マルクス・エンゲルス 文献秘話

馬葉礼


ちかごろ マルクス・エンゲルスの 文献が だいぶ 翻訳されるように なりましたが、まだまだ 重要な文献が 紹介されておりません。 ですから、日本では まだ 発表されていない 文献や 最近 公表された 遺稿などを、「社会評論」の 誌上で つぎつぎに 紹介してゆくことに したいのですが、いったい マルクス・エンゲルスの ものは どれだけ あるんだ、どうして みな 発表されていないんだ - こういう意見を 八方から きくんです。

それで 今日は、一東洋人として 直接 マルクス・エンゲルスの 草稿を 整理したという、めずらしい 経験をもつ 先生に、ドイツ社会民主党文庫のことや、マルクス・エンゲルスの 遺稿などについて、いろいろ おたずねしたいと思って うかがったわけです。 愚問を だしますから、どうぞ かたくならないで お話しねがいます。

先生が ドイツに いかれたのは いつですか。

「1922年の 四月です」

すぐ 社会民主党文庫に いかれたんですか。

「いいえ。 それには 私の事情を お話ししなければなりません」

「そのころは マルクス主義といえば、河上肇さんの『貧乏物語』が ようやく でていたくらいです。 私は ベルリン大学に 入ったのです。 目的は 経済学、経済史、哲学、社会運動史の 研究でした。 私が 主として ついたのは、教授では ウェルナー・ゾンバルト、助教授では ハインリヒ・クノー、グスタフ・マイヤーの 2人です。 ゾンバルトは、はじめは マルクス主義に 心酔していた人ですが、私が 入ったころは すっかり マルクス主義を うらぎって、講義の はじめから おわりまで マルクスを 攻撃してました。 弁証法的唯物論というものが、ゾンバルトには わかってないのです。 クノーと マイヤーは マルクス主義者で、そのころは 2人とも 社会民主党員でした。 このうちの グスタフ・マイヤーに、私は 大きな影響を うけたのです。 社会民主党文庫に かようようになったのは、マイヤーの おかげです」

マイヤーは どんな感じの 人ですか。

「みるからに 学者はだの まじめな人でした。 情熱を 理性のかげに ひそめてる といった感じです。 それに しんせつな人でした。 学生や 弟子などを 実に ていねいに 指導してくれました。 このころは まだ 共産党員では ありませんでしたが、私が ドイツを さるころには、すっかり 社会民主党に あいそをつかし、かんぜんな 共産主義者に なっていました。 1930年からは モスクワの マルクス・エンゲルス研究所の 幹部に なったそうです」

「私は マイヤーの 影響をうけて マルクス主義を 研究しはじめたのですが、それにつけても マルクス・エンゲルスの思想が 発展していった 経過を しりたい、それには どういう勉強を したらよいか、マイヤーと クノーに 相談したわけです。 クノーは 出版されたものを よく よむより ほかないと いいましたが、マイヤーは、マルクス・エンゲルスが のこした文書が ひじょうに たくさんある。 出版されたのは ごく一部である、発表されたものも されないものも 社会民主党文庫に みな あるから、これを 勉強するのが よいと 話してくれました」

「そこで 私は 社会民主党の 書記局にいって、党の文庫で 勉強させてくれと たのんだわけです。 ところが、かんたんに はねつけられてしまいました。 この話をすると、マイヤーは、それは きのどくだ、紹介状を 書いてやろう、こういって オットー・ブラウンと エドアルト・ベルンシュタインの 2人に あてた、ひじょうに ていねいな 紹介状を 書いてくれました。 オットー・ブラウンは、社会民主党の 総務で、社会民主党文庫の 責任者でもありました。 ベルンシュタインは、文庫と 直接 関係が あったわけでは ありませんが、マルクス・エンゲルスの遺産を ついだことに なっており、文庫や 文献について いちいち 口を だしてました」

「私は マイヤーの 紹介状をもって、2人と 交渉しました。 ところが ベルンシュタインは なかなか 承知しません。 しかし、オットー・ブラウンは さすがに 政治家です。 手紙で 私が 中国人だと しっていたので、中国人も こんなことに 興味を もつのか - もっとも ブラウンは 中国共産党について なんにも 知っていなかった - よろしい、それでは 文庫で 自由に 勉強しなさい、こういって すぐ 書記に 命令して、私が 自由に 文庫に 出入りできるように とりはからってくれました」

オットー・ブラウンは どんな感じの 人でした ?

「ひじょうに いい人です。 このころは プロイセン政府の 総理大臣で あったのですが、私が 手紙で 都合を といあわせると、しんせつな返事を よこして、中国のことも いろいろ ききたいから 夕食を たべにきなさいと いってきた。 文庫に入ることの 許可を もとめると、はじめは こまった顔を してましたが、けっきょく よろしいということになった。 私の目的が 政治的なものでないと 判断したわけです」

オットー・ブラウンは あとで (1933年) ナチスと 決戦するはずだった 選挙の前日 スイスに にげだした人ですね。

「そうです」

ベルンシュタインは ?

「あった感じは 年寄りの好々爺です。 このころは 社会民主党代議士のなかでも、いちばんの 理論家として とおっており、そのいきおいは カウツキーよりも あったくらいですが、その主張する 修正マルクス主義の 本質どおり 人物も しっかりしたとは いわれない人で、こちらが つよくでれば よわくなり、こちらが よわくでると つよくなる。 オポチュニストの 典型です」

文庫に 始めて いかれたのは いつごろですか。

「1923年の 秋です」

どのへんに 文庫は あったのですか。

「ベルリン市の リンデン街、フォルヴェルツ会館の なかです」

正式の名前は ?

「ダス・アルヒーフ・デル・ゾチアル・デモクラティッシェン・パルタイ・ドイチュランツ (Das Archiv der Sozialdemokratischen Partei Deutschlands)」

どのくらいの 部屋でした ?

「二部屋。 かなりひろい部屋でした。 社会民主党の 天下ですからね。 たてものは りっぱでした」

たてものの どのへんに ありました ?

「一階の 玄関から 入って 右手の くらい部屋でした。 北向です」

なかは どうでした ?

「それが ひどい。 私が 文庫に 入ってみると だれもいない。 となりの部屋で 書記が 1人 いねむりを しているだけ。 そこいらじゅうに いろいろな本が、まったく めちゃくちゃに おいてある。 本のタナは あるけれども 整理は されず、おききれない本は ユカのうえに らんざつに つみかさねてある。 すべての本に チリが つもっている。 これが マルクス・エンゲルスの蔵書と 遺稿が 保管されているところかと思って あぜんとしました。 社会民主党は、マルクス・エンゲルスの 遺産をもっている、と 宝のように じまんしてましたが、これをみて ドイツ社会民主党は マルクス・エンゲルスの 衣鉢を つぐものでは だんじてないことを 痛感しました」

マルクス・エンゲルスは、じぶんで 書いたものと、じぶんが もっていた ほかの人の本とを 区別していたと きいていますが ...

「それが めちゃくちゃなのです。 いちおう 区別して ならべる 原則には なっていたようですが、分類も されていないくらいですから。 大事なものが ユカに ころがって、ホコリまみれに なっている。 まったく なさけない状態でした」

遺稿は どこに ありました ?

「金庫のなかです。 こんな有様なので、いったい 草稿は どこにあるのかと 書記に たずねました。 すると、となりの部屋にある。 自由に あけて みてくださいと、さすがに オットー・ブラウンの 紹介だけあって、すぐに カギを かしてくれました」

「なるほど 大きな金庫が 二つある。 右が エンゲルスのもの、左が マルクスのものと いうわけです。 ところが、あけてみると マルクスのもののなかに エンゲルスのものが 入っていたり、エンゲルスの草稿のなかに マルクスの手記が 入っている。 しかも 順序が ないのです。 マルクスの草稿は だいたい 年代順に きれいに とじてあったものですが、これが ちりぢりばらばらに なっている。 それに、歴史のなかに 経済学のノートが 入っていたり、経済学の草稿のなかに 哲学の手記が 入っている。 印刷のできた原稿と ノートが まざっていて 区別が つかない。 まったくの 無政府状態です。 これにつけても、社会民主党が これらの草稿を 整理して、ドイツのプロレタリアートのために、また マルクス主義の発展のために、これを 発表するような かんがえを、まったく もっていないことが すぐ わかりました」

手紙なんかは ?

「やはり 金庫のなかに ありました」

文庫の由来を 話してください。

「文庫のなかが お話ししたような 状況ですから、勉強しようにも 勉強できない。 このことを マイヤーに うったえると、マイヤーが はじめて この草稿が どうして この文庫に 入ったかを おしえてくれました」

「マイヤーが いうには、マルクスの蔵書は ひじょうに多かった。 それに マルクスは だいたい 学生時代から ノートを みな 保存していた。 これを 死ぬときに エンゲルスに 渡した。 1896年 エンゲルスが 死んだとき、ベルンシュタインと アウグスト・べーベルを よんで 二つのことを 遺言した。 一つは、じぶんが 死んだら 墓を つくってはならぬ、灰にして 海のなかに すててくれ。 もう一つは、じぶんの本は ドイツ社会民主党に 寄付すると いうのです。 この時は まだ 文庫は ありません。 この二つのほかに、マルクスの本や 草稿を 整理して 全集を だしてくれと いうことも いいのこしたらしい。 その時 ベルンシュタインは、社会民主党に 寄付するということは ドイツの法律上 不可能だといった。 そこで けっきょく、形式上 この二人に ぜんぶ 渡し、この二人 - べーベルと ベルンシュタインが 社会民主党に 渡すということにした」

「エンゲルスが 死んだあと、社会民主党は 故人の意志に さからって 墓を つくろうということで 大論戦になった。 けっきょく 投票の結果、骨灰を 海に すてることになったという 経過を、マイヤーは ひどく おもしろく 話してくれました。 それは ともかくとして、べーベルと ベルンシュタインが 草稿、蔵書 その他を みんな もちかえったか というと、そうではない。 手稿、遺稿の大部分は もちかえって 社会民主党に 渡したが、一部分は たしかに ロンドンで いろんな人に 渡している。 その部分は たいしたものでないと ベルンシュタインは マイヤーに 弁解してたそうです。 手紙は ぜんぶ 金庫のなかに あるはずだと マイヤーは いっておりました。 それから マルクス・エンゲルスの著作本は 大部分 文庫に ひき渡した。 このほかに マルクス・エンゲルスが 書いたものでない、しかし マルクス・エンゲルスの 書きこみが たくさんある 蔵書の 大部分は、ベルンシュタインが ロンドンや ベルリンで かってに 処分してしまった。 こうして 貴重な意見を 書きこんだ 蔵書の大部分は なくなってしまった。 こういうふうに マイヤーは 説明してくれました」

いつから 文庫は できたのですか。

「1905年だったと 思いますが、その点、はっきりしません」

公開していたんですか。

「それは 知られていたんです。 文庫を 参観したり 利用する時は、かならず 入口の 受付簿に 名前を 書きこまねば ならないのですが、これを見ると、ただ 参観にきた人でさえ ひと月に一人か 二人くらい。 利用したという人は、私が かよった 半年間に、一人も いませんでした。 おそらく、前にも なかったと 思います。 利用する人が いたら、本が ホコリだらけに なっているということは ないでしょう」

先生は なにから 勉強を 始められたんですか。

「マイヤーが いうには、社会民主党は 草稿を 整理する スタッフも、これを 出版する 意志も もっていないから、君は じぶんで こんきよく 研究するほかない。 こう いわれたので、それから 私は 社会民主党の文庫に 半年以上 ほとんど 毎日 かかさず かよい、一日 八時間きっちり、こんきよく マルクスの 書いたものを 研究調査しました」

おもしろい発見は ありませんでしたか。

印刷されたもので おもしろいのは『新ライン新聞』です。 『新ライン新聞』が ひとそろい全部 文庫にありました。 これを よくしらべると、マルクスは じぶんの書いた 記事には、みな しるしを つけている。 そのうえ、あとで まとめて 出版しようと したのでしょう、いろいろ 書きこんだり、訂正したりしている。 今日から かんがえると、じつに きちょうなものです。 これがあるため エンゲルスが書いたものとの 区別も はっきりします」

いまでている 全集のは 訂正したあとのぶんですね。

「全集といっても、『新ライン新聞』は ドイツ語では、つまり 国際版の全集には まだ のっていません」

そうすると、私たちに 紹介されているのは、「新ライン新聞」の 活字になった部分だけだ というわけですね。

「そうです。 もっとも ロシア語版の全集は 新しいもので やっているわけです」

そのほか、なにか おもしろいものは --- 。

「いちばん 価値があるのは、この文庫にあった『資本論』第一巻の第一版でしょう。 このなかには マルクスが、欄外に たくさんの傍注や 書きこみをしている。 いわゆるマルクスの価値論が どう発展していったかを みるのに、ひじょうに 価値のあるものだと 思います」

アドラツキー版では まだ 整理されていないんですか。

「されていません」

手稿については ---。

「それが さっきも 申しましたとおりの らんざつな状態。 これを こんきよく 調べてゆきますと、どうしても『ドイッチェ・イデオロギー』がない。 マルクスは『経済学批判』の 序文のなかで、じぶんが『ドイッチェ・イデオロギー』を 書いていると のべています。 これが いくら さがしても みあたらない。 また『自然と弁証法』もない。 もっとも、このころは、『自然と弁証法』というものが あることを、人は あまり しっていません」

「私は『ドイッチェ・イデオロギー』が 見当たらないので、書記に つっこんでみた。 さあ、だれか ぬすんでいったのかも しれません、というような返答です。 しかたがないから、オットー・ブラウンのところに このことを 話しにいった。 すると、マルクスの草稿は エンゲルスが みんな持っていたのだし、それを ベルンシュタインが ドイツに 持ってきたわけだから、みな あるはずだ。 もし なければ 私が 紹介状を あげるから ベルンシュタインに きいてみたらいいだろうという。 ねんのため、文庫のなかを また てってい的に さがしてみたが、やはり 見当たらない。 そこで ベルンシュタインのところへ でかけました」

「ところが ベルンシュタインは、はじめのうち、なかなか 本当のことを いわない。 文庫の方に あるはずだなどと ごまかす。 私も つよくでました。 やかましく つっこんだのです。 すると、そこが ベルンシュタインですね。 急に よわきになって、じつは 自分の手もとにあると 白状したのです。 そこで、私は、けしからんじゃないか、それは 形式上は あなたの名義になっていても 社会民主党のものだ、それを じぶんのものにしたら こまるじゃないか、と 本当に おこった。 すると、あなたは それを見たいんですかと いってきた。 もちろん 見たいといって オットー・ブラウンの 紹介状を だした。 では、といって、ベルンシュタインは 草稿を持ってきた。 見ると、なんと『ドイッチェ・イデオロギー』と 今は『自然と弁証法』と よばれる草稿とが いっしょになっている」

どうして いっしょになったか、そのいきさつに つきまして ---。

「ベルンシュタインは そのころ『自然と弁証法』の遺稿を エンゲルスの『自然科学論』の遺稿と よんでいた。 ベルンシュタインの はなしによれば、社会民主党の幹部は エンゲルスのこの遺稿を 出版する 価値があるかどうか まったくわからない。 だから、ベルンシュタインを つうじ アインシュタイン博士に 鑑定してもらおうと いうことになった。 ところが、ごく一部の原稿しか もってゆかなかったために、アインシュタインは、特別のものではない、事実がふるい、出版するほどのこともないと いった。 それで、この遺稿は ベルンシュタインのもとに もどされた。 それをつい、うっかりして、党の文庫に かえすのを わすれた。 そのうち、いつのまにか『ドイッチェ・イデオロギー』の遺稿のなかに まぎれこんだのだ、と さかんに 弁解していました」

「私が その後、遺稿を よく よんでみると、『自然科学論』ではなく、自然と弁証法との関係が 論じられていることが わかった。 これだけみても、ベルンシュタインをはじめ、ドイツ社会民主党の幹部が、いかに 弁証法について 無理解であるかが よく わかりました」

なぜ ベルンシュタインは、「ドイッチェ・イデオロギー」を もっていたのでしょう ?

「宝として もっていたと 弁解していました。 メーリングに 一度 貸したが、メーリングが もってこないので とりもどしたなどと いってました。 ところが マイヤーに きくと、そんなことは ない。 じぶんが その内情は よくしっている。 メーリングが 原稿を 整理したとき、ベルンシュタインは ほんの一部、十分の一ほどしか 出さなかった。 じぶんのてがらに しようとして、ベルンシュタインは スチルナーに かんする部分だけ 発表した。 しかし、そのほかの部分、ことに フォイエルバッハの部分は じぶんで 整理する 才能がないので、そのままに してしまったと いうのです」

リヤザノフも そう書いていますね。 あれは 先生が 話されたんですか。

「いや、マイヤーが おなじことを リヤザノフに 話したのでしょう」

草稿は 読みにくいんでしょう ?

「それは じつに 読みにくい。 第一、マルクスの字は 読みにくい。 それに 略語が 入っている。 ドイツ語、ギリシャ語、ラテン語、フランス語、いろいろなことばが ごっちゃになってる。 私なんか 専門知識が ないもんだから、一ページを 解読するのに 一日ぐらい かかりました。 しかも、順序が そろってないのには こまりました。 なにか 整理しようにも 専門的な 各方面の知識が いるので、けっきょく 私の利用したのは『資本論』の 原稿の一部と 印刷した『資本論』第一巻第一版の 書きこみのあった本だけです」

「ところが、私の研究にとって いちばん重要な『資本論』の 第二巻第二篇と 第三篇の草稿が また 見あたらない。 これも ベルンシュタインの しわざかと 思って つっこんだところ、ぜったいに 持っていない、うそだと 思うなら 家探しを しなさいという。 あとになって わかったんですが、歴史かなにかのノートのなかに まざっていました。 ノートといっても、今日のようなノートではない。 美濃半紙ほどの大きさの紙を 四つに おったものに、欄外を ほんの少し あけただけで、ぎっしり こまかに 書いてある。 それが しかも けずったり、書きこんだりされているんですから、まったく わかりにくいんです」

「字といえば、『共産党宣言』の草稿が 一枚だけ のこってます。 それが よい例です。 私は ベルンシュタインのところで 見せてもらいました。 なんでも エンゲルスが 送ったものだとか いってました」

全集版に 写真に なってるものですか。

「1ページしかない。 たぶん 同じものでしょう」

先生の つかわれた『資本論』第二巻第三篇の 草稿というものは、どうでした、読みにくさは。

「読みにくいことも、もちろん、読みにくかったが、それより ひじょうに 省略してあるので、ほとんど 文章に なってない。 三ページぐらい 書いてなければならないところが 三行ぐらいで かたずけてある」

では、いよいよ 先生が 草稿の整理に 直接 関係された いきさつについて ---。

「それは リヤザノフが ロシアから ベルリンに のりこんできたところから 話さねばなりません」

「さきほど 申しあげましたとおり、私は 1923年の 秋ごろから 文庫に かよって、ほとんど 一日中 ここに こもり、時々は ベルンシュタインの 書庫に入って 研究していました。 これが 翌年の 五月まで つづきました」

「この五月に リヤザノフが 大学の研究室に マイヤーを たずねてきました。 二人は まえから ひどく 懇意のようでした。 私は マイヤーの家で リヤザノフに 紹介されました。 マイヤーと リヤザノフとの 対比が おもしろい。 マイヤーは 三十五、六の おちついた学者、リヤザノフは 六十ぐらいの 老人で かちきな がんこ屋。 このがんこな老人が おとなしい マイヤーに、そのふんまんを ぶちまけているところでした」

--- オットー・ブラウンと ベルンシュタインというやつは、ほんとうに けしからんやつだ。 とうとう 二人と けんかしてしまった。 君も しってるとおり、われわれは モスクワに マルクス・エンゲルス研究所を つくった。(1920年12月設立) そこから マルクス・エンゲルスのものを どんどん 出版したいという 計画がある。 だから、社会民主党文庫や ベルンシュタインの 手もとにあるもの、あるいは マルクスと エンゲルスの手紙などを 渡してくれと いうのだが、どうしても くれない。 むこうで 出版する 気があるなら、なにも こちらでも そんなことを 要求しない。 社会民主党は ぜんぜん 出版する気を もっていないんだ。 それなのに じぶんの方に かかえこんで 公開しない。 こっちが 出版するといっても 渡さない。 貸してくれといっても 貸さない。 マルクス・エンゲルスのものは ドイツ社会民主党の 私有財産ではない。 世界プロレタリアートすべての 共有財産のはずだ。 三日間ほど てってい的に けんかしたけれど、どうしても だめだった ---

「こう リヤザノフは 大声で どなる。 まるで マイヤーを おこってるみたいでした」

けんかずきの ようですね。

「みるからに そうでした。 興奮すればするほど ぺらぺら しゃべりまくります」

ロシア語ですか。

「いいえ、ドイツ語で。 マイヤーは あまり ロシア語を しりませんでしたから。 リヤザノフのドイツ語は たっしゃなものでした」

リヤザノフは まえに ドイツに よほど 長く いたんですか。

長く いたようです。 すでに マルクスの インタナショナル時代の 国際関係を とりあつかったり 新聞記事を あつめたりした 著書を 二冊ほど だしていました」

どうして 貸してやらないと いったのでしょう ?

「ソヴェトと ドイツ社会民主党とは けんかをしている。 それに リヤザノフが つよく でたものだから、どうしても やらないと いったようです」

「そこで、マイヤーが リヤザノフのために 二人に 交渉することになりました。 この交渉に 私も いっしょに ゆきました。 オットー・ブラウンと ベルンシュタインは いうのです --- 君も しってるとおり、ソヴェトのやつは みんな ドロボーだ。 あれを 持っていったら とても 返すものではない。 かっぱらうに ちがいない。 ドロボーに ものを貸す バカがいるか。 それに むこうが 出版する 能力が あるかどうかも あやしい。 ソヴェト政権が はたして つづくかどうか、これも きわめて あやしい。 持ってゆかれて 出版もしない、返しもしないということに なったら たいへんだ。 こういう意味で 私たちは 絶対に 貸してやらないのだ。 こういうことを 二人が いった」

「それで こまってしまいました。 マイヤーは 温厚な人ですから、ドロボーだとか、返すはずはないとか、二人が さんざんいった ソ連に対する悪口を、そのまま リヤザノフには 話しませんでしたが、リヤザノフと いろいろ相談した。 おこってはみたものの リヤザノフも こまってしまった。 そこで マイヤーが グリュンベルヒの 名前をだした」

カール・グリュンベルヒですね。

「そう。 フランクフルト・アム・マイン大学の 社会研究所 (インスティトゥト・ヒュル・ゾチアル・フォルシュンク) の所長をしていた カール・グリュンベルヒ。 彼が 責任者として 大学の研究所から 有名な 社会主義および労働運動史の 雑誌を だしている。 これには ベルンシュタインが よく投稿しているし リヤザノフも 書いている。このグリュンベルヒを よんで 相談しようと マイヤーが いいだした。 そこで 手紙をだすと、グリュンベルヒは さっそく ベルリンに やってきた。 グリュンベルヒは 話をきくと 言下に こたえました」

--- これは 出版するのが 当然だ。 それでは こういう手つづきを とろう。 私の研究所が 責任をもって 借りよう。 私の研究所は 国立大学のなかに あるのだし オットー・ブラウンの 管轄 (フランクフルト・アム・マインは プロイセン州の なかにある) であるから、これに 貸すには 文句があるまい。 研究所が 責任をとって 監督するから、リヤザノフたちは 原稿を うしなわないように きをつける。 そして ロシアから だれか たくさんきて コピーを とってしまえば いいではないか。 ただ 貸してくれ、ロシアに 持ってかえって 出版するというのでは、私が 交渉しても あの二人が 承知するとは 思われない ---

「これが グリュンベルヒの 意見だったのです。 はじめは リヤザノフも しぶしぶでしたが、とうとう この条件で 承知した。 そこで グリュンベルヒは マイヤーと いっしょに オットー・ブラウンと ベルンシュタインに あって 談判した。 けっきょく グリュンベルヒの作戦が 成功して、マルクス・エンゲルスの文献を、研究所に しばらく 貸すということになった」

グリュンベルヒが 大きな役割を 演じたわけですね。 どんな人でした ?

「じつに りっぱな教授です。 六十ぐらいでしたでしょう。 みんなから 信望が ありました。 純粋な 学者です。 ドイツの社会主義運動史 および 社会問題、ドイツの農業経済史、ドイツの社会主義文献学の研究では 第一人者でした」

年からいっても マイヤーの先輩ですね。

「マイヤーは その学生だったのです」

思想的には ?

「党には 入らないでいたけれど、マルクス主義文献については、造詣のふかい人でした」

それでは すぐ コピーを とりはじめたわけですか。

「そのまえに、なにを 写真版にとるかが 問題でした。 社会民主党の文庫にあるものは、研究所に 貸しだされることにはなったが、ベルンシュタインの家にあるものが そのなかに 入っていない。 そこで 私が 口をいれた。 ベルンシュタインの家にあるものも ださないのは けしからん。 『ドイッチェ・イデオロギー』あるいは『自然と弁証法』そのほか、ベルンシュタインは まだまだ マルクスの草稿を たくさん 持っている。 この機会に ベルンシュタインの持っているものを ぜんぶ 社会民主党の文庫に 入れなければいかん。 こう 私が 主張した。 けっきょく、オットー・ブラウンも そうだといいだし、オットー・ブラウンから 話を きりだして、とうとう ベルンシュタインに このことを 承認させた」

「ところが、『ロウをえて ショクをのぞむ』というわけで、こんどは リヤザノフが、カウツキーや べーベルや ベルンシュタインなどに あてた マルクス・エンゲルスの手紙も みな 文庫に いれるよう 交渉してくれと グリュンベルヒに たのみこんだ。 グリュンベルヒは オットー・ブラウンと 話しこんだ。 オットー・ブラウンから 社会民主党系の ひとたちに ひき渡しの 依頼状がでた」

「べーベルは 死んでいたが、遺族は ひき渡しを 承知した。 ところが ベルンシュタインと カウツキーが 承知しない。 それは じぶんたちあてに くれた手紙だから 私有物だと いうわけです。 リープクネヒトの遺族のように、すすんで 手紙を 提出したのと 好対照です。 ベルンシュタインと カウツキーが どちらも がんばるものですから、しかたがない、写真版に とるから しばらく 貸してもらいたい、コピーが できしだい 責任をもって 返すから --- こういうふうに グリュンベルヒが いちいち 交渉して やっと 借りられることになりました」

「しかし、マルクス・エンゲルスの原稿は 社会民主党の文庫や ベルンシュタインの書庫ばかりでなく、若干 あちこちに ちらばっている。 たとえば ケルン市の図書館にも あるし、トリエルの中学校にも ある。 この二つなどは マルクスの記念物として、きれいに まとめてありました。 たとえば マルクスに対する 逮捕状や いろいろな裁判の記録などは ケルン市の図書館に ありました。 中学校の論文とか 卒業前の作文とか、ラテン語や ギリシャ語の試験答案などは トリエルの中学校に ありました」

「ただ 大学の卒業論文が イェーナ大学に ないのです。 草稿は 社会民主党の文庫にも あったし、学位を とった時の ほかの記録は みな イェーナ大学に あるのに、完成した形の 卒業論文が どうしても 見つからない。 マイヤーが いそがしい時だったので、私が リヤザノフと いっしょに いろいろのところで マルクス・エンゲルスに関係する 記録を さがしたら、マルクスの出生証明書とか、マルクスが 父にあてた手紙とか、めずらしいものが トリエル市の図書館で 見つかりました」

「1924年の 十月までには だいたい あつめおわりました」

大馬力ですね。

「じっさい リヤザノフの馬力は 相当な ものでした。 ドイツから フランス、イギリス。 ロンゲのところへ いったと思うと ラファルグのところへ ゆく。 第一インターの遺族を かたっぱしから 訪問して、材料を あつめる。 原文を もらえないものは、やはり フランクフルト・アム・マイン大学の 社会研究所が 借りるという形にしてもらう。 としよりなのに よく かけまわるものだと 関心しました。 もっとも マイヤーはじめ 多くの人が 協力しました。 とくに グリュンベルヒが すぐれた文献学者で、まえから ヨーロッパの各地を 旅行し、どこのだれが なにを持っているかを、じつに くわしく知っていたので、リヤザノフは グリュンベルヒに ぜんぶ きいて、そのおしえられたとおりを まわったと いっていいくらいです」

では、資料が あつめられてからのことを ---

「じぶんは もともとマルクスの文献を 一所懸命 読もうとしていたところでしたし、リヤザノフが 熱心なのに 感心もしたので、あのなかに はいったら おもしろいだろうと 思って マイヤーに 相談しました。 そして 1924年の 十月から フランクフルト・アム・マイン大学に 転学することに なりました。 グリュンベルヒのもとに いったわけです」

「手稿や 遺稿が ついたのは 十一月ごろです。 モスクワからは E. ツォーベルが 大将になって、F. シルレル、K. シュミュックレ そのほか たくさんの写真師、合計 三十人ばかりの一同が やってきました。 ツォーベルは ハンガリア系の人でしたが、ひどく ドイツ語が たっしゃで、シルレル、シュミュックレなど ドイツ系の人を 指揮して、やりかたも ひどく 組織だっていました。 一方、グリュンベルヒの方も、責任をもって 保管するといった関係上、また 手伝いと 研究を 兼ねて、すすんで これと 協力することになりました。 グリュンベルヒの弟子で 研究所員である フリッツ・ポロック、フェリックス・ワイル、カール・ウィットフォーゲル、ヘンリック・グロスマン、それから 私が 参加したわけです」

「仕事は まず 草稿や手記を 大まかに 分類することから はじめ、さらに これを こまかく わけてゆく。 エンゲルスのものだと 思ったものが マルクスのものだったり、『 ドイッチェ・イデオロギー』と 思ったもののなかに、『自然と弁証法』そのものが まぎれこんでいたり、こうしたことが ドイツと ロシアの専門家によって、かたっぱしから 分けられてゆく。 この原稿を 一枚、一枚 はがして、これを 写真にとり、それから これを 整理してゆく。 原本は また あつめて 原形に もどしながら、ほかと 照合する。 照合してから また まえのように とじる。 原稿によっては 議論も おこるが、事務的に 一々 かたずけてゆく。 この整理ほど 熱心で おもしろい仕事は ありませんでした。 こうして、ぜんぶ 写真に とってしまったのです。 完成したのは 翌年、1925年の 五、六月ごろだったと 記憶しております」

「仕事が おわると 社会民主党文庫に いれるものは 文庫に、ベルンシュタインの持ってる手紙は ベルンシュタインに、カウツキーのものは カウツキーに、それぞれ 貸しぬしに みな 返しました」

問題の「ドイッチェ・イデオロギー」は ?

「それは オットー・ブラウンが いったとおり 社会民主党文庫に いれました」

「自然と弁証法」も ?

「いっしょに 返しました」

こんどは 分けてですか。

「分けました。 だれでしたか、リヤザノフの方の 専門家で『ドイッチェ・イデオロギー』に くわしい人が、てってい的に しらべて、はっきり 分けました」

あとしまつで こまったことなど できませんでしたか。

「いいえ、ひとつも。 すべて、うまくゆきました」

グリュンベルヒも ほっとしたわけですね。

「この文献あつめと 文献うつしに グリュンベルヒが 協力した 功績は じつに大きい。 彼が いなかったら、この仕事は できなかったかもしれない。 その点 リヤザノフが、ただ『この仕事に フランクフルト大学が あたえられた 援助に 感謝する』としか いっていないのは、かたておちです。 すくなくとも 研究所や グリュンベルヒの名前を くわえなくては ---。」

「このしごとが すんでから、また 私は ベルリン大学に かえりました。 学位論文を 書くためです。 この論文には『資本論』第二巻第三篇が 必要なので、また 社会民主党の文庫に ちょいちょい かようようになりました。 リヤザノフが マルクス・エンゲルスの遺稿を 整理した 影響をうけて、文庫の方でも すでに 出版した マルクス・エンゲルスの書籍や マルクス・エンゲルスの蔵書を 整理しはじめ、また マルクス・エンゲルスの遺稿を 利用する人も ぼつぼつ でてきましたが、しかし ドイツ社会民主党には マルクス・エンゲルスの遺稿を 出版する気など、すこしも おこっていませんでした」

ロシアでは どうなったのでしょう ?

「それを 私は まのあたり 見ることになりました。 私は 1928年の 四月に ロシアに 入りました」

「卒業論文で『資本論』の草稿を なんども みましたが、これが さっき 話したように 解読が きわめて困難、それに 私の 再生産論の研究が ケネーから マルクスまで きたのを レーニンまで のばさなければならない。 さいわい ツォーベルとは、さきの しごとの関係で 文通を つづけていましたが、そのツォーベルが ぜひ ロシアに こい、レーニンのものは 翻訳してやろう、マルクスのものも タイプに うちとったから 見やすいぞと 勧誘してきました。 そこで リヤザノフと ツォーベルに 手紙をだし、ドイツの ソヴェト大使館に 話してもらって、なかなか 入国が むずかしいころでしたが、私は ロシアに はいれたわけです」

「私は これも リヤザノフと ツォーベルの好意で マルクス・エンゲルス研究所の 一部屋に ねとまりさせてもらって 勉強しました。 ここは ベルリンの 社会民主党文庫と まったく うらはらで、ここに あつめられた資料は、いちいち 科学的に 分類、整理され、手稿や 手紙は みな タイプに うって 見やすくなっている。 略字や 誤字、脱字も そのまま 活字に なっている」

どのくらいの人数ですか。

「モスクワの マルクス・エンゲルス研究所の そのころの 所長は リヤザノフ、文献の方の部長が ツォーベル、哲学の 主任部長が あとで 批判された デボーリン、経済の所長も ずいぶん 批判された ルービン、それから ポクロフスキーとか ハイドゥとか、総計 三百人ぐらいの 大所帯でした。 女の事務員なども ずいぶん いました。 リヤザノフの ことばによりますと、ドイツあたりでは 何百年かかっても、こんなものは できない。 じぶんの方では 国家のちからが あるから、これほどの 研究所を こんな短期間に つくることが できたのだ、というのです」

たてものは ?

「ズナメンスキー街、私が いったときには 名前が かわって マルクス・エンゲルス街、その五番地、もとの ドルゴルコフ候爵邸で、ずいぶん りっぱな たてものです。 三階だてだったと 記憶しています。 ひろい前庭が あって、これなら しごとができるという 感じがしました」

出版の方は どうなっていました ?

「私は リヤザノフに、全集のかたちで だすそうだが、どんな計画なのかと ききました。 リヤザノフたちは、はじめ これを 国際版 (インタナショナル版) で だすという かんがえを まったく もっていなかった。 材料を ぜんぶ ロシア語に 翻訳して、これを ロシア語版の全集として だす。 それを 二十九巻 (三十六冊) で だす予定で、計画を すすめておりました。 これでも ロシア語版には ノートの 抜き書きなどは いれないつもりだと リヤザノフは いってました。 ロシア語版は、第一部が 評論、歴史、哲学、経済、第二部が『資本論』、『剰余価値学説史』、第三部が 手紙、第四部が 索引 という計画です。」

「しかし、この大きな ロシア語版でも、なお マルクス・エンゲルスの 残した 莫大な材料は もりきれない。 それに マルクス・エンゲルスのものを 全世界の人が 利用できるようにしなければならない。 そこで ロシア語版よりも もっと大きな 国際版、いわゆる アカデミー版を だす計画を たてた。 方針としては 四十二巻に する予定だ。 四十二巻を 四部に わける。 第一部は『資本論』、『剰余価値学説史』を のぞく すべての論文、評論、これを 年代順に だす。 これを 十七巻に する予定だと いってましたが、第五巻に 入るべき『共産党宣言』が 第六巻の 終わりになって でたくらいですから、もっと じっさいは ふえるでしょう。 それから 第二部は 『資本論』および 資本論の 数種の原稿と『剰余価値学説史』、これは あらゆる版を 比較対象して 十三巻にする。 なかなか 科学的に 研究しなければならないから 完成は 最後になるだろう。 早く だしたいとは 思うが 十年か 十五年は かかるだろう。 第三部は 書簡集です。 これは マルクスと エンゲルスが たがいに かわした 手紙と、第三者に あてた 二人の手紙で 十巻の 予定。 このうち 二人のあいだの手紙は 1569通、これは すぐできる。 これだけで 四巻になる。 第四部は 索引、これは 同時に マルクス・エンゲルス辞典を かねるように するつもりである。 こういう計画を かたった」

「そこで 私も 意見をのべた。 計画は ひじょうに けっこうだが、書簡集について すこし 異論がある。 マルクスと エンゲルスが 第三者に あてた手紙は、第三者から 二人に あてた手紙を ださないと 理解しにくい、その手紙は ドイツ社会民主党文庫に 8500通ほど あつまっていたから、これを ぜんぶ コピーにとって、いっしょに だすべきだ。 そういうと、そんなことを したら 国際版は 百冊以上にもなって たいへんだ --- こういっておりました」

どこまで 出版されたのですか。

「私は ちょうど 1935年までの 出版状況しか しりませんが、ロシア語版の方は これまでに 大部分 でてしまいました。 部門別に 申しますと、第一部は 十六巻、十一、十二、十三、十六の 各巻は 上下 二冊になるので、合計 二十冊で だす予定でした。 これが1935年までに 第一巻から 第十二巻、ひとつ とんで 第十四巻、第十五巻と、合計 十四巻 十六冊が でております。 1864年から 1873年までの インタナショナル時代の マルクス・エンゲルスの 著作論文をあつめた 第十三巻、1883年から 1895年の エンゲルスの 著作論文をあつめた 第十六巻の ふたつが まだ でていませんでした。 これは どちらも 上下 二冊です」

「第二部は 四巻 七冊、第十七巻から 第二十巻まで、第十九巻が 上下 二冊、第二十巻は 上中下の 三冊として だす予定でしたが、でたのは 第十八巻 (『資本論』第二巻) だけでした。 第十七巻 (『資本論』第一巻)、第十九巻 (『資本論』第三巻)、第二十巻 (『剰余価値学説史』) は まだ でていません。 第三部は 第二十一巻から 第二十八巻まで だす予定で、このうち 第二十一巻から 第二十六巻までが でてました。 1878年から 1889年のあいだに マルクス・エンゲルスが 第三者に あてた手紙を おさめた 第二十七巻と、1890年から 1895年のあいだに エンゲルスが 第三者に あてた 第二十巻と、この二つが まだ でていなかった。 第四部は 索引で 第二十九巻に なるわけです。 これは もちろん でていなかった」

「ところが、さいきん 聞いた話では、これらが 1936年から あとで みな でたと いうことです。 ロシア語版の マルクス・エンゲルス全集は、ついに 完成したわけです」

「それから、国際版の方は、英語で書いたものは 英語で、フランス語で書いたものは フランス語で、ドイツ語で書いたものは ドイツ語で 出版するわけですが、ドイツ語、英語、フランス語、ラテン語、ロシア語など、いろんな ことばが でるし、独特の 印刷技術がいる。 この活字の関係 そのほかの理由もあって、ドイツで 出版することにした。 そのため マルクス・エンゲルス全集出版株式会社というものを わざわざ つくった。 1932年の ことです。 そして、でたのは 第一部の 六巻 七冊 (第一巻は 上下 二冊) と 第三部の 手紙、マルクス・エンゲルスの 往復書簡 四巻です。 だが、1933年に ヒットラーが 政権をとって、この会社を つぶしてしまいました。 さいきんの事情は わかりませんが、いくら 正確な ロシア訳が あるからといっても 原文が ほしいし、また ロシア版にはない 多くのものが 入るわけですから この国際版が 早く でるように いのっているものです」

いったい、マルクス・エンゲルスが 書いたもので 出版公表されてないものは、どのくらい あるんですか。

「マルクス・エンゲルスの原稿は、草稿の原稿と ノートをあわせて 七百種類ほどあります。 そのうち ノートが 百七十三冊 あります。 むろん 経済学のものが いちばん 大きい分量を しめています。 マルクス・エンゲルスの 往復書簡は さきほど 申しましたとおり 1569通、第三者に あてた手紙は、その後 発見したものも あるでしょうが、あの時は すべて あつめて 2500通ぐらいでした。 第三者から 二人に あてた手紙は、社会民主党文庫に あるものだけで、だいたい 8500通ぐらいです」

なるほど、それだけあれば、公表にも ひまが かかるわけですね。

「それにつけても、私は 原稿の運命が どうなったかを ひどく きずかっているのです。 コピーこそ とったが、原本は いぜんとして 社会民主党の文庫に あったわけですから、1933年 ヒットラーは 政権をとると同時に 共産党を弾圧し、それから 社会民主党に 解散を命じました。 社会主義、共産主義の本は すべて やきはらわれ、マルクス・エンゲルス全集出版会社も つぶされたのです。 社会民主党の財産は すべて 没収されたわけですが、この財産のなかに 当然 入っていた マルクス・エンゲルスの文献が はたしてどうなったか。 ドイツに 留学して かえってきた人に、一人一人 たずねるのですが、だれも しらない。 マルキストという人さえ、文庫が どこにあったかも しらないくらいですから、だれも 利用した形跡がない」

「ことに 第二次世界大戦が おこって ベルリンは ほとんど 灰燼に きしました。 リンデン街なども てってい的に やられたようですから、たとえ 文献が この時まで のこっていたとしても、はたして どうなったか。 私は 遺稿や マルクス・エンゲルスが みずから つかい、いろいろ 書きこんだ本を 手にした 関係から、その運命を 非常に 心配しておるのです。 もし、これらが この世から なくなったとしたら、その責任は ぜんぶ ドイツ社会民主党の 責任です。 なぜ、あの時 モスクワの マルクス・エンゲルス研究所に おくらなかったか、原稿のことを 心配するたびに いつも 私は このことを かんがえます」

モスクワの マルクス・エンゲルス研究所には どのくらい おいでだったのですか。

「正味 八ヵ月ぐらいでしょう。 いろいろ 旅行なども しましたし」

研究所は マルクス・エンゲルスの文書ばかり とりあつかうのですか。

「いいえ。 プレハーノフや ヘーゲルの全集も ここから 出版されました。そのほか ケネーや リカード、スミス そのほか、マルクス主義に かんして 参考になる 哲学、歴史、経済、社会運動史など、すべての文献を あつめて 研究し、かたっぱしから 出版してゆくのです。 このためには、ものすごく くわしいカードが きちんと 用意されていました。 そのうえ、研究部門ばかりでなく、たとえば、『レーニン伝』とか『スターリン伝』などという 大衆的な 出版も やっています」

レーニン研究所と いっしょになったのは、いつごろですか。

「1931年でしょう。 このとき リヤザノフが 所長から おわれて、アドラツキーが、合併した マルクス・エンゲルス・レーニン研究所の 所長になりました。 場所が かわったかどうかは しりません」

リヤザノフが 所長を おわれた 事情については、ごぞんじ ありませんか。

「私も 文献でしか わかりません」

先生が おあいになっていたころに、なにか 偏向といったものは みられませんでしたか。

「マルクス・エンゲルスが 書いた事実を 訂正しなければならないと いっていました」

どんなところを 訂正するというのですか。

「たとえば、共産主義者同盟の できた事情を エンゲルスが 書いているが、あれには エンゲルスの 記憶ちがいが たくさんある といったような ...」

理論的には ?

「マルクスと エンゲルスの かんがえかたの ちがいを 指摘したり、個々の事実を 訂正したりは してましたが、理論の上で 批判する ということは ありませんでした。 事実の訂正といっても、ごく すくないんですよ」

政治的には どうでした ?

「これは ツォーベルや シュミュックレに きいた話ですが、十月革命のときには トロツキーと いっしょになって、レーニンや スターリンたちに 反対したということです」

それは ドイツに いたときに、きかれたのですか。

「いいえ、モスクワでの 話です」

レーニンについては どう かんがえているようでした ?

「リヤザノフは レーニンを たかく評価していない。 プレハーノフに たいしては 尊敬してましたが、レーニンは じぶんの同輩だ、じぶんより えらいとは 思わないという 態度を、はっきり だしておりました。 いや、レーニンに たいしては むしろ 批判的でした。 そのくらいですから、スターリンなどは 眼中に おかない。 そして デボーリンを 擁護する。 ことに 批判された ルービンを ひどく 弁護してました。 けっきょく ルービンの 反ソ的活動の 証拠を 研究所に かくしたために、所長を やめさせられたようです」

レーニンを どういうふうに 批判してましたか。

「レーニンが、『経験批判論』を だした時に、これは たいした本ではないと いったということを ききました。 デボーリンを 擁護したことは このへんに 由来するのでしょう。 そのころ レーニンの『帝国主義論』は まだ ドイツ訳が なかったし、原本も ドイツに 入っていなかったので、リヤザノフが ドイツに きた時、あの本は どうだと きいたのです。 そうしたら、あれは ぜんぜん なっていない本だといって、ひどく けなしつけ、どんな内容が 書いてあるかも きくことが できませんでした」

アドラツキーも 死んだということですが、いま マルクス・エンゲルス・レーニン研究所の 所長を やっているのは だれですか。

「ミーチンです。 さいきん 外国の 新聞記者から ききました。 ミーチンは わかいが すぐれた哲学者です」

いくつくらいですか。

「わかいといっても、私が あったとき 四十ぐらいでしたから、もう 六十ちかいはずです。 行政的な 手腕も ある人でした」

それでは、どうも ながいこと ありがとうございました。 先生のお話しは、日本で マルクス・エンゲルスの文献を 研究するものにとって 貴重な 参考に なると思います。 世界的に みても めずらしいお話しだと 思いますので、この速記を ぜひ「社会評論」に のせさせて いただきたいと 思います。


「社会評論」誌 (1948年 12月号)

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