ニヒリズムの底
ニヒリズムというと、たとえば自分の立っている場所が急になくなる - ささえるものがなにもない - というイメージがうかぶ。しかしイメージはやはりイメージでしかない。
それはある種の人格の欠損だと思われるが、ぼくたちの想像できるものではおそらくないだろう。
そのポンチ絵 - カリカチュア - であればまわりにたくさんいる。
自分の属する組織では有能だが、組織の外の社会とは「対等」に接することのできない人間。
情報は与えられるものであって、それがたとえ間違いだと判明しても、すぐまた別の情報に違和感なくスライドできる人間。
「強制」を「職能」の一部と考え、職能を離れれば別人格に変われると本気で考えている人間、等々。
だが彼らは - いってはわるいが - ゴミでしかない。
ではいわゆる識者 - 知識人 - に伺いを立てるべきだろうか。
かつてヤスパースはストリンドベリィの作品を使って精神分析を試みたことがある。
しかし彼はストリンドベリィが社会民主主義者であって、その方面の著作 - それはブルジョワの醜さをあからさまに書いたものらしい - があるということには一言も触れてはいない。
つまり彼の目にはバラバラな個人個人の「ニヒリズム」というものがあり、ブルジョワジー層を網の目のように覆っているニヒリズムなど想像もできないらしいことがわかる。
やはり歴史に問いかけるのがいちばんいいようだ。
キューバ危機の際のケネディの行動を考えてみよう。
いうまでもなくケネディはベトナム侵略の最初の具体的プランを立てた人物である。
彼はキューバにあるミサイルを喉元に突き付けられたソード(剣)だと考え、本気で核攻撃を計画した。
結果的にはミサイルは撤去され、フルシチョフの勇み足が非難されて事件は終わったことになっている。
しかしそれは表層面からみた解釈にすぎない。
ブルジョワの権化 - personification of capitalism - とその有能な臣民 - competent subject - という構図をつくってみるとわかりやすい。
ケネディが核攻撃を決意したとき、彼がその時なにを思ったかということなど関係なく、なにか得体の知れないものに背中を押された、ということなのだ - ぼくはそれをブルジョアジーのもつ「ニヒリズムの底」であると考える。
トルーマンなどはただのブルジョワジーの召使にすぎないが、ケネディは「ブルジョワの権化とその有能な臣民」の二つを兼ね備えた稀有な - 歴史の産み出した奇怪な - キャラクターである。
「有能な臣民」としての彼はパンアメリカニズムの道をならし、アメリカの - 特に中央アメリカの - 歴史をいっときにせよ逆転させることに成功したのだ。
ケネディが暗殺されたとき、マルコムXが「それはいいことだ」といったと日本でも報道された。
まもなくそれがデマゴギーであることが判明したが、そのような侮蔑的なデマゴギーを流されるということは、逆にいえばマルコムXがそれだけある種の連中から恐れられる影響力をもった人物ということになる。
そしてデマゴーグたちの意図にかかわらず、上の言葉は歴史の真実の一面を投影しているようにおもえる。