経済活動のできる条件を持つ町「関」
交通の要所「関」
「関」という場所は古くより交通の要所であった。その理由は「関」という町の名前にある。「関」という名前の由来は「関所」である。関の統治者は、鎌倉時代は朝廷や幕府だったと言われている。それは関が交通の要衝に立地していたからであると考えられる。
実際、「関」は飛騨から近江・尾張へと抜ける道の要であった。古くより飛騨は材木を産出していた。この材木は、現在と同じように建築用として使われていた。その材木を産出する飛騨の山々からの出入口に「関」という町は位置していた。木材は長良川を使って運ばれ、切り出した材木をいかだ状に組んで川を下りながら運ばれた。
当時の物流に使われ交通路は、水路と陸路である。飛騨の山々から伸びる木曽川と飛騨川は、何箇所か難所と呼ばれる水難事故多発地帯があった。飛騨の主力物資である材木は、筏となって川を下ることができたが、それ以外は難所を避け陸路を使用した。陸路の順序は簡単である。飛騨からの美濃国内までは飛騨川が使用される。美濃国内からは難所があるため、陸路が利用される。その陸路の先、山々の出入口に関は存在する。関からは、長良川か陸路によって運ばれる。
山は、鉱物といった地下資源・森林資源・燃料資源など多くの資源を内包している。特に飛騨の御獄山は、森林資源が豊富であり、川が深く入り込んでいるため輸送がやりやすかった。
経済活動できる条件
関に材木が流れることが、どう経済活動につながるのだろうか。当時、材木の主な使用目的は、建築材であった。そういった建築材が流れ込む場所には、建築に関する産業がおこるはずである。つまり「関」はその条件を持っているのである。関には大工やそれに関連する人々がいたと考えられる。その証拠は、岐阜県下呂市にある久津八幡神社に見られる。この神社は古くからこの地に建っている。この神社は1412年に本殿が再建されている。その時の棟札に「関より大工を呼び、修繕した」といった内容が書かれている。その他にも22件ある神社や寺院の棟札のうち6件が「関」から大工を呼んだと書かれている。この時代、各地に大工が存在した。しかし、わざわざ「関」から大工を呼び寄せたのである。そのことから当時、「関」には技術の高い大工が住んでいたと考えられる。さらにそれに関連する職業や弟子など、多くの建築関係者が住んでいたはずである。つまり「関」は「大工の町」だったと考えられる。
関が大工の町になった要因
鎌倉時代初期に新長谷寺が関に建設された。その建設は国家的事業で、多くの大工やその関係者が関に集まった。一部の大工たちは完成後、関に定住したと考えられる。そして、大工の町「関」としての基礎が出来上がったのである。
大工と鍛冶の関係
中世、鍛冶と大工は密接な関係にあった。当時、建築工といえば、大工、鍛冶、細工師などが含まれる。なぜ建築工に鍛冶が含まれているかというと、建築物に釘や鎹(かすがい)など木材の接続に鉄製品が使われたためである。こういった釘や鎹を造る人たちのことを総称して釘鍛冶という。そのため大工と鍛冶は同じ土地に住んでいた。このことから、大工と鍛冶は密接な関係だったのである。
刀鍛冶=釘鍛冶?
これについては、文献等が存在しないため、詳細は一切不明である。だが、関に少し興味深い資料がある。関市の下有知で重竹遺跡が発掘された。重竹遺跡は14世紀〜17世紀の刀鍛冶屋敷遺跡とされている。この屋敷が無くなった理由は、洪水によるものと考えられている。この遺跡の特徴は、@刀剣を研ぐ研石や刀剣が出土しなかった、A釘が大量に出土した、B鎌などの日用刃物が出土した、という点である。
@という事実があるのになぜ刀鍛冶屋敷かというと、刀に使う研石や刀剣は高価なためである。そして、釘という建築道具を生産していたという事実が確認された点である。
この結果より、関在住の刀鍛冶は建築用鉄製品を作る釘鍛冶であったと考えられる。また、関鍛冶は日用刃物の生産も行っていたと考えられる。つまり、刀鍛冶=釘鍛冶だったのである。これは関鍛冶にいえることであり、全国がどうかは不明である。
では、関鍛冶が釘・日用刃物を生産していたということを事実とすると、なぜ関鍛冶は釘や日 用刃物を生産していたのだろうか。もしくはなぜ刀鍛冶=釘鍛冶だったのか。
現代と違い、この当時、刀鍛冶は多くいた。また、刀があることが当たり前だったため、安価だったことが考えられる。よって、刀以外に生活を安定させるものを生産する必要があった。それが、確実な需要がある釘や鎹などの建築部品、鎌やカミソリといった日用刃物の製造である。そのことを証明するように室町期の公家や僧の日記に関鍛冶にカミソリやハサミを作らせたという記述がある。これより、関鍛冶は刀以外に鉄製品を製造するという多角経営を行っていたといえる。
関=刀鍛冶町の成立
安定した収入がある関に刀鍛冶が集まり、刀を生産する。その後、南北朝時代の動乱と応仁の乱により刀需要が高まると、釘鍛冶たちも収入源として刀を生産するようになる。そうやって、関=刀鍛冶が成立したのではないだろうか。さらに戦国時代以降、大名たちの城下町の建設ラッシュが起こる。これが建築業を栄えさせ、建築部品の需要が高まった。こういった背景が追い風となって、大工の町としての顔を持つ関に、さらに多くの鍛冶が集まる形になったものと考えられる。この流れが大量需要に応え大量生産する町を作り出し、関を全国一の鍛冶町へと育てたと考えられる。近世になり、刀の需要が減っても建築部品の製造や日用刃物の生産により、関は刃物の町として栄えた。
まとめ
「関」は刀鍛冶が生活する上で大切な安定した収入元があった。その収入源が建築部品や日用刃物であった。そのことが関に鍛冶たちを引き付け、関を鍛冶の町へとした。
つまり、関が刀鍛冶の生活を安定させる経済活動ができる条件を持っていた。その条件を築いた大工の町「関」が刀鍛冶を引き付け、繁栄に力となったといえる。