曖昧な約束

別に改まって決めた約束事ではない。
何時の間にか、それが自然な条件となっていただけだった。

一人の女と三度以上、二人きりで会わない事。

女好きなのは、出会った時から知っていた。
特別な関係、となっても、それを変える事に労力を費やすよりも、
お互いの距離を縮める事に使う方が有効だったから、ゾロは
サンジが女に声をかけて、楽しげにしている様子を別に咎めはしなかった。

だが、距離が近付いて、大切に思う気持ちが深くなればなるほど、
当然、独占欲と言う感情が生まれてくる。

「俺がいるのに、女とイチャイチャするな。」と口に出して言えば、
スッキリするのか、と言えば絶対にそうはならず、
却って、摺り足で近付く様に用心深く、距離を縮めている最中に、
余計な一言で折角縮めた距離に溝を作りたくなくて、
ゾロはただ、黙っているしかなかった。

(こいつはこういう奴だ。)と知っていたし、それを承知の上だったから、
我慢するしかない。

そんな中で、自然発生的に生まれた決まり事が、
「一人の女と三度以上、二人きりで会わない事」だった。

一度、二度、なら対して心配はしなくていい。
だが、三度目、しかも女からの誘いなら、明らかに女の方がサンジに好意を
持っている、と判断出来る。
男女が親しく、特別な関係になるのに、1回目の逢瀬だって十分に有り得る事だが、
サンジ自身に初対面の女と寝る事には抵抗があるらしいので、
心配はない。
1回目にそんな関係にならなかったのなら、たかが二回目ぐらいで体を許すような
女ではなかった、と言える。
だから、二回目までなら話しだけで終った、と判断出来、まだゾロが我慢できる範囲だ。

それが三回目となると、女にもサンジにも「特別な関係になっても良い」相手だと
お互いが思っている、だからこそ、矢継ぎ早に約束を交わして、
短い島の滞在期間に三回も会おう、などという約束が成立してくる訳だから、
油断が出来なくなる。

そういう下らない疑いを掛けるのも、掛けられるのもお互いが面倒なので、
結局、「一人の女と三回以上会わない」約束さえ守っていれば、ゾロもサンジが
朝帰りしようが、1日行方不明になろうが、自分が隣にいるのに、放ったらかして
女とどこかへ行ってしまおうが、文句は言わない。

だが、サンジはその島でその約束を破ろうとしていた。
別にはっきりと口に出して取り決めた約束ではないが、ゾロを「特別大事な相手」だと
本当に思っているなら、その相手が嫌がる事はしないのが当然だとゾロが思って、
不平を言うのも全く自然な成り行きだった。

「お前はそういう奴だからな。」と言葉少なに素直な感情をサンジにぶつけた。
「俺がどんな気持ちなのかとか、どうでもいいんだろ、勝手にどこでも行けばいい。」

言いながら、こんな事をついに口に出してしまった自分が情けなくなる。
サンジと二人で過ごそうと勝手に決めて、楽しみにしていた夜の街の明かりさえ、
寒々しい光りに感じた。

(どうせその程度にしか扱われてねえんだ、俺は。)と柄にもなくふて腐れた。

きっと馬鹿にされたり相手にされないだけで、サンジは朝になったらケロリとした顔を
ぶら下げて帰って来て、ゾロに謝りもしないのだ。

「判ってネエな、全く。」

言葉と言うモノは本当に恐ろしいモノだ。
嘘だ、でまかせだ、いい加減な戯言だと判っていても、それを口にする人間の
表情や声音で、騙されて、誤魔化されてしまう。

憮然とした顔でその場を立ち去ろうとするゾロにサンジは大きく溜息をついて見せた。

「なにがだ。」とゾロは腹立ち紛れに反応した。
それに言葉で答えず、サンジはゾロの顎に手を沿えて、唇を寄せる。

「おい、」誤魔化されて溜まるか、と思っていても。
その柔らかい口付けで腹にため込んでいたムカツキがふっと薄れた。

柔らかで滑らかな唇がついばむ様にゾロの唇に触れる。
いつもひんやりと冷たい指先が弄ぶ様にゾロの耳たぶのピアスを触って、
その優しい振動が耳たぶをこそばす。



腹が立つのに、気持ちがいい。

普段つけていない、香料の良い薫りがゾロの鼻をくすぐる。
(畜生)と腹では思っていても、瞼をつい、閉じてしまった。

熱い、貪るような口付けではなく、優しく、労わるような、本当に愛しげに
口付けに、さっきまで腹が立って仕方なかった感情がそこから吸いとられてしまう。

「俺が惚れてる男のそんな面、見たくねえ。」と口付けの途中で言われて、
それに「なに言ってやがる」と言い返そうとした途端また、唇で唇を塞がれる。

本当に腹の立つ奴だと言葉では思えるのに、感情がどんどん鎮まって行く。

「お前の唇、気持ちいいな。」思っている事を見透かされ、代弁されたような
サンジの言葉にゾロの頬の温度が急上昇していく。

少し、唇が離れ、伏せたままのゾロの瞼にそれが触れ、今度は、ゆっくりと瞼や眉毛の形をなぞる。
「こんな事、他の誰にもしねえよ。」

そんな言葉が額のあたりで囁かれた。
「変な、心配すんな。」目を開くと、サンジの蒼い水晶のような瞳がゾロの瞳を
覗き込んで笑っていた。

「すぐに帰って来る。」
こういう有無を言わさないやり方はとても卑怯だと思ったが、その時に見る、
媚びもしない、本当にゾロを愛しそうに見るサンジの眼差しに、
ゾロは仕方なく「判った。」と言う事しか出来なくなる。

いつもこんな風に誤魔化すなら、だんだん慣れてしまうのかも知れないが、
サンジが約束を破るのは本当に稀だから、こういう誤魔化し方をされるのも
本当に稀なのだ。

気が咎めるのなら、もっと言い訳をしたり、取繕ったりする。
それをしないで、サンジは自分が一番大事にしたいのは、ゾロなのだと
唇と体温と吐息と、見え透いた甘い言葉で伝えてくる。

大事だからこそ、嫌な思いをさせたくない。
だけど、放っておけないレディもいる。

そんな誤魔化し方をする時、帰って来るサンジの体から女の匂いがする事は
殆どない。

金に困っている女、なにかトラブルに巻き込まれている女と知り合ったら、
たった三回の逢瀬ではその女の力になれない。
だから、サンジはゾロとの約束を破っても、そのレディ達が背負ってしまった災難の
重さを少しでも軽くしてやる為に、厄介事に首を突っ込む。

大抵、出掛けて行った時に着て行った一張羅はボロボロに汚れて、煤けて、
時には、返り血にまみれて帰って来る。

「そんな事なら、俺も連れていけよ。」とゾロが言えば、また、出掛ける時に見せた
笑顔でさらりと言う。
「お前は、男の俺が惚れた男なんだぜ。」
「レディ達だって、俺よりお前に惚れるに決っている。」
「そうなったら、困るじゃねえか。」

意味の判り難いサンジの言葉にゾロは首を捻った。
「どういう意味だ。」

言葉と言うものは、本当に恐ろしい。
「お前を好きだって思うのは俺一人でいいって事だ。」

空々しい言葉で、思いもしない、上っ面だけの軽い、無責任な言葉だと
すぐに判るのに、笑いながらそう言われると馬鹿馬鹿しいと判っていても
咄嗟に言葉が返せないほど、ゾロは嬉しくなる。

「ミエミエなんだよ、そんな言い草。」と片手で緩む頬を隠しながら、
ゾロはそれでも憎まれ口を叩かないではいられない。

「もっと真実味のあるいい訳をしやがれ。」とふい、と横を向いて、そのまま、
背中を向けようとした。

「嬉しい癖に。」とサンジは喉の奥を小さく鳴らして笑う。

「ちっとも嬉しくねえよ。」と憮然と言いかえしても、それ以上、サンジは
ゾロの言葉を聞こうとしない。
また、柔らかく口付けられて、言葉をぶつけ合えば沸き上がってくる筈の
苛立ちも嫉妬も風に吹き飛ばされて行く塵のように消し去って行く。

このやり方なら何をしても許される、と言う思い上がりを
(いつまでも許していると思うなよ、)と心の中でサンジに悪態をつきながら、
ゾロはその細い腰に手を回す。

約束、と言うはっきりした形ではないけれど、やはり大事な相手が嫌な思いをしているのなら、なるべく、その感情を解したい、と言うサンジなりの精一杯の愛情表現だと
頭では判ってきた。

あとは感情が追い付いてくるのを待つ、その為にはまだまだ時間が必要だと
その「曖昧な約束」を破られる度にゾロは痛感する。

切なさと苛立ちと、一緒に訪れる優しく柔らかく心を撫でられるような幸福を
何度も繰り返して、時間を重ねて行く間にこれからも、
まだまだたくさんの「曖昧な約束」が増えて行くのかも知れない。

そんな事を考えながら、ゾロは唇への優しい愛撫に甘く溜息をつく。

「お前の側が一番、イイ。」なんて歯の浮いた台詞も今日は言い返すことも、
呆れる事も忘れて、耳と心に静かに沁み込んで行った。