欽明天皇陵
参考資料:季刊考古学・別冊  『見瀬丸山古墳と天皇陵』 猪熊兼勝他 雄山閣 1992年
     
書陵部紀要 第45号 『畝傍陵墓参考地石室現況調査報告』 宮内庁書陵部 1994年
     
古代を考える 57  『見瀬丸山古墳の検討』 古代を考える会 1996年
飛鳥巡検
欽明天皇陵
  陵 名 :檜隈坂合陵(ひのくまさかあいのみささぎ)、平田梅山古墳
  墳 形 :前方後円墳。主軸長さ138m、後円部径72.7m、前方部幅107.2m 、後円部高さ11.5m。
      周濠があるが、これは文久年間に行なわれた修復時に造られたもの。
 築造時期:古墳時代後期
 被 葬 者:欽明天皇
  所 在 :奈良県高市郡明日香村大字平田字梅山(むめやま)
 現在の墳丘は全長が140mで、後円部の径が73m、前方部の幅が107mの前方後円墳で、墳丘を取り巻く周壕の北・東・南の三方には丘陵が迫っている。現在の地形から推定して二重壕、外堤を巡らしていたものと考えられるが、この形は幕末の文久年間に行なわれた修陵事業によって捏造されたものであるという。それまでは双円墳だったらしい。西側の丘に登ると、西向きの陵墓を上から見下ろすことができる。

 
欽明天皇は、継体天皇の第三皇子で、安閑(あんかん)・宣化(せんか)天皇の異母弟にあたる。即位年に関して531年と539年の2説があり、未だに確定していない。記紀の記述に矛盾があるためで、539年までは対立していた異母兄弟の安閑、宣化天皇が並立していたとする見解もある。571年、63歳で崩御し檜隈坂に葬られた。治世中に百済から聖明王から仏教が伝えられたのは有名。対朝鮮政策では任那の権益を守るため百済の聖明王を支援したが、聖明王が新羅軍に破れて任那が滅亡した。以降、任那の復興が歴代天皇の課題となっていった。

 檜隈坂合陵は、江戸時代から一貫して欽明天皇陵にあてられてきた。しかし、平成3年(1991)12月、民間人が撮影した見瀬丸山古墳の石室の写真がテレビで放映され、また翌年には宮内庁による石室の現況調査が実施されて、石室構造や家形石棺の形態などが公開されて以来、風向きが変わってきた。多くの考古学者が、真の欽明天皇陵は見瀬丸山古墳であると見なすようになってきている。

 『日本書紀』は、”推古20年(612)2月に「皇太夫人堅塩媛(きたしひめ)を檜隈大陵に改葬し、軽の街に誅る”とある。堅塩媛とは推古天皇の生母であり、理由は分からないが、この月に檜隈大陵に改葬して、軽(かる)の巷で誅を奏上したというのである。軽の巷は、現在の丸山古墳の北に接する地域に位置している。さらに、推古天皇28年(620)10月には、”砂礫をもって檜隈陵の上に葺く。すなわち域外に土を積みて山を成す。氏毎に科して大柱を土の山の上に建てしむ”とある。

 見瀬丸山古墳には、石棺が2基納められていた。玄室奥壁に沿って東西に安置された石棺は、7世紀前半の艸墓(くさはか)古墳の石棺に共通する特徴があり、玄門近く東側の壁に沿って南北に安置された石棺は、藤ノ木古墳の石棺に似ており、6世紀第3四半期のものと考えられるという。本来は、最初に納められた石棺が奥に位置し、後に追加した石棺は入口近くにあるのが普通である。この位置の逆転は、改葬のとき生じたものと見なされている。しかし、丸山古墳にとって致命的なのは、推古天皇28年に陵を飾り立てた砂礫(葺石)が、前方部でも後円部でも調査した箇所では一切見つかっていない。また墳丘の西北には、周堤が築かれた形跡がない。この点、檜隈坂合陵は墳丘に葺石が敷かれており、また墳丘を巡る掘り割りが十数メートルにわたって彫り込まれており、域外に土を積みて山を成したとする状況に合う。このため、欽明天皇の陵墓のままでよいとする考古学者もいる。