奈良の文化財
薬師寺(やくしじ)
薬師寺は仏教の寺院で、奈良県奈良市にある法相宗大本山の薬師寺が著名だが、他に同名の寺院が日本各地に存在する。薬師如来を本尊とすることからこの名が付けられている。
薬師寺は、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山である。南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇である。1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。
歴史
『薬師寺縁起』(平安時代中期の長和4年・1015年成立)によれば、薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良皇后(うののさららこうごう)の病気平癒を祈願し、飛鳥の地に創建したものである。天武天皇は寺の完成を見ずに没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。持統天皇2年(688年)に薬師寺にて無遮大会(むしゃだいえ)という行事が行われたことが史料からわかり、この頃までには伽藍が整っていたものと思われる。また、この頃には官寺の指定を受けて朝廷の厚い保護を受けるようになった。
その後、和銅3年(710年)の平城京への遷都に際して、薬師寺は飛鳥から平城京の六条大路に面した現在地に移転した。移転の時期は『薬師寺縁起』によれば養老2年(718年)であった。『扶桑略記』天平2年(730年)3月29日に、「始薬師寺東塔立」とある。東塔(三重塔)が完成したのがその年のことで、その頃まで造営が続いていた。
なお、平城京への移転後も、飛鳥の薬師寺はしばらく存続していた。史料や発掘調査の結果からは平安時代中期、10世紀ころまでは存続していたようだが、後に廃寺となった。寺跡は大和三山の畝傍山と香久山の中間にあたる橿原市城殿(きどの)町に残り、「本薬師寺(もとやくしじ)跡」として特別史跡に指定されている。平城京の薬師寺にある東塔や本尊薬師三尊像が本薬師寺から移されたものか、平城京で新たにつくられたものかについては古来論争がある。2005年現在では、東塔は平城京での新築、本尊は本薬師寺からの移座とするのが、通説となっている。
平城京の薬師寺は天禄4年(973年)の火災と享禄元年(1528年)の筒井順興の兵火で多くの建物を失った。現在、奈良時代の建物は東塔を残すのみである。
20世紀半ばまでの薬師寺には、江戸時代末期再建の金堂、講堂がわびしく建ち、創建当時の華麗な伽藍をしのばせるものは焼け残った東塔だけであった。1960年代以降、名物管長として知られた高田好胤(たかだこういん)が中心となって写経勧進による白鳳伽藍復興事業が進められ、1976年に金堂が再建されたのをはじめ、西塔、中門、回廊、大講堂などが次々と再建された。
伽藍
当寺の伽藍配置は「薬師寺式伽藍配置」と称されるもので、中央に金堂を配し、金堂の手前東西に塔を、金堂の背後に講堂を、またそれらを取り囲むように回廊を配している。
南門(重文)
境内南正面にある小規模な門。室町時代の建築である。
中門
1984年の再建。両側に回廊が延びる。
金堂
1976年の再建。奈良時代仏教彫刻の最高傑作の1つとされる本尊薬師三尊像を安置する。
大講堂
2003年の再建。本尊の銅造三尊像(重文)は、中尊の像高約267cmの大作だが、制作時期、本来どこにあった像であるかなどについて謎の多い像である。かつては金堂本尊と同様、「薬師三尊」とされていたが、大講堂の再建後、寺では「弥勒三尊」と称している。
東塔(国宝)
寺内に残る唯一の奈良時代の建築。高さは33.6m。屋根が6か所にあり、一見すると六重の塔に見えるが、下から1番目、3番目、5番目の屋根は裳階(もこし)と呼ばれるもので、実際は三重塔である。複雑な屋根の構成にリズム感が感じられることから、「凍れる音楽」と形容される(なお「凍れる音楽」を美術史家アーネスト・フェノロサの言葉とする資料が多いが、誤りである)。飛鳥の本薬師寺から移築したという説と、平城京で新たに建てられたとする説があるが、天平2年(730年)、現在地に新築されたとする説が有力である。
西塔
東塔と対称的な位置に建つ。1981年の再建。
東院堂(国宝)
境内東側、回廊の外に建つ。元明天皇のために皇女の吉備内親王が養老年間(717−724年)に建立した東禅院が前身で、現在の建物は鎌倉時代・弘安8年(1285年)の建築。堂内の厨子に本尊・聖観音立像を安置する。
玄奘三蔵院
主要伽藍の北側にあり、1991年に建てられたもの。日本画家平山郁夫が30年をかけて制作した、縦2.2m、長さ49mの「大唐西域壁画」がある。
休岡八幡宮(重文)
南門を出て、公道を横切った向かい側の敷地にある。薬師寺の鎮守社で、現在の社殿は桃山時代の慶長元年(1596年)、豊臣秀頼の寄進によるもの。