「身分の社会史」
経済の空洞化が指摘されてすでに20年になるが、その反面、資本によるエネルギーの無駄遣いはいっこうに解消されない。
また合理化 - このことばもインチキくさいが - による就業人口の減少も歯止めがきかないようだ。
いまや工業分野や流通業ばかりでなく全産業的に固定社員数を減らすことが流行となっている。
ちょっとした会社では、正社員 - 契約社員 - 下請けという階層が同じフロアで働くということがあたりまえのこととなった。
数字的には利益率があがるがそれはただのマヤカシにすぎない。
正社員は経営者でないにもかかわらず「契約」ということを前面に出せる - 「それは契約だから」とか「責任はそちらにある」とか(実際に契約内容の点検をするしないはこの際無視してよい)。
また中身はともかくとして情報の量が上から下にいくにつれてどんどん先細りになる。
このことは集団対集団、すなわち会社対会社であればなんとか都合はつくが、現状のように正社員個人対 - 契約社員、下請け個人となると非常に弊害が大きくなる。
「上意下達」というのは戦時中につくられた標語であって現在に生き返るようなシロモノではない。
そして下請け - 契約社員 - 正社員と階層があがるにしたがってこういうことを理解できにくくなる。
そのうえ「契約」というフィルターを通すことによって責任観念からも逃れられる - 拒否できる仕組みになっている。下のほうはたまらんが。
これは新しい「擬制化された身分」ではないのか。
以上のことをふまえて次にこの本から引用する文章をみてほしい。
身分は本来の意義としては、社会の運営に生きて作用する、共同体内分業の特定の職分と結びついた秩序であった。
したがって、その職分の遂行と身分的地位を占めていることとは、本来照応していた。
身分は一般に固定化傾向をもつ。したがって、狭くこうした固定化されたものだけを身分とみなす立場すら発生するほどである。
しかし、こうした身分にみられる固定化の一般的傾向には限度がある。
それは、身分が生きて作用するものとしてあり、それによって社会が活動してゆけるという構造になっているからである。
身分を固定化させるためには、競争を排除することが行われる。
そして職能への適否というような分析や地位を占めていることの可否についての批判を封ずることが必要となる。
批判を封じてゆくためには、そして論理をこえてただ認めさせるためには、批判の材料を与えないこと、実体をよく認識させないことが必要となる。
社会の運営に「生きて作用する」ということを評価できるのは「だれ」なのかは、以上からしておのずと明らかだろうと思える。
(著者 矢木明夫 発行 評論社 1969年刊)