「お前なんか、もう大ッキライだ、帰ってこなくっていい、どっか行っちまえ!」
そう怒鳴り声が部屋中に響き渡った後、その部屋の住民のスリッパが
「バン!」と壁に穴が空きそうなほどの強さで叩きつけられ、それから、
「バタン!」と、ドアが乱暴に閉まって、バタバタと外へ駆け出して行く音が聞こえた。
「S−1!待て、こら!」と慌ててその後を追うけれど、こう言う時に限って、
S−1の足はやたらと早い。
ここで追い縋っても絶対に追い付けない、ともう、何度目か判らないくらい、
同じ経験をしたせいで、R−1は知っている。フウ、と溜息をつき、
床の上に散乱した、恐竜に似た形の玩具やら、スリッパやら、踏みつけられて、凹んだ
クッションを片付け始める。
喧嘩の原因は、大抵、いつも同じだった。
「ニ、三日、留守番しててくれ」と理由も言わずにR−1がいきなり言うからだ。
S−1には言えない仕事をR−1は請け負って、それで生計を立てている。
S−1も退屈凌ぎに近所のコーヒー屋に働きに行っているが、それだけでは、
次の島へと航海する為に必要なログを買う事も、備品を買う事も出来ないし、
この小さな部屋でささやかに暮らす事も出来ない。
だから、R−1も働かねばならないのだが、いくら知識と技術があっても、それは、
ただ、S−1の為だけのもので、知らない他人の治療に使うのは
「さらさら面倒」だとR−1は思っていて、そんな職に就く気は全くない。
日がな一日、S−1を見て、ただ、それだけで1日が終っても平気だ。
出来る事なら、S−1には自分以外の人間に笑い掛けても欲しくないし、話しても欲しくなかった。その癖、街を二人で歩いていて、S−1の姿を溜息混じりに人が眺めていると嬉しくて仕方ないのだから、家に閉じこめておくのも嫌だと言う矛盾がR−1の
腹の中には存在している。
とにかく、二人で暢気に暮らす為には、先立つ物がいる。
さほど真面目に働かずに、一攫千金しようとすれば、
ロロノア・ゾロの遺伝子を生かした方法、すなわち、それは、賞金稼ぎか用心棒、または、海軍の傭兵などで、それらは、R−1にとって最も適した方法で、
それしか考えつかなかった。
けれど、人を傷つけて金を手に入れる事にS−1は否定的だ。
だから、R−1はS−1に詳しい事は一切言わずに、勝手に仕事を決めてきて、
勝手に数日家を空ける。
「俺も行く。」とその時、必ず、S−1は言う。
「ダメだ。」人を斬り殺す現場をS−1に見られたくなくて、R−1はいつも
言下にS−1の言葉に首を振る。
「なんでだよ、何、隠してるんだよ。」とS−1はいつも不信がる。
理由を言わないのだから、詰め寄られても仕方がないが、「お前は知らなくていい。」と
R−1は絶対に教えない。
それから、いつも喧嘩になる。
側にいたい、と言う気持ちは同じなのに、S−1は自分に隠し事をし続けている
R−1に不信感剥き出しで食って掛かって、最後には、いつも、
部屋中を凄まじく散らかして、外へ飛出して行ってしまう。
それでも、数時間すれば、ふて腐れた顔をぶら下げて帰って来て、
R−1が出掛けるまで口も聞かなくなって無視し続け、後ろ髪引かれる思いで
R−1がそれでも出掛け、そうして帰って来るともう、すっかり機嫌は治っている。
いつも、その繰り返しだった。
R−1は(今度もじきに帰って来る)と思っていた。
ところが、S−1は昼食の時間になっても、日が傾いても、そうして、
月が昇っても、帰ってこない。
R−1は時間を追って、焦れてくる。
(おかしい、なんで帰ってこない。)S−1の身に何かあったのかと気が気ではない。
普通の人間よりもずっと強いけれども、何分、中味は12歳前後の少年で、
人に対して、警戒心が希薄な上、あの容姿だ。
探しに行って、入れ違いになったら。誰もいない家に一人帰ってきたS−1の姿と、
その時のS−1が感じるだろう事をR−1は想像してみる。
きっと、自分が帰って来るのを待っていると思ったのに、
ドアを空ければ、誰もいないがらんとした部屋。
帰ってくるなり、機嫌を取ろうとして何かと世話を焼かれる事を表情や、
言葉は鬱陶しがっている風を装っているけれど、本当は、構って欲しいのに、
誰もいないなんて、まるで、そんな自分の子供みたいな素振りに怒って、
放り出されたんだ、と(心細くなるんじゃないか。)とR−1はそう考えて、
じっと部屋で待ったが、もう日付が変わる頃までジリジリした気持ちである
事には変わりはない。それでも、R−1は待ち続けた。
だが、それから2時間待っても帰って来る気配がない。
これ以上、部屋の中で待っているのは限界だ。
R−1はS−1がいそうな場所を、一つ、一つ、探して回る。
道に迷わない様に、街路樹の幹に刀で傷をつけながら、公園、運河脇、市場、などを
順に回って、S−1の姿を探した。
街の中の、とある公園に噴水のある小奇麗な公園がある。
季節の花がよく手入れされ、常にそれらは満開で、子供の遊ぶ遊具もそれぞれが
愛らしい造型で、S−1と1週間に3日は来ている、二人のお気に入りの場所だ。
夏の盛りの今は、その噴水で幼い子供が水遊びをするのにちょうどいい按配で、
日中に訪れると、大抵、数人の子供とその親達で賑わっている。
その深夜の公園、もう噴水が止まって、ただの泉になっている場所に街灯の灯りと
月と星の明かりが降り注いでいる。
ポチャ、ポチャ、と水音がした。
「S−1!」
浅いその噴水の泉にペッタリと座り込んで、全身ズブヌレのS−1が
R−1の声にはっとした様に顔をあげる。
「「何やってるンだ、こんな所で。」」と二人は全く同じ言葉を投げ掛けあう。
「心配するだろう、こんな時間まで!」と先にR−1がS−1を叱り飛ばす。
焦って、イラついて心の中に澱んでいた気持ちがそのまま、乱暴で高圧的な態度と
口調になった。
その勢いにS−1は気迫負けした様に口をキュっと引き結んでR−1から
顔を逸らし、水面に視線を移した。
「何してるんだ。」
「ピアスを落した。」
まさか、こんな時間まで一人で水遊びをしていたとは思えないが、R−1は挙動不審なS−1の行動の意味と理由をまだ、高圧的なままの態度で尋ねると
S−1は水面ではなく、水底に視線を注いで、即答した。
「緑色の。いつもしてるやつ。」
「昼間、ここで子供とずっと遊んでから、絶対どっかに沈んでる筈なんだ。」
「緑のって、あの、翡翠のやつか?」とR−1はS−1の言葉に驚いて、
目を丸くする。
「あれは、俺の体の一部なんだ。ないと困るんだ。」とS−1は泉の中を這う様にして
懸命な眼差しで探している様子だった。
「S−1、あれ、昨夜から俺が持ってる。」
「え!」当然、S−1は驚き、目を見開いた。慌てて立ち上がり、
R−1の側に駆け寄ってくる。
今回のR−1の仕事は、この街から少し離れた街で山賊が出没し、
その街の自衛団からR−1に依頼があってそれを退治しに行くのだが、
その仕事を済ませて、帰って来るまで早くても三日ほどは掛る。
それをまだ、昨夜は言い出せず、隣で何も知らずに眠っていたS−1の耳から、
R−1が勝手にピアスを外したのだ。
肌身離さないそのピアスに、S−1の体温も匂いも沁み込んでいる様な気がして、
たった三日、離れるだけでもそれが恋しくなったら、そのピアスを触る事で
自分の気持ちをなだめよう、とR−1が、思っての事だった。
「ほら。」とR−1はズボンのポケットからそれを摘み出した。
(言っておけば良かった。)とR−1はすぐに後悔が心の中に滲んだ。
「ホント、俺のだ。」とR−1の指に摘まれたピアスを見て、S−1は
唖然とした顔でそれを眺める。
「悪イ、勝手に」とR−1が(絶対に怒るな)と思ったので、先に謝ろうと
口を開き掛けると、S−1の本当に嬉しそうな呟きに口を塞がれた。
じっと、指先に摘まれたピアスを見つめて、
「良かった。失くしてなくって。」
「バカだな、俺、ピアスが外れてたの、全然気がつかなかった。」
「これから、気をつけなきゃ。」とS−1は呟いた。
それから、「R−1が持っててくれて、良かった。」と言って、恥かしそうに
笑った。
「それ、返せよ。」と濡れてふやけて白くなった指で翠色のピアスを取り返そうと
腕を伸ばしてきたのをR−1はその腕を掴んで胸に引き寄せた。
蒸し暑い夏の夜なのに、抱き締めたS−1の体はとても冷たい。
長い、紅茶色の髪も豪雨に曝された後の様にぐっしょりと濡れて、寄せた頬に張りつく。
自分達がお互い、特別な存在なのだと言う証にお互いの瞳の色を映した石で
作ったピアス、R−1の耳には碧紫のピアスが装着されていて、
今は、握りこんだまま、S−1の背中に回された拳の中には、R−1の瞳の色を
そのままに輝く緑色のピアスがある。
(こんなに体が冷えるまで、)
ずっとピアスを探しつづけていたのかと思うと、R−1はS−1が愛しくて堪らない。
ピアスを大事にする事、イコール、相手を大事にする事だと口に出した事は1度もない。だからこそ、S−1の行動は言葉以上に、言葉を出して取り決めた約束事以上に、
大きな意味がある。
世界中の全ての人間に憎まれても、S−1一人がこうして腕の中にいてくれるなら、
(俺はなんにもいらねえ)と心から思う。
サンジ、と言う遺伝子にどうしようもなく惹かれて、創り出した身代わりの筈だったのに、今はS−1は唯一、S−1として、R−1にとって、かけがえのない存在になった。
「返せよ、それ。」とR−1の腕の中からS−1は身を捻る。
R−1の心の中、一杯に満たされている甘く優しい感情に気づくよりも、とにかく、
何よりも大切な、「R−1からの揺るぎない想い」を手に触れられる形にしたピアスを
自分の身に返して貰う事の方に関心が向いている。
「嫌だ。」とR−1はS−1が身動き出来ないように、少し、S−1の息が苦しくなる程度の強さを腕に篭める。
「もう、怒ってスリッパを投げたり、勝手に飛出したりしないって言わないと」
「返さない。」
それに何か言い返そうとしたS−1の冷たい唇をR−1は優しく塞ぐ。
まだ、二人ともが不器用で、触れて離れるだけの接吻しか出来ないけれど、
それで十分、幸せを感じた。
こんな気持ちのまま、S−1の側を離れる事など出来そうもない。
R−1は山賊退治など面倒でどうでも良くなった。
「一人で待つの、寂しいから嫌だって言ってるだけだろ。」と言うS−1の素直な言葉を聞き、すねる様に横を向くその横顔を見て、
R−1はつい、腕の力を加減できなくなった。
人間として望まれて生まれて来た訳ではなく、誰に自分が幸せになる事を望まれても
いないのだから、今まで、一度も、自分が生まれて来た意味も、価値も判らなかった。
けれど、今、S−1の体が自分の体温で徐々に温かくなって行くのを
感じてはじめて、R−1は心の底から思う。
(生まれて来て、良かった。)と。
(終)