鉄供給と大名の関与
刃物班
関の鉄供給
 関が刀鍛冶にとって住みやすい町だったという理由だけでは、刀鍛冶の町「関」の成立原因としては、いささか重みに欠けると感じる。そこで、大切になってくるのが、鉄供給だった。美濃にも鉄は産出される。その代表が、赤坂千手院鍛冶の住家である赤坂(現・大垣市)にある金生山である。古代よりこの山から赤鉄鉱が産出され、遺跡からも古代の刀剣などが発見されている。その埋蔵量は、数万トン(当時)といわれている。
 現在、金生山の赤鉄鉱を使用する刀匠はいない。その理由は、現代刀の材料は玉鋼という刀用の鉄であることと金生山の赤鉄鉱が刀には向いていないからである。また、室町時代以降の刀需要に耐えるほどの産出量ではなかった。つまり、鉄の生産地が外部にあると考えられる。では、関を日本一の刀鍛冶の町にするほどの鉄産地はどこだったのか。当時、巨大な産出量を誇っていたのは、中国や山陰地方である。この地方の鉄は、良質であり産出量も多い。その証拠として十二世紀まで鉄を年貢として収めていた荘園は全て中国地方の荘園のみであった。また、備前が中国地方の鉄を背景に関と並ぶ刀生産地だったことが、巨大な鉄産地だったことがわかる。このことから当時、関の刀鍛冶を支えた鉄産地は、山陰地方であると考える。


近江の位置と近江商人
 近江は、鉄の道や東海道・中山道など東西の交わる場所に位置する。東西を行きか流通は、必ずと言っていいほど、近江を通ることになる。当時の近江は、北陸・山陰・東国・近畿の物資が集散する場所であり、そのことが商業の中核をなす近江商人を育んだ。近江商人たちは、全国を股に掛ける商人であり、当時日本の物資流通の主力であった。近江商人たちは、美濃で作られた美濃紙の独占購入権を持っていた。美濃紙職人は近江商人たちの手によって、収入を得ていたといってよい。
 美濃紙と同じように関・美濃の主要産業であった刀産業もまた近江と強い関連を持っていたと考えられる。美濃紙と違って、刀は武器でありその原料である鉄は、大名など権力の介入があったと考えられる。関に刀鍛冶がやってきたと考えられる室町時代初期の近江守護は、佐々木氏一族であった。この佐々木氏こそ、美濃(関)への鉄供給の鍵を握っていると考えられる。
 1359年の文献で、当時の佐々木氏が息子に関の南に接する「鋳物屋(いもじや)・倉知(くらち)・小屋名(おやな)」と呼ばれる知を譲ったと書かれている。これらの地は総称して関三郷と呼ばれている。このことから佐々木氏の関三郷への進出は、室町時代初期と考えられる。また、これ以外にも佐々木氏の美濃領地は多くあった。その一部は長良川支流など河川の要所であった。とくに吉田と大路は、牧田川と揖斐川の合流する付近であり、近江と美濃を結ぶ流通路であった。吉田と大路は、直江志津鍛冶の拠点「直江」と鋳物の産地である「金屋」を南北より挟んでいた。また、大矢田は、美濃紙の生産地であった。このことが、近江商人の美濃紙独占につながったと考える。


佐々木氏〜美濃進出の動機
 佐々木氏は鎌倉時代より続く血族であり、南北朝時代には幕府の戦略に関与していた。佐々木氏は戦略から美濃が戦略上重要な地だと知っていたと考えられる。その事実を知っていれば、己の領地としようとするのではないだろうか。なぜなら、物流の要である近江の守護となった佐々木氏が美濃の水系という流通路とその商品を欲するのはおかしくないはずである。だからこそ、 長良川水系や牧田、揖斐川の合流地点を押さえたのではないかと考えられる。
このことから、佐々木氏は、刀の産地である美濃や関、流通の要である近江を手に入れたといえる。佐々木氏は刀産業そのものを手に入れようとしたのではないかとも考えられる。しかし、佐々木氏の本拠地である近江には巨大な鉄産地がなかった。では、生産・流通を手に入れたとしても、鉄の供給をどうやって手に入れたのだろうか。
 古代近江では鉄が生産されていた。しかし、遺跡を調査した結果、その痕跡は平安時代初期には消滅したことが分かっている。なぜ、京都の都に近い近江で鉄生産が行われなくなったのだろうか。その原因が、山陰地方で産出する質、量ともに高水準な鉄と流通システムが確立したからと考えられる。佐々木氏が山陰地方に関与したのは鎌倉時代からである。鎌倉時代に山陰地方のうち出雲、隠岐の守護は佐々木氏一族であった。とくに出雲では佐々木氏一族の土着化が進み、鎌倉時代後期には出雲の主要地である北半分が支配下にあった。
 隠岐は商人たちの船団など、日本海を行き交う船が立ち寄る場所だった。つまり、日本海の流通の一端であった。佐々木氏は、この出雲や隠岐を鎌倉時代末期まで持っていた。
 このことから佐々木氏が鉄の供給源である山陰地方を持っていたことと日本海流通の一端を掌握していたこといえる。また、々木氏は、鎌倉時代に石見、長門、淡路、備前、土佐、伊予、越後などの守護もしていた。このうち出雲、隠岐と同じく鎌倉時代末期まで掌握していた中に備前がある。その後の室町時代備前の中心地を支配していた黒田氏も佐々木氏の出であったとされている。佐々木氏は鎌倉時代に、すでに刀の生産地をも持っていたのである。


佐々木氏の刀産業の掌握
 室町時代初期の1338年、近江守護に佐々木道誉がなった。道誉はしたたかな性格であり野心を持っていたといわれている。当時は南北朝の動乱により武器需要が高かった。そこに大和鍛冶を基礎とする美濃鍛冶が近江の近くにいた。一族の黒田氏がいる備前より実用的な美濃の刀を したたかな道誉が見逃すはずが無かったと考えられる。
 鉄の産地である山陰地方、流通の拠点である隠岐と近江、さらに近江商人という輸送の充実がすでに確立されていた時代である。そこに実戦向けの刀があればよい、と道誉は考えたのではないか。そのことが、佐々木氏の美濃進出を推進したとは考えられる。
美濃刀を造らせるため、道誉は山陰の鉄を美濃に運んだということである。この道誉の野心が、美濃に刀鍛冶を呼び込んだ一因と考えられる。
 さらに、琵琶湖を通れば畿内へも行ける。また琵琶湖の朝妻湊は、佐々木氏の勢力圏内である近江内であり、柏原にいたっては佐々木道誉の本貫地であった。ここを通る限り、佐々木氏の思うように鉄を運べたのである。


佐々木氏〜もうひとつの美濃進出動機
 1359年に佐々木道誉が飛騨の守護となった。その理由は南北朝対立であった。飛騨の北部を南朝側が、南部を佐々木道誉(北朝)が守護となった。ここで、前述した関が飛騨への出入口に位置するということに繋がる。佐々木道誉が手に入れた飛騨南部は森林資源が多い御嶽山が含まれていた。ここから運び出された材木は関を通り、美濃へ入り、近江を通過して、消費地へと運ばれる。飛騨の材木を他の大名の下を通過させるならば、自分が守護する土地を通らせた方が安全である。そう、佐々木道誉は考えたはずである。飛騨からの木材を安全に運ぶには、美濃を手に入れる必要があったのだ。ここに刀産業の掌握とともに、佐々木氏の美濃進出の動機が覗える。


まとめ
 良質な鉄の供給は、刀鍛冶にとって重要なことだった。刀は武器であり、大名など政治権力には必要なものだった。鎌倉幕府の滅亡に南北朝動乱という刀需要の増加の時に、鉄供給には政治権力の関与があったと考えられる。
 山陰という鉄の産地、隠岐・近江という流通の要所、近江商人という流通を持っていた佐々木氏にとって美濃鍛冶を持つ美濃は魅力的な土地であった。佐々木氏は美濃に進出し、一族が持つ鉄の供給と流通を使い、質のいい刀を生産させた。また、佐々木道誉は飛騨南部の守護も兼ね、飛騨の材木が通過する関は重要な土地であった。このことが、佐々木氏一族の美濃への進出を促進させた。
 つまり、佐々木氏の思惑が、美濃(関)への鉄供給を生み出した。この権力の入り込んだ安定した鉄供給と政治権力(佐々木氏)の美濃進出が、刀鍛冶を関(美濃)へと引き付けたといえる。
 関が刀鍛冶を引き付けた理由は、@大工の町「関」が刀鍛冶にとって、安定した収入を得やすい町だったこと、A良質な鉄供給に政治権力(佐々木氏)の関与と思惑があったことが挙げられるといえる。佐々木氏によって美濃への鉄供給が生みだされたのは、大和鍛冶を基礎とした美濃鍛冶たちが生み出す美濃刀が、戦場で有利であったからである。しかし、鉄供給自体は美濃に向かっていたものである。事実、佐々木氏が刀生産地として得ようとしたのは、直江志津鍛冶だったことが佐々木氏の美濃進出先からうかがえる。その要素が美濃鍛冶たちを関へと導いた。さらに、佐々木道誉の飛騨守護就任によって、佐々木氏の関への関心が向く。