刀鍛冶を引き付けた都市「関」
まず、何もない場所に刀鍛冶はやってこない。その土地に刀鍛冶を引き付ける「魅力」が存在したからこそ、刀鍛冶(刀祖)が「関」にやってきたはずである。その「関」に存在した「魅力」とはなんだったのか。
多くの諸説
関で刀鍛冶が発生し発展した理由として、美濃焼などにも使われるほど良質な土があり、刀を造る上で欠かせない焼刃土に向いていたこと、松炭の材料が大量に手に入ったことで、鉄を加工しやすい環境があったことが挙げられる。また、交通の便の良さというものがある。しかし、交通の要衝や流通路が確保されていても、関鍛冶の発展としては決定力に欠いている。したがって、これら以外の理由が考えられる。
現在、私自身が目をつけている点は、関という町が防備に向いている点と、流通路が防備として機能していると考えられる点である。関より奥は深い山で、関より下流側は洪水が絶えない濃尾平野である。もし、関に進軍する場合は、山側ではなく平野側から進入することになる。軍隊は必ず金華山(岐阜城)を通らざるを得ないので、それなりの消耗を覚悟で戦いを挑むことになる。仮に山城である岐阜城を攻略できたとしても、瀬と淵が連続する長良川を遡るか細い枝道を進むか、街道を行くかである。どれを選択しても、隊列は長くなるので、守る側としては奇襲作戦などを取れるために有利に働く。北アルプスや両白山地を回りこんでの奇襲は、近江商人が許さないと考えられる。近江を含む琵琶湖と日本海の物流ルートは近江商人に限らず大阪や堺、京都といった都市には欠かせないルートである。むしろ生命線といっても過言ではない。そうした大事な物流の流れを断ち切るような軍隊の進入をやすやすと許すとは考えにくい。また、この付近一帯を治める権力者は、商人の見方をしているほうがずっと有利である。一時的といえども、軍の通過を認めるとは考えにくい。
こうした理由から、関は外敵の侵入を許さない理想的な立地を得たものと考えられる。
美濃鍛冶たちの「関」移住
新関鍛冶の世代は美濃鍛冶たちの関への移住によって築かれた。これは、美濃の守護大名であった土岐氏と守護代であった斎藤氏の政策によるものだったと考えられる。
経済活動としての刃物生産
室町初期の公家の日記には関のカミソリが記述されており、当時には関の日用刃物が全国的に広まっていた。このことから、関では刀と共に日用刃物が産業として経済活動の一環になっていたと推測される。
ここで、「関」が全国的な経済活動になる刃物生産をできる理由と条件が考えられる。その理由と条件に刀鍛冶を引き付ける「関」の「魅力」があるはずである。
鉄の供給
関の刃物が全国的な経済活動になったとしても、刃物需要に耐えうる鉄材供給があり、背後には鉄の一大産地が存在していると考えられる。
「備前」が刀の全国的生産地になった理由は、その背後にある中国地方の豊富で良質な鉄にあった。この鉄は、産出後、即座に備前に送られ、刀が生産された。
関にもこのような条件が当てはまったものと考えられる。関がある美濃は、古代より金生山の赤鉄鉱があった。しかし、中国地方のように産業になり得るほどの産地ではなかった。また、刀の材料には向かない、と言われている。金生山の鉄は刀鍛冶発生の条件にはなるが、「関」を全国的な刃物生産地にするほどの条件ではない。当時、全国的な鉄の産地は中国・山陰地方であった。その鉄さえあれば、「関」は全国的生産地になれるのである。そこで、重要になるのが物流としての交通路である。この時代、美濃に近く全国的な交通の要所は近江であった。近江は東西日本からの物資が確実に通過する場所であった。また、刀は武器であり、その生産や材料産出には、何らかの形で権力者の関与があったはずである。そもそも鉄は当時、金銀と並んで重要な製品であった。したがって、そう簡単には国を超えて販売されない場合が多かった。これは産出量が少ないことに起因している。当時、鉄の一大産地は中国地方、特に出雲であった。出雲で製造された鉄(玉鋼)は、日本海ルートで運ばれ、琵琶湖を通って近江に運ばれる。そして、近江から陸路で関へと鉄が運ばれたものと推測される。
関で刀鍛冶が興った背景