「倫理と進歩」
まずは引用からはじめよう。
いろいろな階級的立場にまたがって歴史的に発展してきた倫理的理想がないという意味ではけっしてない。
人間の対人関係に深く根ざしている人間性や礼節についての観念は存在する。エンゲルスがかつていったように階級社会においても倫理は進歩してきたのである。
しかしながら問題は倫理的理想の行使が、現存する階級関係に根ざした、社会の深く定着した生活様式を脅かすやいなや、中断してしまうことにある。
いわゆる「模範的」な人たちはだれでも原理的には暴力を嫌っている。
ところが支配階級は搾取されている人たちが自分たちにたいして暴力を使ったときだけは、それに真向から反対するのである。
支配階級の成員たちはかれらの私有制を存続させる最善の手段については意見の一致をみないことはおおいにあるといえるが、私有制が国の内外で脅かされれば、人間の生命をふみにじっても、私有制を救うという必要性について不一致になるようなことはけっしてないのである。
以上は支配階級の倫理に対するマルクス主義の立場であるが、もうひとつこの本には大事な指摘がある。あまり注意されることがないけれど ...
私は楽しい、私は自分の権力を、財産を、安楽を、私の芸術や科学的研究を、学位を、あるいは妻(または夫)と子どもたちを愛する、そしてどんなことがあろうと、だれのことであろうと、その他のことにはまったく関心がない、と。
このような見解は道徳的唯我論、つまり認識論的唯我論の双生児といってもよいだろう。
結局こうした議論 - 論理でかれらを説得しようとすること - は、倫理が、人がいかに生きているかということと、いかに生きることができ生きなければならないか、すなわちいかに生きるべきかということとの矛盾を理解することができるという人間の特殊な能力から生ずる - という単純な事実を無視しているのである。
この事実こそあらゆる道徳的命令の、すなわちあらゆる倫理的原理の唯一の基礎であり、それをもたない人びとは道徳的でもないし道徳に反することもない -- ただ非道徳的であるにすぎない。
たしかにこういう輩 - サーバント(召使い)といえば嫌がるのなら、サブジェクト(臣民)といってあげてもいいけど - は、あちこちにいそうだ。
(著者 ハワード セルサム 訳者 楠悦郎 発行 新日本出版社 1972年刊)