰れ」とゾロは敢えて、サンジの表情を伺うような事はせずに
淡々とそう言った。
「ああ、そうさせてもらう」とサンジはイラついた口調で答えて、突き放す様にゾロの手を解く。
冷え切ったジュニアの体を温める為に先に帰って、キッチンの中を温め、風呂を沸かし、暖かな食事を用意するつもりだろう。けれど、それを口に出したら、
「甘やかしている」と思われるのが嫌なのだ。だから、サンジは一見、ぶっきらぼうな態度を取っている。それくらいの事を見透かせない程、ゾロは青くはない。
「帰り道で迷うんじゃねえぞ」公園から出て行く直前、サンジは振りかえってそうゾロに怒鳴った。(なんだ、引き止めて欲しいのか?)ゾロはそのサンジの行動の意味までは見透かせず、心の中で首を傾げた。
サンジは寒空の下にゾロとジュニアを置いて帰るべきか、ここに残ってジュニアを見守りたいと言う気持ちに従うべきかを決めかねて、自分で答えを出せないのかも知れない。「ゾロとジュニアだけでは、船まで迷わずに帰れないから引き止められた」
「だから先に帰れなかった」と、そんな言い訳がサンジには必要なのだろう。
サンジは立ち止まってゾロを見ている。まるで、ゾロの言葉を待っている様だ。
(どこまでも意地っ張りな奴だな)とそのサンジの少し怒ったような、
困ったような複雑な眼差しを見て、ゾロは可笑しくなった。
「ああ、ジュニアがいるから心配無い。さっさと帰れ」と一見無神経かと思われるくらいに無遠慮にそれでも、迷っていたサンジの背中をゾロの言葉は優しく押した。
サンジは「ああ」と皮肉まじりながらもゾロの意見は尤もだ、と短く答え、
「そうだったな」と独り言の様に軽く呟いてゾロに背を向けた。
石畳に薄く降り積もった雪を踏みしめて行くその足音が遠ざかって行く。
ゾロは公園の中のジュニアに視線を移した。
白い息を吐いて、真っ赤な頬をして、さほど広くは無い公園をくまなく、
小さなハーモニカを探して必死になっている。
一緒に探してやるよりも、ただ、身動きせずにそのジュニアを見ている方が
辛くて寒い。けれども、ゾロは仁王立ちに突っ立ったまま、一切ジュニアに
手を貸さず、声も掛けない。
気の済むまで探せば良いと思っていた。
見つかっても、見つからなくても、構わない。
失してしまったと哀しく、悔しくなる気持ちも、そのハーモニカは確かにジュニアにとってかけがえの無いものになった証だ。
まだ、デタラメに吹くだけで、音楽など奏でる事がなかったハーモニカだけれども、
無事に成長して欲しいと願い、離れて暮らす事を選んだ実の父親の愛は
間違いなく、そのハーモニカの中に篭められていて、そしてそれをジュニアは確かに
受取っている。探す時間が長ければ長いほど、指が冷えて痛めば痛むほど、そのハーモニカの価値はジュニアの中でよりかけがえのない宝物に変わって行く。
泣くまい、とジュニアは歯を食いしばって、もう日が暮れて、街灯の光が
却って雪の白さと冷たさを際立たせる。
それでも、ジュニアは諦めようとはしないで、花壇に降り積もっていた薄い雪を
芽吹いた球根の小さな芽をつぶさない様にそっと取り除き始めた。
「あった」と小さな呟きが聞こえた。
安堵しきって、溜息の様にジュニアはそう呟いた。
ゾロは花壇の前で身を屈めて丸くなっている小さな背中へゆっくりと近付く。
細い葉が凍てついた地面を割って芽吹き、群れて咲く花弁が黄色の花が小さな蕾を結んでいる。もっと寒くなれば咲くだろう。
ジュニアの母親のいた島に咲き乱れていた花だとゾロにも判った。
「良く頑張ったな」濡れて凍りつきそうなジュニアの手袋を外して、ゾロは
ハーモニカを握り締めたその小さな手を両手で温めるように握った。
温かい吐息を何度か吹きかける。
自分の息で少しでも冷たい指先を温めてやりたいと思った。
疲れたのと、大切なハーモニカが見つかった安心とでジュニアは気が緩んだのだろう。
「歩きながらでも寝ちいそうだな、お前」と笑って、上着を広げて包み込む様にジュニアを抱き上げ歩き出す。
きっと待ちきれずに甲板に出て、向日葵色の頭に雪を被ったサンジの所へ、
自分達を待つ、温かな料理が並んだ温かな場所へ。
(あの、ハーモニカの音を聞いた事ねえな)とゾロはブランコに腰掛けたまま、
ふと、そんな事までも思い出す。
今でも、温度の変わらない温かなその場所へ帰った時、あのハーモニカの音色を
聞けるだろうか。
雪が優しく降り積もる風景が物音一つしない静寂と言う音色を奏でて、
まだ1度も聞いた事のないハーモニカの音色に変わって、
郷愁を覚えるゾロの心を慰めていた。