「民族性と民衆性」
79年刊行の「続下手でもいい音楽の好きな子どもを」(音楽の友社刊)に収録されている。
著者はまずチャイコフスキーの音楽に対するロシア人の愛好にふれて、その後にムソルグスキーの音楽の特質へとはなしを進める。
端的にいえば、彼らの民衆性と国際性の差は実は彼らの折衷性と純粋性との違いにあるのだ、とわたしには思えるのである。
このようにいえば、それはこれらの作曲家の間にある時代の差でありまた技法の差である、という反論がすぐでるだろう。それはたしかである。
しかし問題はその時代の差や技法の差が生み出される根源に、なにか重要なことがあったのではないかということである。
そしてこの文章全体のなかでおそらく著者のいちばん主張したいと思われる節が続く。
わたしはそれを、一般にいわれる芸術の民族性 -- これ自体も歴史的、社会的な形成物であるが -- の内にある固有の民族性と非民族的産物(外来芸術、文化の影響によって作られるもの)とが、絶対に分かつことのできない、あるいはいずれとも識別のつかない程度に混溶しきってしまったものの「定着」あるいは「固着」だと考えるのである。
とくに思想概念の具体的表現でなく、感覚性の強い芸術である音楽では、この「定着」または「固着」を問題にしないで民族性は語れないとわたしは思うのである。
著者は再度ムソルグスキーへと戻り、将来への示唆をのべて文章を閉じている。
わたしにとって大切だと思えることは、これらの偉大な作曲家たち -- ムソルグスキー、ヤナーチェク、バルトーク -- が、定着した慣例を破ろうとした意識と努力である。
さらに彼らは民族(俗)特質を追求するその思想の根源に、人間そのものの本来の歌の姿を追求しようとする意思が強く働いていたことである。
それは民族的とか国民的とかいう大義名分よりも、もっと深く人間的であろうとすることに根をもっていたと思えることである。
大衆文化が向上することは望ましいし、また大衆が真の批評者であり創造に力を与えることさえもあり得る。
しかしその真の姿は、大衆が無意識のうちに没入しきっている過去の定着を破ろうとするときはじめて正しく発揮されるものではないだろうか。
わたしはその意味で、個性的創造としての芸術は常にいわゆる伝統との戦いに真の価値を生むものだと思うのである。
しかし、これは人さまの国のことである。
それよりも日本でこそ、民族性と民衆性との一致、不一致、同質と多質の問題をもっと厳密に考えるべきではないだろうか。
(著者 園部三郎 初出「音楽芸術」1977年8月号)