以仁王(もちひとおう)
以仁王(もちひとおう、仁平元年(1151年)−治承4年5月26日(1180年6月20日))
以仁王は平安時代末期の皇族。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮あるいは高倉宮とも称された。後白河天皇の第三皇子だが、『平家物語』では兄の守覚法親王(しゅかくほっしんのう)が仏門に入ったため第二皇子とされている。同母妹に歌人として名高い式子内親王がいる。母親(加賀大納言季成のむすめ成子)の位が低かったため(あるいは平家一門に遠慮して)、成人しても親王宣下が得られなかったという。後に八条院の猶子となった。また、高倉天皇生母で平清盛の妻時子の妹滋子と不仲で、父後白河とも疎遠であったといわれている。
幼少のころから才能に優れ、学問や詩歌、とくに書や笛に秀でていた。
治承4年(1180年)4月、源頼政と共謀して平家追討の「令旨(りょうじ)」(と称する命令書)を全国に雌伏する源氏に発し、平家打倒の挙兵、武装蜂起をうながした。しかし、ただちに平家に露見し、奈良に逃れようとする途中で討ち取られた。
以仁王自身の平氏追討計画は失敗に終わったが、彼の令旨を受けて各国の源氏が挙兵し、平氏滅亡の糸口となった。
なお、以仁王自身はこの戦いで殺害されたが、皇族殺害の汚名をおそれた平清盛の計略により、死後強制的に源姓を賜与されて名も「源以光」とされた(だがこれが「親王生存説」になって広まり、却って令旨の有効性の根拠とされたと言う)。
以仁王の乱
治承4年(1180年)4月、源頼政と謀り、「最勝親王」と称し諸国の源氏に平家追討の令旨(身分を冒してこう称した。実際は、皇太子どころか親王ですらなく、王に過ぎない以仁の奉書形式の命令書は、御教書と呼ばねばならない筈である)を下す。使者は熊野に隠れ住んでいた源行家(平治の乱で戦死した源義朝の弟)だった。
この令旨が田辺にいた熊野別当湛増の耳に入り、計画が露見。父・後白河法皇は以仁王を土佐に配流してことをおさめようとするが、平氏は三条高倉邸に兵をさしむけようとした。しかしこの追っ手に頼政の次男兼綱が入っていたことから考えるに、平氏は謀叛の企みはまったく察知できなかったようである。
兼綱にこのことを知らされた頼政は以仁王とともに園城寺(三井寺)に逃れ、延暦寺と興福寺に援助を求めた。しかし延暦寺には拒絶されたため奈良の興福寺に向かうことにした。ところが平等院についたところで平知盛(清盛の4男)らに追撃され、宇治川を挟んでの合戦の末頼政は討死。以仁王はかろうじて逃げ延びるも、光明山鳥居の前で矢が当たって落馬し討ち取られた。享年30だった。
以仁王に味方した園城寺は平重衡らの兵によって焼き討ちに遭った。
『平家物語』によれば謀反の動機は頼政の嫡男仲綱の愛馬・木の下(このした)をめぐる平宗盛(清盛の3男)との軋轢とされる。しかし当時頼政は77歳という高齢だったこと、以仁王は六条天皇の次の天皇として憲仁親王(後の高倉天皇)の有力なライバルだったことを考えると、以仁王が頼政に計画をもちかけた可能性も高い。また、後白河法皇の幽閉や摂政松殿基房の流罪などの清盛による強圧的な政策に対する反感の広まりの反映であるとの説や養母で朝廷内に大きな影響力のあった八条院も関与していた(令旨に応じた武士団の中に八条院の所領を預かるものも多数含まれていた。また乱後に以仁王の子女を匿っていた)とする見方もある。
その後、八条院の意向を受けた平頼盛の説得によって以仁王の子供達は出家させる事を条件に命を助けられた。その後、そのうちの一人が北陸地方に逃れて木曾義仲に助けられる。義仲はその皇子を「北陸宮」と名付けて、上洛時にこれを押し立てて平家とともに西走した安徳天皇に代わって皇位に就けようと画策するが、かつて以仁王が勝手に親王を称して令旨を発行したことを不快に思っていた後白河法皇によって退けられたと言う。
参考文献:日本の歴史、日本史…など