「プラグマティズム論理学」
(「プラグマティズム I 概論/論理学」)
著者はこのころデューイの論理学 - 論理の探究(Inquiry of Logics)だと思うが - を訳出していた。
そこでデューイにインスパイア(触発)されて、できたのがこの文章である。
デューイは<実践>の哲学者といわれるが、その実践には言葉の上の定義だけがあり、絶対にといっていいほど哲学の外へはでていかない。
こちらがなにか問い質したところで "That's all." とかいって背中を向けるような哲学だ。
しかし著者は、まるで陽気な「ミル評注」- チェルヌイシェフスキーの - でも書くようにどんどん論理をすすめていく。
元来前提と結論との間がいくら辻褄が合っていても、それはその前提に立てばその結論が出てくるというだけの説明にはなり得ても、その結論が真理であるという理由にはなりません。
その結論が真理であるためには前提が吟味されており、結論がさらに現実の発展に適用されて自己の正しさを証明するという点がなければならない。
そこで理論は専門家同士の話し合いでしかわからないような前提を使っているが、結局理論の理論たる本質をもっていない理屈に陥りがちなのであります。
そして著者は、読者を説得(パーシュエイド)するためにも、論理を正攻法で組み立ててゆく。
漠然とした注意とか期待が実際に過去において繰り返し行われて、この記録というものがデータ(与件)という意味をもち、未来の側がほんとうの意味での推理(インファレンス)という資格をもってくる。
それらが現在の欲望とか、あるいは自分の立場を媒介にして何を実現するか、それがインファレンスとなり、期待が推理的予測となってはじめて論理的な思惟が生じてくるのです。
(著者 久野収 発行 白日書院 1947年刊)