「武の漢字 文の漢字」


広大な中国の地理の叙述からはじまり、エンゲルス、レーニンからの引用で筆を納めている。スケールの大きい本である。

別段むずかしい言葉の定義があるわけではない - また繁雑な定義からはじめることには著者も興味はないようだ。

この本にはいくつかの縦糸があり、その一つが陽明学の日本における変容 - 堕落だろう。

松蔭はたしかに陽明学左派 - 李卓吾らの - 思想の中核をとらえていた。ただしそこまでであって、尊皇攘夷の枠組のなかで出口を失い、ついには<吾独り正し>という他国への侮蔑にまで堕してしまった。伊藤、大久保らエピゴーネンはいわずもがなである。

その意味で「孟子」はいまだこの国では<国禁の書>であり続けるであろう。

その孟子は古代の官僚 - 士大夫 - であったが、著者は官僚について次のように述べている。

そして著者は「たとえ世直し(革命でもいいけど - 引用者)が行われても『行政』は必要だろうか」と自問して次のように文を結んでいる。

(著者 藤堂明保 発行 徳間書店 1977年刊)


2003年 12月 - 2004年 1月

読書日誌