「読書法」
この本は発禁処分をうけたはずである。
当然、紙型も破棄するように命ぜられたと思うが、敗戦後すぐに印刷に付されたのは出版社が紙型を秘匿していたのではないか。
「不幸」な時代には、臆病と慎重さとのあいだが不明瞭となる。
そしてその反対も真であるなら、軽やかさよりも鈍重がはびこる時代だったといってよい。
そんななかでも一等軽やかなのが戸坂であり、彼の文章だろう。
つぎの文章などは"最強"である。
世に愛書家なるものがある。また蔵書家なるものがある。いずれも性のよいのと性の悪いのといるが今は問わぬとしよう。
これに因んで読書家というものがいる。
本を読む人間のうちで読書子や「読書家」はけっして信頼すべからざる文化人である。
彼らは一種の謙遜な野次馬でなければ、不遜な能無しである。
こういう読書子はけっして「読者」の代表ではあり得ない。真の読者は読書主義には陥らぬものだ。
本を読むのと同時に、それだけの分量の時間を自分自身でものを考えるのに使う義務をみずから課しているのが本当の読者である。
(著者 戸坂潤 発行 三笠書房 1946年刊)