ロングリングロングランドに停泊して、最初の朝が来た。
眠っている時は皆が温もりを分け合う為に寄りそう様に、狭いラウンジに集まって
眠ったけれど、ロビンとルフィの意識が戻ってからは、チョッパーが安静にする様にと
強く言ったので、食事を作るサンジとチョッパー以外は皆、部屋から出されてしまった。

(退屈だなア・・・)とルフィは簡易ベッドの上で、逆さまに見えるサンジの
背中を見て溜息をつく。
さっきまで見ていた夢の所為か、まだどんよりと頭が重い。

「起きたのか」とサンジはルフィの視線に気付いて振り向いた。
「まさか、もう腹が減ったとか言うんじゃネエだろうな」
「減りっぱなしだ、ず〜〜と」とルフィはサンジの声が夢ではなく、紛れもない現実だと感じて、ニンマリと笑って見せた。
すると、サンジも嬉しそうに顔を綻ばせる。
「さっき食ったばっかりなのに」「美味かったけど、汁だもんよ。肉が食いてえ」
「起きていいって許しが出たらな」と言いながら、サンジはまたカップに一杯、
なみなみととろみのついた琥珀色のスープを注いで、ルフィの前に屈んだ。
「まだ、手が自由に動かねえだろ」と言いながら、スプーンで一匙、一匙、
ゆっくりと横になったままのルフィの口に注ぎ込む。
もどかしくて堪らないけれど、舌にも、臓腑にも、その芳しいスープの温もりと味は
優しく、じっくりと沁み込んでくる。
「あ〜肉だ、肉の味がする」そう言うとサンジは黙って嬉しそうに笑った。

「腕だせ」カップ一杯のスープを飲んだ後、サンジはそう言ってルフィの側に
しゃがみ込んだ。
「おお」とルフィは大人しく腕を出す。
皆が強張って固まった筋肉を解そうと、思い思いに腕や足を擦ってくれているのをルフィは知っていた。ロビンも、男どもが触れない分、ナミがしきりに擦ってやっている様だ。
「サンジの手が一番、イイや」
腕を柔らかく、リズム良く揉んで、擦るサンジの手の感触が誰よりも心地良い。
「ナミはくすぐったいし、ウソップは力がないし。ゾロは強過ぎるし」
「サンジの手はホント、痛くもないし、くすぐったくもない。気持ちがイイ」と
ルフィは冷えて血流の悪くなった指先が徐々に温かくなっていく心地良さに思わず、
溜息をついて、目を閉じる。
「まあな。他のヤツよりは慣れてるのかも」と言いながら、サンジはルフィの
右腕を肩口から掴んで、根元からギュ、ギュ、とリズム良く、掌全体で肌を
摩擦しながら徐々に手首へと揉みしだく手を移動して行く。
その力加減と、滑らかな掌の皮膚の感触と、しなやかな指先から感じる、かじかんだ血管を解すような圧力が体が溶けるかと思うくらいに気持ちが良かった。
「なんか、さっき物凄くうなされてたが」とサンジは手を休まずにルフィに
尋ねる。
看病に疲れて転寝しているチョッパーと、またぐっすりと深く眠ったロビンを起こさないように、サンジの声はいつもよりもずっと低く、小さかった。
「食い物を誰かにかっぱらわれる夢でも見たか」と尋ねるサンジは、ルフィの顔ではなく、少しでも手が自由に動く様にと念じながら揉んでいる、ルフィの腕だけを
見つめている。
「ドラムの夢を見てた」とルフィは正直に答える。
嫌な夢は人に話した方がいい、と昔、誰かに聞いたことがあった。
「随分、懐かしい夢を見てたんだな」とサンジは他人事の様に言う。
ドラムの夢を見て、うなされる。それが一体、どんな夢だったのか、判らない筈が
ないと思うのに、まるで空惚ける様だった。
「今更、そんな夢を見る事もあるのか」
「怖かったからな」とサンジの言葉にルフィは相槌を打つ。
「怖かった?あの青キジってヤツと一騎討ちするのが、か?」とサンジは
ようやく、顔をあげてルフィを見た。
サンジの指は、ルフィの指の一本、一本を丁寧に丁寧に少しでも温かな血が
先端に流れる様にと力強く揉み上げていた。けれど、その動きがルフィの何気なく口にした言葉で止まる。
「いや、そうじゃねえ、あんなヤツは別に怖エとは思わなかった」
「じゃ、なにが怖かったんだよ」とサンジの指はまた動き出す。
「ドラムで雪の中、お前エとナミを担いで歩いてた時が怖かったんだ」

ルフィの言葉を聞いて、また、サンジの手が止まった。
しもやけの手が温められて痒くなるのと同じで、ルフィの手はだんだん痒くなってくる。
「痒いな〜、今度はこっちを揉んでくれ」とルフィはサンジに預けていた手を
引っ込めて、違う方の手を差し出した。
「あん時、なにがどう怖かったんだよ。あのバカでかいウサギか?」と
サンジはまた、ルフィの手だけを見て、作業を始める。
「ああ、あいつらはいいヤツだったんだ」とルフィはあの時の事をつぶさに思い描いた。
(あの時、もうサンジは死にかけてたんだっけ)
だから、ラパーンが自分達を助けてくれた事を知らない筈だ、と思い出した。
「俺が凍え死んだら、ナミもサンジの死ぬんだって思ったら」
「怖くて足を止められなかった」とルフィはヘヘ、と鼻を軽く鳴らした。
「ああ?」意味が判らなくて当たり前だ。サンジは思ったとおり、怪訝な顔をする。
「普通、怖かったら足が竦んで動けなくなるモンだが、お前エは逆なのか」
「そうだな、そうみたいだ」とルフィは明るく答える。

雪を掻いて、掻いて、掻いて、必死にサンジを探した。
猛吹雪の中、いつまでもどこに埋まったかわからないサンジを何時間も探していられない。グズグズしていたら、高熱で体の弱ったナミまでが凍死してしまう。
サンジを諦めてナミを助けるか。そんな選択肢が一瞬、ルフィの頭を掠めた。
サンジが見つかるまで、瀕死のナミを放置しておくのか。
どちらかを見捨て、どちらかを助ける。(ダメだ、そんな事、決めらねえ)
ナミもサンジも決して失いたくない大事な仲間だ。
(二人とも、助ける)とすぐにルフィは迷いを振りきった。

雪を掻いて掻いて、指先の感覚が痛み以外何もなくなる程、
名前を呼んで呼んで、喉の粘膜が千切れて血が出る程、何度も何度もサンジを呼んだ。

こうして温かな部屋で横たわり、それでも体の中にはまだ冷たい空気が澱んでいて
うっかり気を抜けばブルブルと震えてしまう所為で、ルフィはその時の記憶を
はっきりと脳裏に思い浮かべる事が出来た。

狂ったような吹雪、目も開けていられないくらいに強く、雪の粒を顔面に
叩きつけてくる風の中は、灰色と白だけの世界だった。
そこに、赤く染まった向日葵色の頭が見えた時、何も考えずに駆け寄って、
雪を掘り起こした。

さっき見た夢はその光景。
忘れていたとばかり思っていたのに、あの時感じた恐怖は、心の奥底に
いつまでも解けずに凝っていた事にルフィは驚く。

雪を掻いて、掘り起こして抱き上げたサンジの体の冷たさ、流れ出る大量の血の
鮮明な赤を五感に感じた時、サンジを失ったと本気で思った。
仲間を失う怖さ、その衝撃をルフィはその時、初めて思い知った。
心臓が止まるかと思う程の衝撃の強さは、敵と見なした相手と戦う時に
感じる衝撃とは、比べ物にならない。
髪の毛の先、爪の先までも凍りつくほどの寒さの中で、サンジの血まみれの、
何度名前を叫んでも答えない白い顔がルフィの心の中に焼き付いている。
うなされたのは、耳を押しつけたサンジの胸からどんどん鼓動が遠ざかっていく夢を
見たからだ。呼んでも叫んでも、その鼓動は返って来ない。

だから、目が覚めた時、指先まで冷えきっていた。
覗き込んでいたサンジの心配そうな顔を見た時、胸が破裂しそうになった。

(夢で良かった)胸を一杯にしたのは、その安心感で、体の隅々までそれが行き渡り、ルフィの全身の力が全て抜け切ってしまう。
関節も筋肉もまだカチカチのままなのに、今日も自分が仲間にと望んだ者が
誰一人欠ける事無く、この船の上にいる事、それが紛れもない現実だと判ったら、
急に安心して腹が減って来た。

「痒イ〜〜、サンジ、痒イぞ!」ルフィは自分の手の中にはっきりと温かな血流が
流れ始めた事をしっかりと感じて、嬉しくなる。
「血行が良くなって来たんだろ」とサンジの声も心なしか弾んでいた。
「良かった・・・もう心配なさそうだな」と呟いて、立ち上がる。
「サンジ」ルフィはサンジを呼びとめた。
「お前エも、あの時、こんなに寒かったんだろ」
ナミを助ける為に、自分の命を諦めたサンジの行動を今だにルフィは許せない。
あんな馬鹿な事二度とさせないと思っていたのに、ナミの話しでは
エネルの前にナミを庇って飛出したと言う。
「もう忘れちまった、そんな事」とサンジはフイ、と横を向く。
「俺達を庇って、無謀な一騎討ちし掛けて、氷漬けになるようなヤツの
説教は今更聞く気にもならねえよ」と言いながら、キッチンに立った。
「別に説教なんかいわねえよ、俺は」とルフィは仰向けに寝転ぶ。
ラウンジの丸い窓からは星明りと月の光が朧気に光が見える。
「どうせ、これから先もお前はおんなじ事を何度も繰り返すんだろうけど」
「俺はその度に何度でもお前エを助ける」
「ただ、生きる事を投げ出すような真似だけはするな」
そう言いながら、ルフィは何気なく麦わら帽子を手にとって見た。
凍りついて、そして解けた所為でじっとりと濡れている。
「よく言うぜ」サンジは腹立たしそうに背を向けたまま言い返してきた。
「てめえのやった事とどう違うってンだ」
「全然違う」とルフィは寝転がったまま、片目を瞑って、サンジの頭に狙いを定める。
「何が違う」と振りかえりかけたサンジに向かって、
「動くな!」と唐突に怒鳴った。サンジはその思いもしないルフィの言葉に
棒立ちになる。
「よ!」ルフィの手を離れて、クルクルと軽く回転しながらふわりと麦わら帽子は
サンジの頭に被さった。
「それ、濡れてんだ。綺麗に乾かしておいてくれ」
「ルフィ、俺とお前とじゃ何が違うって言うんだ、言ってみろ」とサンジは飄々とした口調のルフィにそう食い下がった。
「違うさ。俺は、生きる、って決めたらどんな事をしても生き抜いてみせる」
「これは死ぬなア、と思ったらそんな運命を選んだ自分が悪イって腹を括る」
「ワケ、わからねえ」とサンジはルフィの言葉に大仰に溜息をついた。
「わからねえでもいいや」とルフィは明るく、歯を見せてハハハと笑い声が立つ程
大きな声で笑った。
「とにかく、そう言う事だ。俺は俺の為に死ぬ事はあっても誰かの為になんか死なねえ」
「仲間を助けるって決めたら何をしても助ける」
「もうあんな・・・寒くて怖エ夢を見たくねえからな」

そう言って、ルフィはまた手をぬっとサンジのほうへ突き出す。
「痒イの治まったから、もう一回揉んでくれ」
「まだ、固エのかよ」と文句を言いながらもサンジはなにかが入った鍋を
コンロに置いてからルフィの側にまたしゃがみ込んで腕を掴んだ。

「静かだな・・」とルフィは眼を閉じて、ラウンジの外の気配を探る。
誰もがルフィとロビンの回復を祈り、じっと時が過ぎるのを待っている。
「たまにはいいんじゃねえか?こんなに静かな海の上でのんびり過ごすのも」
時には、静かな波の上で、夢を掴む為に突き進む道を歩む足を止めて、
一時、休息するのも「悪くないだろ」そう言って、サンジは
麦わら帽子を被ったまま、ルフィの腕をしっかりと握り、柔らかく擦る。
その手に再び夢を勝ち取る力が宿るようにと、心の中で祈りながら。


終り

乱丁本で、本当に申し訳ありませんでした。楽しんで頂けたでしょうか?
お買い上げ、有難うございました!