グランドラインにはどんな生物がどのくらい生息しているのか、誰も把握していない。

その島は、とても心地良い乾いた風の吹く島だった。
そこへ辿り着くまで、ずっと水不足の航海で、死なない程度の飲み水だけしか
水は使えなかった。

だから、ふんだんに涌き出る水があれば、当然、必要に浮かれる者も出てくる。
初夏の陽気、萌出たばかりの緑の瑞々しい匂い、乾いた風。
腹も膨れ、充分に休息し、ログが貯まるまではしばし、体に積もり積もっていた
汚れを洗い流す。
体が綺麗になると、次は汚れきって異臭が放つほどに汚れた衣類の洗濯がしたくなる。

「急げ、ウソップ!早くこっち持って来い!」
そう怒鳴るコックのサンジの声など、久しぶりに訪れた平和で心地良い時間に
浮かれて子どもの様にはしゃぐ船長達の耳には入らない。

薄いシーツはまだ、ほんのりと湿っている筈、それが柔らかな草が一面に生えた
地面に転がれば、草の汁や雑草の切れ端などがくっつき、また洗い直しだ。
サンジはそれも気に食わない。

が、それ以上に気になっているのは、今、自分が押さえ込んで洗濯板がわりにしている
ワニだった。

「アブクワニだわ!」風車を頂いた丘から流れ落ちる川の、清み切って浅い池を
麦わらの一味が見つけた時、ロビンはそう大声を上げた。

「「「アブクワニ?」」」始めて聞く名前に殆どの者が首を傾げてロビンに聞き返した。

「そう、あれの体液は、高級石鹸の材料になる成分になるの」
「それで洗えば汚れがつきにくくなって、とても品のいい匂いがするの、それに」
「生地も丈夫になるの、柔らかいものは柔らかくしなやかに洗い上がるし、
「張りを出したいものは、ピンと洗い上がるのよ、ゆすぐ時間を調整するだけでね」
「あれがいるんだから、あれで洗えないかしら」

洗剤代など、大した出費ではない。それでも、野郎連中の衣服の匂いが
つきにくく、生地も丈夫になる、と聞けば、少しでも節約したいナミがその
ワニを逃がす筈がなかった。
「捕まえて、サンジ君!」一番、素直に動きそうな男にナミはそう怒鳴った。
「任せてください、ナミさん!」
「コックさん、しっかり力加減してね、殺しちゃダメよ!」
「了解、ロビンちゃん!」二人の女性にそう言われて、サンジは張りきって答え、
やすやすと最も可愛げのない顔付きをした緑色のワニをまず、捕まえた。

ワニも得体の知れない人間に背中をゴシゴシ擦られるのは、大迷惑らしい。
サンジの足に背中を踏みつけられてもまだ暴れている。
「これでどうやった洗うんだい?」
「背中から体液が出る筈なんだけど」とロビンは首を捻る。
ワニの種類や特性は知っていても、このワニを使って直接衣類を洗う方法などの
知識はないらしい。
「まず、動きを止めなきゃ話しにならネエだろ」とゾロがそのワニの鼻先で
仁王立ちになって見下ろしながらそう言うと、
「じゃあ、麻酔かけてみようか、」とチョッパーが提案する。
「誰が洗うんだよ、皆の服やらシーツやら、凄エ量になってンだぞ」と
ウソップがそのワニにはなるべく触りたくないのか、少し離れた所で見ながら
そう言った。
「手分けしてやれば早いんじゃない?」とロビンが言い、
「洗う人、ゆすぐ人、絞る人、干す人、それらを手伝う人って言う風に」
ロビンがそう言っているうちに早速チョッパーがワニに麻酔を打つ。
意識がなくなると、体液を出さなくなるので体だけが動かない状態にすると言う。
「ゾロが絞れば?一番力あるんだから」とナミが言うと、
「いいぜ、別に」ゾロは珍しく働く気になっているようで素直にそう頷いた。
「オマエ、洗濯すんの慣れてるだろ、お前が洗え、クソコック」
ゾロが一体何を思ったのか、サンジに向かってそう言うと、
あからさまにサンジはこれ以上ない程迷惑そうな、面白く無さそうな顔付きになり、
「ああ?なんでてめえの腹巻やら汗臭エオヤジシャツやらを俺が洗わなきゃならねえんだよ」とすぐに言い返す。
「そうね、サンジ君なら別にいいわ」といきなりナミが深く頷き、ロビンに
同意を求めるように目線を送った。「私も」とロビンも頷く。
「サンジ君が洗ってよ」「俺が?皆の分全部?」ナミの言葉にさえサンジは
少し、嫌そうな顔をする。が、ナミはにっこりと笑って
「私とロビンの服もよ?もちろん、下着も、よ?」
「デリケートなモノなんだから、他の連中に任せられないわよ・・・ね?」
「サンジ君なら、丁寧に綺麗に洗ってくれるでしょう?」と小声で囁いた。

「急げ、ウソップ!早くこっち持って来い!」
とにかく、麻酔が効いている間にさっさと洗ってしまわねばならない。
一度、注射を失敗して、うっかり自分の手に針をさしてしまったチョッパーは
大口を開けて眠ってしまい、サンジはついでとばかりに、
眠ってしまったチョッパーを汚れたヌイグルミの様にさっさと洗い上げて、
「干す係」になったルフィに手渡した。「干しとけ」「おう!」

チョッパーが寝てしまったのなら、二回目の麻酔はない。
折角の高級洗剤の原料なのだ、何がなんでも、他の野郎の服はどうでも、
自分のシャツだけはこの泡で洗いたい、とサンジは必死だ。

「ん〜やっぱり、凄くいい匂い、それに生地も新品みたいね」
「血沁みも全部綺麗に落ちてるわ」とゆすぐ係りのナミはサンジの洗い上げた服の
出来にとても満足げだ。
「この野郎、破れるだろ、離しやがれ!」
シーツを絞り終わり、次々とナミから渡される衣類を絞っていたゾロは
オレンジ色のワニと格闘している。どうも、このワニ達、兄弟か、親子か、
サンジに擦られているワニの仲間らしく、何時の間にか池から上がってきて、
麦わらの一味に纏わりついている。

「これは肉でも、魚でもねえんだぞ!」
「あら、でももとは植物性の繊維で出来てるんだもの、その子たちの大好物よ」

ワニと格闘しているゾロに向かって、ロビンがさして興味も無さそうな口振りで
そう言った。
「ああ?って事は、こいつら」ゾロは全く手助けする気など微塵も無さそうな
ロビンに不満げな顔を向けた。
「そう、草食よ、植物ならなんでも食べるくらい、食いしん坊なの」
自分は干す係だから、それ以外の仕事はしない、と言わんばかりのロビンの態度に
ゾロは何か言いたげだが、ロビンはそんなゾロの気持ちを知ってか知らずか、
少しも動じず、一瞥さえせず、じゃれてくる桃色のワニに草を千切っては
食べさせている。
「周りに食い余るくらい、草生えてんじゃねえか、なんでズボンなんかに!」
「珍しいモノが食べたいからじゃないの?」

((なんで俺達だけがこんなに必死なんだ))
そう思った時、ゾロとサンジの目が合った。全く同じ事を考えている、
言葉を交わさなくてもそれがわかった。

「さっさと洗っちまえ、泡まみれコック!」
「うるせえ、そっちこそナミさんの服をグチャグチャにしやがったらオロすからな!」

目と目が合ったことが何故かとても気恥ずかしかった。
だから、すぐに口から機関銃のような憎まれ口が飛び出してくる。
お互いが同じ事を感じ、同じ事を思い、同じ行動を取っている。
それすらも、分かり合っていた。

そして、洗濯が全て干し終わり、緑のワニはやっと洗濯板と洗剤の役目から解放されて、
池の中をのんびりを泳ぎ始める。
今度はそのワニ達相手に、皆が騒ぎ始めた。

サンジは大きく背伸びをし、濡れた足で靴を履くのは気持ちが悪いので、
指に靴を引っ掛けぶら下げるようにして持ち、ゆったりした足取りで
風車を戴いた丘を登っていく。
ほぼ、ビショヌレで服が肌に張り付いているけれど、風は温かく乾いているし、
太陽の光はまだサンサンと明るいので、さして気にはならない。
(いい匂いだな、さすが)
サンジの服を濡らす水にはその泡が充分に含まれていて、
風と太陽に溶けて立ち登る陽炎のような仄かな水蒸気は、サンジの体を
その爽やかな匂いで包んでいる。

皆が騒ぐ声から少しだけ離れた場所でサンジは太陽を見上げて横になった。
あれくらいの労働で疲れる筈はないのに、なんだかとても眠くなる。
それを醒まそうと、寝転んだまま口に新しい煙草を咥え直して火を着けた。

「なんだよ、疲れたのか」
「まさか」
ゾロの声にサンジは目を開け、答える。目を閉じていた自覚さえなかった。
余りの心地良さに知らず知らずの間にまどろんでいたらしい。
「さっき、チョッパーが言ってたんだが」
「麻酔の成分、泡の中にも溶け出してるかも知れネエらしいぜ」
「乾いたら蒸発するだろうが、お前、ずっとあの泡触ってだろ」

手と手が触れそうな程近くに腰を下ろしたゾロの声がまるで子守唄のように
耳に心地よい。
サンジは暫く生返事をしていたが、数分も立たないうちに完全に寝入ってしまった。

「おい」
「おい、」
「おい、聞いてんのか?」

ゾロは相槌が返って来ない事にふと、サンジの顔を見下ろした。
口には火の着いたままの煙草がだらしなく傾き、柔らかな耳たぶにその先端が
触れそうになっている。
慌ててゾロはその煙草をサンジの口から抜き取った。

「ナミもさっき、寝ちまったんだが、やっぱりてめえもか」
答えなど期待せず、ゾロは静かにそうサンジに話し掛け、喉の奥で笑った。

煙草を咥えず、顔を顰めず、さっきの騒ぎがよほど楽しかったのか、
仄かに笑ったような顔で瞼を閉じて、寝息を立てているサンジを見て、
(別人だな)と可笑しくなる。
多分、自分が寝て、夢の中にいる事も自覚しないで、仲間と泡だらけになっている
夢を見ているに違いない。

仲間以上の関係になったのは、気持ちの上でだけで今も、何一つ変わったものはない。
こうして、安全で平和で気持ちの良い場所に、誰よりも一番側にいても、
指先一つ触れない。自分が強引に近付こうとすれば、きっと、
サンジは戸惑い、それを隠そうとし、無理をして、結果きっと、苦しい思いをさせる。

焦って壊す事よりも、例えもどかしいくらい遅い歩みでも構わないから、
どんな時でも、二人で重ねていく時間を大事にする事を選びたい。
そう決めたのは自分だから、ゾロはサンジの隣に自分もごろりと横になり、
そこへ触れたがる自分の唇を宥める様に、まだ火を消さなかったサンジの煙草を
咥えて見る。
今なら、誰にも知られる事無く、そっと唇に触れるくらいは出来るだろう。
けれども、最初の1回を自分だけの思い出にはしたくはない。
目を閉じて、勝手に高まる胸の鼓動の音を聞くと、太陽の光は、瞼を透かしても
温もりとして沁み込んでくる。
ゾロは眼を開けて眩しい太陽の光りを遮るように手を翳した。
そして、ずっと鼻をくすぐっている、すがすがしい香を思いきり吸いこみ、
胸の動悸を鎮めようと試みる。

アブクワニの泡の匂いは、サンジの体からだと知っている。
アブクまみれだった手にはまだ、残り香がはっきりと残っている筈だ。

その心地良い香りのたつ手を見つめ、自分と同じ血潮が流れているのか、と
幼い少年のような無邪気な探求心が掻き立てられた。
脱力したサンジの手を両手で包むように太陽にかざして透かして見る。
掌の向こうには、眩しい太陽の黄金色の光があり、それを遮って、
ゾロの目には、自分と同じ、優しく赤い、生命の色が見えた。

「・・・っ。」
声にならない声を喉の奥で鳴らしてゾロは笑った。
誰もが同じ色をしているに決っているのに、サンジだけが自分と同じ命の色を
していると一瞬思った事に対して自嘲したのだ。

ゾロは一度翳したサンジの手を鼻に押し当てて、思い切り息を吸い込んだ。
胸の中は太陽の匂いとあの綺麗な香のするアブクの匂いで一杯になる。

起こす事のないように、そっとその手を草の上に戻した。
胸の高まりはまだ治まりそうにないけれど、
臆病なのでもなく、慎重過ぎる訳でもない、とゾロは自分に言い聞かせる。

そして、その胸の高まりが切ない痛みに変わる前に、他愛ない事を考える。

洗ったばかりのシーツで、今夜は気持ち良く寝れそうだ

そして、ゾロはまた目を閉じる。
また、目の前にはサンジの掌と同じ、命の色が見えた。

(終わり)