水平線から太陽が昇る。
毎日、繰り返される風景だけれども、見飽きるほど見てきたけれども、

同じ絵を毎日見ているのとは違う。
例え、同じ空の色をしていて、同じ温度の風を肌に感じたとしても、
それはただ、記憶の中の情報が重なっただけで、時間が逆流したのではない。

時は流れつづけている。
だから、蘇る記憶がその都度、輝きを増していく。

サンジは見張り台の上で、朝陽を見ていた。
茜色の空に金色の太陽が昇る。まだ、夜の冷たさを残す夜明けの風が
サンジの髪を柔らかく揺らした。

さして眩しさを感じた訳でもないのに、サンジは眼を瞑る。
記憶を瞼の裏に映し出し、脳裏に様々な感覚を呼び覚ます為に。

あの日も、こんな朝だった。
薄い海の霧が船の周りに薄く漂い、優しい風と淡い光に包まれていた。

あれは、バラティエがまだ、営業を開始して間もない頃だった。

まだ、足技も料理の腕も半人前以下の扱いしかして貰えなかった頃。
ゼフに認めてもらいたくて、そればかりを考えていた頃。

叱られる事で、自分がちゃんとゼフの視界に入っていると、安心出来たほど、
幼かった頃だ。

「全く、しつこい奴らだった。」とゼフは薄汚れたコックスーツの埃を
払いながら、甲板に立っていた。
夜の営業の時、嫌がらせに来た海賊と小競り合いをした。
まだ、サンジしかいない店で、海賊達は大暴れをし、それをゼフが追い払うのに、
一晩掛ってしまったのだ。そうして、客の大半がそのまま逃げてしまって、
昨夜の売上は殆どなかった。

(役に立てなかった)とまだ、幼かったサンジは悔しかった。
自分なりに必死だったけれど、皿一枚、壁に掛った絵一枚、椅子の一脚さえ
守れなかった。
どうして、自分はこんなに弱いのだろう。
どうして、ゼフの様に、強くなれないのだろう。
誰に慰められる事を期待もせず、ただ、サンジはメチャクチャになった客席を
一人きりで片付けていた。

床に散らばったガラスの破片、飛び散ったゼフと自分が作った料理。
ゼフが大事にしているものを何一つ、守れない自分の情けなさをその惨めな残骸が
サンジに訴え掛ける。

涙が零れない様に、サンジは唇を痛いくらいに噛んだ。
それでも、見開いた瞳からポタリと一滴、手の甲に零れ落ちる。

「痛ッ」とその雫が落ちた場所に激痛が走ってサンジは思わず声をあげた。

(そうだ、俺、火傷してたんだっけ)

客に出した、熱いスープが乱闘の最中、サンジの手の甲に掛ったのだ。
無我夢中だったせいで、その事もその傷の痛みも今の今まで忘れていた。

真っ赤に腫れて、薄皮が破れていた。
その傷が痛くて、と言う訳ではないのに、サンジの眼からはまた、ポタリと雫が落ちた。
立て続けに、ポタ、ポタ、としゃがみこんだ膝の上にそれは落ちた。

もっと、もっと強くならないと、ただ、ゼフの荷物になるだけだ。
なのに、何故、この体はこんなに細くて傷つきやすいのか。
役に立てなかった事が悔しいと思っていたのが、だんだん、
自分の弱さが悔しくなって、もう涙が零れない様に 痛む方の拳でぐっと
目尻を拭った。

「おい、チビナス。」と甲板でゼフが呼んでいる。

サンジはその声に怯えた様に顔をあげた。
(役に立たない奴は出て行け)と言われたら、どうしよう、と思った。

それでも、
(出ていけ、と言われたって出ていくもんか。)とすぐにキっと強気な目つきになって、
すぐにゼフの声がした方へ歩き出す。

まだ、星が茜色の空に僅かに光っているのが見えた。
何時の間にか、夜明けが近い時間になっていたのだ。

ゼフは、水平線を昇って来る朝陽と向き合う様に立っていた。
朱色の世界に溶けていて、ただ、甲板に落ちる影だけがくっきりと黒い。

「今日の昼の営業はテラスでやってみるか。どうだ。」とサンジの足音を聞き、
波音と風で自分の声が遮られてしまわない程の距離にサンジが近付くのを待って
楽しそうにそう言った。

「え。」思い掛けないゼフの言葉にサンジは咄嗟に答えが返せない。

「雰囲気は悪くねえだろう。どうして、今まで思いつかなったんだろうな。」と一人、
やけに楽しそうだった。

「おい。」と振りかえったゼフの顔は笑っていた。
「ここで、俺達が客の目の前でエビだの、貝だの焼いて、それをすぐに食べてもらうってのは目先が変わってて面白いぞ。」

サンジは驚いて、ただ、ゼフの笑顔を見つめていた。
瑞々しい、まるで、新しい遊び場を見つけた子供のような笑顔だった。

(大人でもこんな顔で笑うんだ)と思った。
そんな大人をサンジは初めて見た。

「何、辛気臭エ、バカ面してやがる。」とゼフはすぐにサンジの表情を見咎め、
反応を返してこない事を不服げにそう言った。

「だって、店が。」とサンジは店の中を指差した。
「店がなんだ。」とゼフは堂々と答える。

「料理さえ作れりゃなんとでもなる。何も困るこっちゃねえ。」
「店がボロボロになってもコックさえ無事なら客に料理を出す事が出来る。」
「そうだろうが。」
「お前と俺の手が無事ならそれで十分だ。」

そう言って、ゼフはニヤリと笑って、サンジの火傷をしている左手を取った。

「こんな火傷、バンソウコウでも貼ってりゃすぐに治る。怪我じゃねえ。」
「これくらいなら料理するのに、なんの支障もねえ。」

「良く、自分の身を守ったな。」

そう言って、ゼフはもう片方の手でサンジの髪をグシャ、グシャと乱暴に撫でて、また、
甲板と、太陽の方へ顔を向けた。

その時見た、空の色とサンジはその時の風景を、軽く触れたゼフの指の感触を、そこから流れてきたゼフの感情をゴーイングメリー号の上で思い出す。

あの時、サンジは何も守れなかったのではない。
サンジがサンジ自身を守った事は、ゼフの大事な物を守るのと同じだった。
離れてもう、二度と話す事も会う事も出来なくなって初めてサンジはそれが判った。

朝陽の中で笑うゼフの姿が目を開いたサンジの前に幻のように浮かぶ。

これから生きて行く限り、この光、この風、を感じる度にその記憶は何度も
蘇る事だろう。

そして、その度に
どれほど時を重ねても、自分とゼフを繋ぐ絆は誰にも断ち切れないものだと改めて思い、
十分に愛されていたことをしっかりと噛み締めるのだろう。

サンジは見張り台の上で、朝陽を見ていた。
茜色の空に金色の太陽が昇る。まだ、夜の冷たさを残す夜明けの風が
サンジの髪を柔らかく揺らした。

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