枇杷と柿

大庭景秋


四つになったノリ坊は、いつも私の書斎兼客間である二階の手摺のところへ立って、
「これが柿、あれは栗、あれは枇杷」
と、一つ一つ樹に合点々々しながら、こう云っては、誰かそばにいる者が、
「あーそうだそうだ」
とお返事するまでは止めないのが常であった。ところがこの栗と枇杷とは、低い粗雑な垣で隔てられてあるお隣りの庭の果樹で、柿だけが、私の庭のものであるのだが、宅の二階から見ると、ことに所有権が何やら、そんなことは見境のない子どもの目には、七月頃からそろそろと目につきはじめて、八月には誰にもその成熟の日を待たせるほどの、大きな実をふさふさとつけておる柿と栗と枇杷とには、何ほども彼我の所有という見境はなかった。

柿と栗と枇杷とを、二階の手摺で唄のように言っていたノリ坊は、これらの果実がほとんど成熟しきった九月の - 三年前の - ある朝、胃腸の痼疾から、二階の一間で、もう柿のことも枇杷のことも、思い出せないほど苦しんで死んでしまった。それからちょうど二年ほどたった去年の夏の始め、ある朝のこと、お隣りの庭の隅のあたりが、なにか騒がしいと思ってその方を見ると、植木屋らしい二三人の人が、大きな鋸をもって、あれこれと話し合っていた。今度は二階の手摺には、四歳の子どもでなく、いい歳をした私がひじをかけて、自分の用事も打ち捨てて、一心に垣の向うの出来事に目を張った。やがて一人の植木屋が栗の樹へ昇ったと思うと、根元から約三間ぐらいのあたりの、その頑丈な幹を鋸ぎりはじめた。私はハッと驚かされた、現在生きた樹を、- それどころではない、もう宅の二階からイガイガまでが見える栗の実が、枝に梢にたくさんついているその生きた樹を、いのちのない材木でも切るように、何の躊躇もなく、樹下に立っている仲間の者と、なにやら話しながらゴシゴシと鋸を立てて切っていくのであった。そのうちに樹下の植木屋が表通りへ回ったと思うと、上と下とで合図をするが早いか、バサッと大きな音がして、栗はその上半身を塀越しに表通りに落した。私は女でなかったから目を覆うようなことはしなかったが、しばらく息がつまったようになって深く考えさせられた。

「これがもし動物であったなら、そしてあのたくさんの実が、乳に育ちつつある子であったなら ..... なんという残酷な光景であろう。そうだ、私どもの鍾愛であったノリ坊を、私どもから奪ったのも同じことだ。人間も神さまも、いったいなんでこう生木を裂くようなことを好んでするのであろうか」
と思った。上半身が倒された後で、残った三間ほどの太い幹は、根元から鋸で引かれ、やがて根も鍬で掘られた。根絶やしとはこのことであろう。力なく二階の手摺から引き退いた私は、このわずか一時間ばかりの出来事が、一向に合点がいかなかったが、何か新たに建つのであろうと思った。翌日になると足場らしいものがかけ始められたので、いよいよ普請だなと思っていると、まもなくお隣りの柔和なS博士が、私の宅へ見えて、
「今度はお隣り合いで御迷惑でしょうが小さい倉をあそこへ建てますので」
とあいさつされた。かつては医学上りっぱな貢献をもたらされた博士のことであるので、私は「けっこうなことです」と、一もニもなくあいさつを返した。

栗の樹のところは地ならしができ、縄張りがされて杭が打たれた。ところが今まで栗の枝が茂っていたために、枇杷の大枝が一本、ちょうど大男が左の手をのばしたように、栗の方へのびていたことは、私のほうからは気がつかなかった。すると足場ができると同時に、一人の男がまた鋸をもってくるが早いか、枇杷のその太い枝を、ゴシゴシと切り落としはじめた。ちょうどその時二階でものを書いていた私は、また仕事の手をとめて斜めにそれを見守った。
「あれが人間であったなら、どんなに悲しい叫びをあげるだろう」
と思って見ていると、鋸の動くたびに、枝という枝がみな動き、その起き臥しするさまは、どうやら感覚のあるものが、その悲しい運命を慟哭しているようにも感ぜられた。だんだん深く切り込まれていくその大枝には、前々年この二階からノリ坊が、柿、栗、枇杷といっていた、そのかわいらしい枇杷がふさふさと実っていて、枝とともにゆすぶられている。バサリと音がして大枝が地上に落ちると同時に、私はおもわずその切り口を見た。そしてあたかも巨人の腕が斬られたようなその切り口から、生々しい血潮が、ポタリポタリ落ちているかのように感ぜられた。

「今年は柿の当り年だね、いかな近眼の俺にもよく柿が見えだした、ずいぶんついたね」
私が例の二階の手摺のところへ立って、もう隣りの庭の隅にできあがった幾坪かの石の倉の立っているのに目を落しながら、こう妻に話しかけたのは、今年の七月末のある日のことであった。それから二三日もたったか、ある日の午後私が外から帰ってくると、まだ二階にも上がらないうちに、妻は私に向かって「やっかいなことができましたよ」と冒頭して、先刻大家の婆さんがやって来て、この地面はここから電車通りへかけて、地主が他へ売ったので、そして新しい地主はここらの六百坪を一面に取り払って、新しく大きな家を建てるそうで、五十日以内に引っ越してくれ、その間の家賃だけはいらないと言って、逃げるようにして帰りました、とたてかけて私に話した。

私は二階で洋服を脱ぎながら、妻から話の続きを聞いていると、第一に私の目に落ちたものは、二階の手摺から一間と離れていない柿の樹の、枝垂れた枝に鈴なりになっておる、子どものこぶしほどの柿の実である。これが目にはいると、もう私は、引っ越しというやっかいな問題よりも何よりも、この二階の手摺のところで、「これが柿」と唄のように言っていたノリ坊の生きた記念から、無理に引き裂かれる哀しみと寂しみにおそわれた。

半間のところへ曲がった梯子段をつけて、上がわずか六畳と三畳しかない破れ二階ではあるが、私には記念の深い二階である。医者のヘッポコであったためかもしらぬが、胃腸が悪いというので、おかゆばかり食わされていたノリ坊は、九月の二十五日の晩、よほど険悪な状態に進んでいたが、終夜枕頭にいた私どもには親の欲目で、まだまだ大丈夫と思われていた。待ちかねた夜が明けたので、二階の雨戸をくって、さて病児の顔をのぞきこむと、私は驚いた。もう彼の顔の色は、生きた子の顔色ではなかった。それでも戸があけられて、多少でも気が晴れたものか、小さな病人は庭の方を向いて、わずか見える柿の梢を見ていたようであったが、いつもの言葉は聞かれなかった。しばらくすると、彼はその土色になった唇を動かして、「とうちゃんおはなし」と私を見て言った。私はいつも即席即興のおはなしを、子どもにするのが常例であったため、夜来苦しみぬいてきた病児にも、子どもらしい無邪気さがまだ残っていたものとみえて、「おはなし」を私にせがんだのであった。いつもの通りおはなしを始めたが、二言三言話すと、病人はもううるさそうにした。しばらくして今度は母親が、「ノリちゃん」と声をかけると、「パイパイ」と彼は母親の懐を求めた。それもまた暫時で、疲れたらしくうるさそうに、母親の懐から手をだして、うっとりとしていた。八時頃に医者が来るとまもなく、痰がゼリゼリと音を立てて小さな彼の胸元へ集中するようなもようで、親として私どもはいたたまらなかったが、医者はなんとか閉塞ですなどと云った。二分時ばかりで、私どもにただの独りの男の子であるノリ坊は、左右から私と母親とに、小さな手を取られたまま、息を引き取った。

翌日の午前、葬具がきて、臥棺が下の八畳へ置かれたので、ノリ坊をいよいよ下へおろすことになった。「俺が抱いて降りる」と言って、私はたった独りの男の子を抱くのは、これが最後だなと観念して、彼を死の床から抱きあげた。これまで日に何度となく抱いたときのようなしなやかさと軟らかさとがなくなって、こわく固かった。私はその棒のように硬直な体を、私の胸へひしと抱き込んで、大事をとって、例の半間のなかに折り曲げてある梯子段を、一段々々、抱きしめては踏みしめ、踏みしめては抱きしめて降りた。そして子どもの頭はもちろん、足の先でも壁なぞにぶつけまいと細心に注意した。三年後の今日でも、私は二階から降りるときに、ふとしたはずみに、当時の光景をそのままに思い出すことがある。

私はこうした忘れがたいこの記念のある、この二階の家から、五十日以内にたち去らねばならぬ。そしてもう子どものこぶしほどになった、あの鈴なりの柿の実を後に残し、枝垂れて茂っている前栽のこの柿の樹に別れを告げて、他に引っ越さねばならぬ。さらに考えてみると、私が引っ越していった後では、この一画の数百坪の地面を買い取った男によって、多分はこの柿の樹も、お隣りの栗の樹同様の運命に出会うのではあるまいかと思われる。少なくとも枇杷のような運命はまぬがれないような気がしてならぬ。
「なぜ人間も神さまも、こう生木を裂くようなわざを、好んでしたがるのであろうか」
と、私は再び考えさせられた。


「世を拗ねて」(1919年刊) より

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