「お前、」明日の航海に備えて、皆もう休んだ静かな時間、
不寝番のゾロと明日の朝食の準備をしているサンジがキッチンにいた。
二人きりになったのは、物凄く久しぶりの様な気がして、ゾロはなんとなく、
落ち着かない。
空島に行く前は、二人きりで黙りこくっていても全く屁とも思わなかったのに、
何故か、サンジが黙って背中を向けているとこちらを向かせ、顔を見て話さないと
胸のあたりがモヤモヤとして気持ちが悪い。だから、名前を呼びもせずに
「お前、」と声を掛けた。
「あ?」とサンジは背中を向けたまま返事をする。
「お前、そろばん弾けるんだな」とゾロは用意していた話題を口にする。
「はあ?」とサンジはバカにしたような声を出して振り返る。
「東の海の人間だけがあれを知ってるとでも思ってるのかよ」と言いながら、
ゾロの前に新しく注ぎ直した酒を置きながらその真正面に腰掛けた。
「北にもあるのか」ゾロの質問に「知るか」とサンジはつっけんどんに答える。
(なんなんだ、こいつ)とゾロはサンジの言葉が胸にチクチクと針で突付かれている様な不愉快な気分になってくる。
どことなく、棘があるように感じるのは、ゾロの気の所為だ。
サンジの態度は以前と少しも変わらない。サンジに近付こう、とするゾロの気持ちの中では今までと変わらないサンジの態度でも、それを受けとめ吸収した時、まるで化学変化をするように、違った印象を受ける様になっていた。
「俺は北で生まれたけど、東で育ったからな」
「北に何があって何が無いのか、知らねえよ」と言うサンジの言葉で不思議と
すぐにゾロの不愉快さは消える。サンジの一言、一言で不愉快になったり、それが
なだめられたりする自分の心の動きにゾロは自分の感情が制御出来なくなる予感を
感じた。
「誰に教わった」とゾロはまた、尋ねた。会話を途切れさせたくない。
言葉に詰まるような間柄ではない筈なのだから。
「ジジイだ。コックも色々計算しなきゃならねえことあるんだぜ」と言いながら、
サンジは煙草に火を着けた。
「お前の料理見てたらそうは見えねエが」とゾロが言うと、サンジは
チッチッチと舌を鳴らしてゾロの前で指をその音に合わせて振る。
「海賊船のコックでも食料の配分の計算はしなきゃならねえだろ」
「レストランのコックになると、もっと計算は複雑になってくる」
「ただ、料理をしてりゃいいってモンじゃねえ」
「いつか」
いつか、自分のレストランを開く日が来たら
その言葉を口にした時、サンジの表情に光りが宿った。
ゾロはそのサンジの表情に目が釘付けになる。それは不思議な現象だった。
眩しいと思うのに、目が離せない。
「いつか、自分のレストランを開く日が来たら、料理するだけじゃなく、」
「材料を仕入れ、どれくらいの値段で売るか、どのくらいの利益を上げられるか」
「調度品は?消耗品、例えば、テーブルに飾る花とか、ワイングラスとかはどれくらい
必要か?コックはどれくらい雇うか?そのコックにどれくらいの給料を出せるか?」
「数字で考えなきゃならねえことがたくさんあるだろ。俺はそれをこれで、」と
サンジはまだテーブルの片隅に置きっぱなしだったそろばんを手で持ち上げ、ジャラリと鳴らし、「計算するんだって事、ジジイを見て覚えたんだ」
こんなに弾んで話すサンジの声をゾロは初めて聞いた様な気がする。
「それから?」とつい、ゾロはサンジに話しの続きを強請った。
顔を全て晒したら、自分でも持て余しているワケのわからない動悸がサンジに伝わってしまう。だから、酒が入ったコップを持ち上げて自分の表情を隠しながらゾロは表情を隠す。
「それからって?」とサンジは怪訝な顔をする。
「酒の肴になるような話し、ねえのかよ」とゾロは言って、酒を一口、飲み下した。
「酒の肴か」と言いながら、サンジは冷蔵庫の前に行き、冷えたトマトを一つ、
皿に丸のまま乗せてゾロに差し出した。
「お前、トマトだけを何日ぶっ続けで食える?」と薄笑いを浮かべてサンジはゾロに
尋ねる。「あ?」と今度はゾロが怪訝な顔をした。
「俺は、10日、毎食トマトを食わされたことがある」そう言って、サンジはニっと
歯を見せて笑った。
それは、サンジは「チビナス」だった頃。
「なんなんだ、これは!」と八百屋から運び込まれた荷物を見て、ゼフが
大声を上げた。「チビナス、なんだこれは!」
山積にされた様々な種類のトマト。
真っ赤に熟した丸いもの、黄色いモノ、細長いモノ。小さなモノ、
それらが他の食材の量とは明かに多く運びこまれて来ていた。
「俺、ちゃんと注文した・・」ちゃんと注文したんだ、八百屋が間違えたんだ!と
言い掛けたサンジの鳩尾にゼフの義足の先端が「ドカッ」と音を立てて蹴りこまれる。
「言い訳すんな、ボケナス!」とゼフは更に容赦無くサンジを蹴っ飛ばす。
「今まで1回もそんな間違いはねえ、てめえが間違えたんだ!」
「初めて仕入れを任せたらこのザマか、全くてめえは使えねえガキだな!」と
さんざんゼフに罵倒された。
覚えたての「ソロバン」で計算して、きっちり数を出したつもりだったのだが、
1ケタ間違えて、トマトを30個づつ注文したつもりが、トマトを全種類300個
注文してしまったのだ。
「必要なトマトは5種類が30個、150個ありゃいいんだ」
「残りは全部、てめえで食え!一つでも腐らせてみろ、叩き出してやる」とゼフに
厳しく言われて、サンジはとんでもない量のトマトを一人で全部食べなくては
ならなくなった。
(フン、三食10個づつ食えば、1日で30個減る)
(煮たり、焼いたり、絞ってジュースにすればもっと食える)
とサンジは嵩を括っていた。だが。
他のコック達の食事は賄の献立を食べる。その横でたった一人、皿に山盛りの
トマトをむしゃむしゃ食べるのは、1日で飽きた。
二日目、煮て見た。三日目、四日目、五日目・・・となるともうトマトを見るのも
うんざりしてくる。腹は減らないし、喉も渇かないけれども、肉や魚、甘い果物が
食べたくて食べたくて、料理をしながらサンジはヨダレが出そうだった。
だが、トマトは一向に減らないし、熟し始めると腐るのも早い。
グズグズ食べてもいられない。
(なんとか、美味く食えるように工夫しよう)とサンジは考える。
卵白を固く泡立ててジュースに混ぜて固めてみた。それからより甘くなる様に
砂糖を煮詰めたシロップを混ぜて見た。舌ざわりが良くなるようにそれを裏ごしして見た。そして、思考錯誤の末「美味エ!」と本気で自画自讃出来る一品を作り上げた。
それはトマトを使ったデザートだった。
(これなら二日は飽きずに食べられる)とサンジは粗末な賄を食べているコック達の前で心底その自分で作り上げたトマトのデザートをうっとりしながら食べた。
「おい、チビナス」とその様子を見ていたゼフがサンジの側にツカツカと
歩み寄ってくる。「なんだよ。トマトだぜ、これ。文句ネエだろ」とサンジは
座ったまま、ゼフを見上げて口を尖らせた。
ゼフはおもむろにサンジが使っていたスプーンを手にとり、そのフルフルと震える
薄桃色のふんわりしたムースをその下の真っ赤なトマトのゼリーと一緒に口に入れる。
サンジはごくりとツバを飲んでゼフののどもとを見つめた。
コックコートの下の小さな背中はその数秒で汗が吹き出てぐっしょりと濡れる。
自分の作った料理を皆の前で味見されるのは、その時が初めてだった。
二人きりで店を切り盛りしていた時から、一人で作った料理を誉められた事は1度も無い。いつもクソミソに罵倒され、食材を無駄にしやがって、と怒られてばかりだ。
体全部の血管に心臓のドキドキと脈打つ振動が伝わる。
何を言われるか、とサンジはひざ頭に置いた手をギュっと握ってゼフの言葉を待った。
「これを100人分作れ。今夜だ」とだけ言って、ゼフはクルリと背を向けた。
(今夜?100人分?)空耳かと思った。100人分と言えばバラティエに夜に来る客の
おおよその数だ。「てめえはグズだから今から準備しねえと間に合わねえだろうが!」
「フヌケた顔しねえでさっさと仕込みに掛れ、ボケナス!」と即座にゼフに怒鳴られ、
サンジはピンと背筋を伸ばした。
「出来るのか、出来ねえのか、どっちだ」「やれます、オーナーゼフ!」
咄嗟にサンジはそう答えていた。「ふん」とバカにした様に鼻を鳴らして、ゼフは
自分の席に戻る。サンジは、一瞬合ったゼフの目の奥に満足そうな笑みが
浮かんでいるような気がした。
嬉しくて、嬉しくて、飛び跳ねたい気持ちをぐっと堪えて、すぐに
まだ、食べ頃のトマトを保存してある冷蔵庫へと駆け出して行く。
「・・・この、ソロバンのこの珠を弾く度に俺ア、トマトを思い出すんだ」と
サンジはパチリと小さくソロバンの珠を弾く。
「肴になったか?」と伏せていた目を上げてゾロを見た。
「ああ」とゾロは頷く。でも、本当はまだ少し足りない。
北の生まれで。ソロバンが使えて。コックで。一流の足技の使い手で。
女好きで。全てが蒼い海を目指していて。それから?とゾロはサンジについて、
知っている事を心の中で羅列してみる。まだ、少し足りない。今の酒の量と肴の
量が釣り合っていない様に、もう少し、サンジの事を知りたいと思っていた。
この船の中の誰もが知っている事しか、自分はサンジの事を知らない。
それでは足りない。ほんの少しだけ、他の誰も知らないサンジをもう少しだけ、
知りたいと思った。
欲を出せば、きっとサンジは何一つ見せはしなくなる。仲間でいる以上の事を
知りたいと言う気持ちを悟られたら、きっと全てを隠してしまう。だから、
少しづつ、少しだけ、とまるで薄い氷の上を歩く様に用心深く、ゾロはサンジとの
距離を縮めようとしている。
「今度はお前が何か話せよ」とサンジはゾロの目を真っ直ぐに見る。
「お前が面白がるネタはねえよ」とゾロは苦笑いをする。
「考えてみたら、まだ、知らねえ顔があって当たり前だよな」とサンジは
大きく煙草の煙を吐き出した。「俺はお前が剣士で、どこでも寝れるマリモで、」
「大酒飲みで殺しても死なない、使えねえロクデナシって事くらいしか知らねえし」
「へッ」とゾロはサンジの言葉を鼻で笑った。
「そのロクデナシの話しなんかなんで聞きてえんだ」
「退屈凌ぎだな」ゾロの言葉にサンジは即答する。
「ふん」とゾロは器に残っていた酒を全て飲み干してまた、鼻を鳴らした。
普段酒をいくら飲んでも酔わないのに、サンジが自分に興味を示した所為なのか、
少しゾロの心がほろ酔いしたかのように浮き立っている。
「もう一つ酒の肴になる話しをしたら、俺も話してやるよ」
「誰にも聞かせた事のねえ、とっておきの話しを、な」
そう言ってゾロは笑ってサンジを見返す。
お前だけに聞かせてやるよ。
最後の言葉だけはゾロの舌の上に残り、もどかしい気持ちもまた、ゾロの心に
残ったまま、ゾロはまたサンジの話しに耳を傾ける。