奈良の文化財
古都奈良の文化財
自由研究のコーナー
元興寺 (がんごうじ)
 元興寺は奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院。蘇我馬子が飛鳥に建立した、日本最古の本格的仏教寺院である法興寺がその前身である。法興寺は平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となった(ただし、飛鳥の法興寺も元の場所に残り、今日の飛鳥寺となっている)。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退して、現在は次の2つの寺院に分かれている。
 @:奈良市中院町所在の元興寺。1977年までは「元興寺極楽坊」と称していた。
   西大寺の末寺で、宗派は真言律宗に属する。本尊は阿弥陀如来である。
 A:奈良市芝新屋町所在の元興寺。東大寺の末寺で、宗派は華厳宗に属する。本尊は十一面観音である。

歴史
 現在、「史跡元興寺」として指定されている地域は、@奈良市中院町の「元興寺極楽坊」、A同市芝新屋町の「元興寺(塔跡)」、B同市西新屋町の「元興寺小塔院跡」の3か所である。これらはいずれも、蘇我馬子が6世紀末、飛鳥に建立した日本最古の本格的寺院、法興寺(現在の飛鳥寺)の後身である。
 和銅3年(710年)の平城京遷都に伴って、飛鳥にあった薬師寺、厩坂寺(のちの興福寺)、大官大寺(のちの大安寺)などは新都へ移転した。法興寺は養老2年(718年)平城京へ移転したが、飛鳥の法興寺も廃止はされずに元の場所に残った。通常、飛鳥にある寺を「法興寺」、平城京の方の寺を「元興寺」と称している。「法興」も「元興」も、日本で最初に仏法が興隆した寺院であるとの意である。
 奈良時代の元興寺は三論宗と法相宗の道場として栄え、東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇っていた。寺域は南北4町(約440m)、東西2町(約220m)と南北に細長く、興福寺の南にある猿沢池の南方、今日「奈良町(ならまち)」と通称される地区の大部分が元は元興寺の境内であった。猿沢池南東側にある交番のあたりが旧境内の北東端、奈良市音声館(奈良市鳴川町)のあたりが旧境内の南西端にあたる。
 奈良においては東大寺、興福寺が勢力を増す一方で、元興寺は平安時代後半あたりから徐々に衰退していった。11世紀前半の「堂舎損色検録帳」という史料によると、金堂をはじめとする元興寺の伽藍は、この頃には荒れ果てて見る影もなかったという。元興寺には奈良時代の学僧・智光が描かせた阿弥陀浄土図(智光曼荼羅)があったが、平安末期の末法思想の流行や阿弥陀信仰の隆盛とともにこの曼荼羅が信仰を集めるようになった。曼荼羅を祀る堂は「極楽坊」と呼ばれて、次第に元興寺本体とは別の寺院として発展するようになった。これが現在、奈良市中院町にある元興寺、通称元興寺極楽坊である。現存する元興寺極楽坊の本堂と禅室は、奈良時代に智光をはじめとする僧たちが住んでいた僧房を鎌倉時代に改築したものである。
 室町時代の宝徳3年(1451年)、土一揆のあおりで元興寺は炎上し、五重塔などはかろうじて残ったが、金堂など主要堂宇や智光曼荼羅の原本は焼けてしまった。この頃を境に、寺は智光曼荼羅を祀る「極楽院」、五重塔を中心とする「元興寺観音堂」、それに「小塔院」の3つの寺院に分裂した。極楽院は奈良西大寺の末寺となって真言律宗寺院となり、中世以降は智光曼荼羅、弘法大師、聖徳太子などの民間信仰の寺院として栄えた。
 一方、極楽院の南にある「元興寺観音堂」の方は東大寺の末寺となり、五重塔を中心とする寺院であったが、室町時代の火災に焼け残った五重塔は、江戸時代末期の安政6年(1859年)についに焼失し、以後は「元興寺」の寺号は継ぐものの衰退している。
 極楽院は明治以降は荒れ果て、現在国宝に指定されている本堂も1950年ころまでは床は落ち、屋根は破れて「化け物が出る」と言われたほどの荒れ方であった。第二次世界大戦中の1943年に極楽院の住職となった辻村泰圓は戦災孤児のための社会福祉事業に尽力するかたわら、境内の整備や建物の修理を進めた。1962年には辻村により境内に財団法人元興寺仏教民俗資料研究所が設立され(1978年に元興寺文化財研究所と改称)、1965年には寺宝を収蔵展示する収蔵庫が完成するなど、徐々に整備が進んだ。元興寺仏教民俗資料研究所は、本堂解体修理中に屋根裏から発見された数万点の庶民信仰資料(板塔婆など)を研究することを当初の目的として設立された。極楽院は1955年に「元興寺極楽坊」と改称、さらに1977年に「元興寺」と改称されている。

伽藍
 奈良時代の元興寺伽藍は、南大門、中門、金堂(本尊は弥勒仏)、講堂、鐘堂、食堂(じきどう)が南北に一直線に並び、中門左右から伸びた回廊が金堂を囲み、講堂の左右に達していた。回廊の外側、東には五重塔を中心とする東塔院、西には小塔院があった(小塔院には、小型の塔が屋内に安置されていたものと思われる)。これらの建物はすべて焼失して現存しない。なお、講堂の背後左右には、数棟ずつの僧房(僧の居住する建物)があった。これは、東西に長い長屋のような建物で、このうち東側手前にあった僧房を鎌倉時代に改造したものが、現存する本堂と禅室である。

元興寺(奈良市中院町)
本堂(国宝)
寄棟造、瓦葺で、東を正面として建つ(東を正面とするのは阿弥陀堂建築の特色)。この建物は寄棟造の妻側(屋根の形が台形でなく三角形に見える側)を正面とする点、正面柱間を偶数の6間とし、中央に柱が来ている点が珍しい(仏教の堂塔は正面柱間を3間、5間などの奇数とし、正面中央に柱が来ないようにするのが普通)。内部は板敷きの内陣の周囲を畳敷きの外陣がぐるりと囲んでおり、内陣の周囲を念仏を唱えながら歩き回る「行道」に適した構造になっている。鎌倉時代の寛元2年(1244年)、旧僧房の東端部分を改造したもので、内陣周囲の太い角柱や天井板材には奈良時代の部材が再用されている。また、屋根瓦の一部にも飛鳥〜奈良時代の古瓦が使用されている。ここに使われている古瓦は上部が細くすぼまり、下部が幅広い独特の形をしており、この瓦を重ねる葺き方を行基葺(ぎょうきぶき)という。

禅室(国宝)
切妻造、瓦葺。本堂の西に軒を接して建つ。元は現・本堂も含んで東西に長いひと続きの僧房であったものを鎌倉時代に改築したものである。正面の4箇所に板扉があることからわかるように、現存部分は4区画分で、1区画には5〜8人の僧が生活していたという。本堂と同様、部材や屋根瓦の一部には奈良時代のものが残っている。なお、2000年の元興寺文化財研究所の発表によれば、禅室の部材を年輪年代測定法で調査したところ、西暦582年伐採の樹木が使用されているとのことで、事実とすれば、本建物の一部には法隆寺西院伽藍よりも古い材木が使用されていることになる。

東門(重文)
東大寺の門を移築したもの。室町時代。

元興寺(奈良市芝新屋町)
五重塔跡のかたわらに1935年頃再建された小堂が建つのみで、古い建物は残っていない。