源頼政(みなもとのよりまさ)
参考文献:日本の歴史
源頼政は、平安時代末期の摂津源氏の武将、歌人。源仲政の長男。それまで正四位下を極位としていた源氏としては突出した従三位に叙せられたことなどから、源三位頼政といわれることが多い。また、父と同じく馬場を号とし馬場頼政(ばばのよりまさ)ともいう。
生涯
摂津源氏の中において、本拠地の多田を基盤とする多田源氏系に対して、摂津国渡辺を基盤とし、当地の滝口武者の一族である嵯峨源氏の渡辺氏を郎党にして大内守護(皇室警護の近衛兵、親衛隊のようなもの)の任に就き、摂津源氏の嫡流。
1156年(保元元)の保元の乱では後白河天皇に属し、1159年の平治の乱では河内源氏の源義朝と共に参陣するが、源氏嫡流の摂津源氏の嫡統として独自行動をとり、大内守護として天皇を奉じる平清盛陣営に参加する。この功績で1178年(治承2年)には従三位にすすむ。別名の源三位頼政の由来はこれにある。
ただし、実は清盛は頼政の階位について完全に失念しており、そのため長らく正四位であった頼政が、
「のぼるべきたよりなき身は木の下に 椎(四位)をひろひて世をわたるかな」
という和歌を詠んだところ、清盛は初めて頼政が正四位に留まっていたことを知り、従三位に昇進させたという。実に頼政74歳にしての昇進であった。
平治の乱で源義朝は敗れ、河内源氏は四散し全国に雌伏するが、その中において摂津源氏の頼政は、唯一、源氏として存在し、源氏の長老として、河内源氏の遺児たちを養子に迎え、源氏の血脈を守る。1180年に後白河法皇皇子の以仁王の令旨に従い、伊勢平氏の平清盛一族打倒の最初の挙兵を嫡子で前伊豆守の源仲綱や源宗綱らと共に行い宇治にて討ち死。
末子の源広綱や、仲綱の子の源有綱は知行国の伊豆国にいたため生き残り、伊豆で挙兵した河内源氏の源頼朝の幕下に参加する。