心が還る場所



世界で一番美しい海にあるレストランは、昼も夜も予約で一杯だ。
オーナーでもあり、料理長でもあるサンジは、夜の仕込みが終わってから
今度は接客をする為にコックスーツからスーツへと着替える。

いつもの様に、サンジはハラリと首に巻いていたタイを外そうと少し緩めた。
プツッ…と、小さな音がした。
その音に、サンジは自分の指をかけたタイに目を落とした。

少し色褪せたそのタイの細い縫い目が裂けて、破れかけている。
常に清潔な状態を保つ為に、そのタイは何度も何度も洗われて、布自体も薄くなり、
脆くなっているのだろう。

サンジはそのタイをそれ以上破く事のないように、そっと解き、
掌に大事そうに乗せた。

まだ使えるのかを検分するかの様に、もう片方の手の指でタイを撫でる。

スルスルとその指はタイの上を滑る。
そして、読むのに苦心するくらいにすっかり霞んだ字の上で止まった。

かつて、東の海の海上レストランのオーナーでもあり、料理長だった男の名前が書いてあった事はサンジしか知らない。

「…もうボロボロだな」
そう言いながらも、サンジは掌の上のタイを、誰かを懐かしむような優しい目で
じっと見つめる。

そのタイが、サンジの元に届いたのは、このレストランを開業して間のない頃だ。
東の海のバラティエから、サンジの元へそのタイは小さな箱に入って運ばれてきた。

その古ぼけたタイに誘われ、サンジの心は幼い頃の風景の中へ運ばれていく。

* **

どうして、ゼフが教えてくれたたくさんの料理のレシピを書き込んだノートを
外へ持ち出したのか、今となっては思い出せない。
それはサンジがまだ、11か、12の頃の事だ。

土砂降りの雨の中、サンジはゼフに言い遣った食材や調味料を買いに街に出ていた。
雨ざらしの中捨てられていた子猫が入った箱に、持っていた傘を置いてきてしまい、
サンジは買い物をした荷物ごとずぶ濡れになった。

「買い物一つもまともに出来ないのか、てめえは!」とゼフに叱り飛ばされたが、
「なんだよ、濡れただけでちゃんと食べれるだろ!」まだチビナス、と呼ばれていたサンジはそう言い返した。

だが、背中に背負っていた荷物の中のレシピノートまでもがずぶ濡れになっていた事に
気づいた時、初めてサンジは事の重大さを悟り、愕然となった。

「…字が滲んで読めなくなってる…」

ノートはヨレヨレになって、ゼフに急かされながら一生懸命書いたレシピも、
殆ど読めない。
(まだ、全部覚えてないのに…どうしよう)とサンジは青くなった。
ソースを作る手順、スパイスの微妙な割合など、ゼフは、二度は教えてくれない。
忘れた、わからない、など言おうものなら、もう全く相手をしてくれなくなる。

叱られる事は怖くない。サンジはゼフに見放され、見限られるのが怖かった。
(…どうしよう)
いつ、そのレシピノートに書いていて、まだサンジが覚えていない事をゼフが
言い出すかを考えると、サンジは毎日気が気ではない。

それでも、どうにか何事もなく、数日が過ぎたある日の事。

「おい、チビナス。出かけるぞ」
昼の営業が終わってから、ゼフはコックスーツを脱いで、普段着に着替えて
サンジにそう言った。

「どこに?」「てめえは黙ってついて来い」

ゼフの背中を見上げながら、サンジは言われたとおり、黙って歩いた。
ノートをダメにしてしまった事は、ゼフが自分に教えてくれた事を大事にしていなかった事と同じだと思われるかもしれない。そう思うと、後ろ暗くて、ついいつものような
生意気な態度が取れない。

いつもなら、どこに行く時も、何をする時も傍から見れば喧嘩をしているようにしか見えなくても、二人の間には必ず会話があった。
それなのに、その時はゼフがサンジに話しかける事もなく、ただ黙々とずっと数日降り続いた雨の所為でぬかるんだ道を歩いていた。

(ジジイ、歩きにくそうだな)
町を作る為に、港から物資を運ぶトロッコが走ったと言う、今はもう用を為さなくなった
線路の上は、地面は砂利が混ざった泥で、
ゼフの義足がズブズブと嵌ったり滑ったりして、酷く歩きにくそうだ。

サンジは無言のままゼフの隣に並ぶ。
そして、グイ、とゼフの大きな手を掴み、その手をポン、と自分の肩に乗せた。

「余計なお世話だ」と言われ、肩に置いた手に乱暴に突き飛ばされたらどうしよう。
ふと、そんな不安がサンジの心に過ぎった。

だが、ゼフの手はがっしりとサンジの肩を掴む。
ゼフの手は、とても温かくて、大きかった。
転ばない様にと支えているのは自分の方なのに、
何故かサンジは嬉しくなる。思わずゼフの顔を下から見上げた。
「頼りにしているからな、」と、言われた気がする。
けれど、いつまでもそんな顔でゼフを見ていたら、また子ども扱いされてしまう。
そう思ってサンジはまた前を向き黙々と歩き出す。

そのまま暫く歩いてから、ゼフがサンジの顔を見もせずに独り言の様に呟いた。

「…何か心配事でもあるのか」
「え」
驚いて、サンジはまたゼフの顔を見上げる。

「…なんで?」
何故、そんな事を聞くんだ?
何故、わかったんだ?
思わず聞き返したサンジの声音にはそんな意味が篭っている。
ゼフは相変わらずさして興味も無さそうな口ぶりで
だが的確にサンジの問い掛けに答えた。

「…てめえが殊勝だとこっちまで調子が狂うんだ」
「何か気がかりがあるなら、さっさと言っちまえ」
「ガキの癖に腹にモノを溜め込むんじゃねえ」
「そんな芸当覚えるにゃ、てめえはまだ早すぎる」
「泣き喚いたり、暴れたりして手間かけられる方がまだ扱いやすい」

サンジは言葉に詰まった。
嬉しさと、申し訳なさが同時に胸の中に込み上げる。

ゼフは、いつも、どんな時も見守ってくれている。気遣ってくれている。
それが嬉しいのに、そんな風に思ってくれているからこそ、その気持ちに応えられず、
ゼフが教えてくれた事を結果的にないがしろにしてしまった事がサンジは
申し訳なく、喉が何かで塞がったように声が出せなかった。

(でも、ジジイに嘘は言いたくない…!)
自分を守る為に取り付くるような卑怯な真似は絶対にしたくない。
そう思ってサンジは勇気を振り絞った。

「…俺、…その…」

サンジの声に、ゼフの足が止まる。
そして、前を向いていたゼフの目が始めてサンジを見下ろした。
目が合ったその瞬間、サンジはその目の温かさにまた挫けそうになる。

自分の言葉が、ゼフを傷つける事が怖かった。
が、その時。

ポツリ、ポツリ、と空から大粒の雨が降り始める。

「ジジイ、雨が…」
一本の傘ではどうしようもない程の激しい雨が降り始めた。
それでもゼフは引き返すこともせず、泥に足を取られるたびにサンジの肩を掴み、
歩き続ける。
激しい雨の音に、言葉を交わすことすらままならず、結局サンジは本当の事をゼフに
言えないままだった。

新しい大きなコックスーツと小さなコックスーツ、それから同じ色の
長いタイと短いタイをそれぞれ一つづつ。

それが、その日、ゼフが買ったモノだ。
「こう雨が降り続いたんじゃ、洗っても乾かねえからな。かわるがわるに使え」
そう言って、ゼフはサンジに小さなコックスーツと短いタイを手渡してくれた。

「…ジジイ、俺…」
その新品のコックスーツをギュ、と無意識にサンジは胸に抱きこんでいた。
今、言わなければ、ずっとゼフを誤魔化し、嘘をつき続けてしまいそうな気がする。

ゼフの優しさに甘えた訳ではない。
その優しさに応えたいから、許されようと、許されまいと、心の底から謝るべきだと思った。

ゼフにとって、サンジが気に病んでいた事など、本当に他愛ない事だったかも知れない。
だが、子供のサンジにとってはとても重大な、ゼフの愛情と信頼を失ってしまうかも
知れないと思うほど、大事な事だった。

自分がこれだけ大事だと思うのなら、きっとゼフも同じだ。
心が通い合っていると感じたからこそ、幼いサンジは余計に、純粋にそう思った。

最初は怒られ、見放され、見限られるのが怖かった。
でも、今は違う。

自分の迂闊な行動が、ゼフを傷つけ、悲しませてしまう。
それが怖くなっていた。

「俺、…レシピノートを…」それだけ言うと、勝手にサンジの目から涙がボロボロと
零れた。
皿を割るよりも、買い物を間違うよりも、料理を失敗するよりも、ずっとずっと悪い事をした。
ゼフが教えてくれた事を、失くしてしまった。
声と言葉に出すと、急にそれが哀しくなって、鼻水と涙が止まらなくなった。

「レシピノート?なんだ、それがどうした」

滲んで、読めなくなった、と泣きながらサンジはそう言った。

「滲んで読めなくなった?…それだけか」

ゼフは目を大きく開いて、二回、同じ事をサンジに聞きなおして、それから
呆れたようにサンジを数秒見つめ、それから、腹を抱えて笑い出した。

どうしてそんなに笑うのかわからず、だんだん馬鹿にされているだけのような気がしてきて、サンジが顔を真っ赤にして
「…なんだよ、何で笑うんだよ、俺が真剣に謝ってるのに!」怒った。なのにゼフは
「…てめえは…ホンットに救えねえバカナスだな」そう言って笑い続ける。

「や、俺もいい加減バカだな。そんなバカナスの腹ン中がわからねえんだからなァ」
そう言って、ゼフはポン、とサンジの前に真新しいノートを置いた。

「どうしても分からないトコがあるなら、教えてやる」
「一流の料理人になりてえと思って聞くなら、何度でも、覚えるまでキッチリ教えてやる」
「いつかてめえは、俺の教える事全部覚えて、ノートが要らなくなる日が来るだろうが」
そう言って、ゼフはサンジの小さな体も、幼い心も包む様に微笑んだ。

いつか来るだろう別れも、今、手の中にある幸せも、ゼフはその両方を知っていた。
胸に染み込むようなあの笑顔が、今でもサンジは忘れられない。

お互い、不器用でぶっきらぼうな言葉しか知らなかった。
それでも、むき出しの心でいつも向かい合っていた。

時折サンジはその頃の事が無性に懐かしくなる。
それは、あの日に戻りたいからではなく、
ゼフと一緒に歩んだ道の続きを歩き続けている事を噛み締めたいからだ。

こうしてここに立っているのは、ここに辿り着くまで、そしてこれからもずっと、
サンジが生きている限りいつまでもこの胸の中にはゼフが生き続けている事を
忘れずにいたいからだ。

「オーナー、あの…。この前教わったソースの事なんですけど…」

まだ年若いコックの声に、サンジの心が再び、"今"の時間へと引き戻される。
目の前には、細かい字がびっしりと書き込まれたノートがあった。

「…慌てて書いたから、自分の字が読めなくて」と、申し訳なそうに頭を下げるコックに
「…仕方ねえなあ、どれどれ…」

サンジは苦笑いを返しつつ、ノートを覗き込む。

どんなに時を重ねても、ゼフの事を忘れる日はない。

忙しさに疲れて、潮風に吹き晒されている寂しさを感じる時に、時折ゼフと過ごした日々を振り返り、それでもサンジは決して立ち止まらずに、いくつもいくつも季節を越えて、ゼフと見た夢を生きて行く。



最後まで読んで下さって、有難うございました。

元ネタの歌は、「高橋ひとみ」の「evergreen」でした。

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