「武の漢字 文の漢字」
広大な中国の地理の叙述からはじまり、エンゲルス、レーニンからの引用で筆を納めている。スケールの大きい本である。
別段むずかしい言葉の定義があるわけではない - また繁雑な定義からはじめることには著者も興味はないようだ。
この本にはいくつかの縦糸があり、その一つが陽明学の日本における変容 - 堕落だろう。
松蔭はたしかに陽明学左派 - 李卓吾らの - 思想の中核をとらえていた。ただしそこまでであって、尊皇攘夷の枠組のなかで出口を失い、ついには<吾独り正し>という他国への侮蔑にまで堕してしまった。伊藤、大久保らエピゴーネンはいわずもがなである。
その意味で「孟子」はいまだこの国では<国禁の書>であり続けるであろう。
その孟子は古代の官僚 - 士大夫 - であったが、著者は官僚について次のように述べている。
かつての中国の人民は奴隷であったといわれるが、その上にあった官僚は、さらに悪質な奴隷であった。
奴隷官僚は、上におもねるだけの分を下からしぼりとる。それは上官におもねる下士官が、その分だけ兵卒をいじめるのと同じである。
そして著者は「たとえ世直し(革命でもいいけど - 引用者)が行われても『行政』は必要だろうか」と自問して次のように文を結んでいる。
官僚とは、お上の命令を執行して人民を「統括」する「専門職」ではない。
人民の労働を見守り、帳面をつけるという、ごく普通の仕事をする者である。
(著者 藤堂明保 発行 徳間書店 1977年刊)