関鍛冶の始祖
関鍛冶の始祖
刀祖(関鍛冶の基礎になった人)は元重・金重とされている。しかし、関鍛冶の刀祖は、はっきりとわかっていない。なぜなら、関鍛冶の系譜などが関鍛冶が成立した室町時代以降に追記されたり、江戸時代の写本などであるからである。また、刀祖が製作した刀が存在しないためである。そのため、多くの研究者が議論を交わしている。しかし、どの意見にも確実な物証はない。
元重について
基重は関鍛冶の刀祖とされている人物である。その証拠としては、江戸時代などの書かれた古剣書や関鍛冶系図にその名前が刻まれているからである。しかし、刀祖元重としての名が刻まれた刀が存在しないことや証拠が江戸時代のもののため、存在自体が疑問視されている。
同時代、備前など各地に元重の名を持つ人物が複数いたので、その人物の誰かが、刀祖「元重」という説もあるが、確実な確証は今の所ない。
元重の出身については、多く意見があるが「九州」とされる説が有力である。それは、多くの古剣書に九州の地名が記載されているからである。一方で、「伯州ヒバラ」(山陰)が出身という説もある。これは、関刀の原料となる玉鋼の生産地が山陰地方であることに由来していると考えられる。
いずれにしても、基重という人物については、確証の得られない点が多い。
金重について
金重は元重と違って、名を刻んだ刀が実在する。そのため、金重を刀祖とする説もある。金重の出身地は「大和」と考えられている。その理由は、過去の文献に記載されていることと、関鍛冶(美濃伝)の多くが大和鍛冶を基礎としているからである。
問題点
そもそも刀祖が誰にしても、「なぜ関にやってきたのか」という疑問がある。また、「なぜ多くの刀鍛冶を引き付けのか」という疑問もある。刀祖の究明よりもこういった問題について研究を深めていく方がいいと考えられる。
左・右
刀を造っている風景