概要
関という町は、室町時代より続く巨大な日本刀の生産地であり、その生産能力は、日本一と謳われるほどであった。最盛期には、数百という刀鍛冶が関に住んでいた。現代でも関は日本で唯一といえる刀鍛冶の伝統が続いている町である。個人で刀鍛冶をしている鍛冶師は全国的に見られるが、組織としての刀鍛冶は、今では関だけになっている。関の刀鍛冶は「関の孫六」に代表される多くの刀鍛冶が、伝統を750年間脈々と受け継いできたのだ。
関刀の歴史
関刀は最も美しく、最も洗練された日本刀である。関刀の製作に必要な材質は「鉄(玉鋼)」・「水」・「松炭」・「焼刃土」である。「水」は熱した鉄を冷やすためであり、「松炭」は鉄を熱するために火を出すためにある。「焼刃土」は刀の刃に刃紋を出すために使う。この四つが揃って初めて刀が造られるのである。
関刀は刀鍛冶のみで製作されるわけではなく、完成までに数多の職人の手を渡る。
まず、刀の主要な部分である刃(本体)は鍛冶師が制作する。次に白銀師が「はばき」を作る。その後、刀は鞘を作る鞘師の手に渡る。柄巻師が柄を作る。そして、最後に研師が、刃を研ぐ。そうして関刀は造られるのである。
現在、関刀は美術刀として造られている。また、一部は居合刀として造られている。そのため、実践向きではなく細工や彫刻を施したものが多い。
武器として需要があった昔は、刀としての条件は、折れない・曲がらない・切れるといった要素が重要であった。関刀は美濃伝(もしくは美濃・関伝という)と言われ、この刀に必要な条件を全てを満たしている。さらに「折れない・曲がらない・よく切れる」という実戦用の必須条件をその特徴している。
刀には五カ伝という最も栄え支持された流派がある。年代順に「大和」・「山城」・「備前」・「相模(相州)」・「美濃(関)」である。中でも「備前」「美濃(関)」は刀の全国的生産地であった。「美濃・関伝」が確立されたのは、五カ伝の中で最も新しく、室町時代初期とされている。その技術は、古くからカミソリなど日用品に応用されていた。
初期の関鍛冶は、@直江志津鍛冶(養老町直江と海津市南濃町志津)、A赤坂千手院鍛冶(大垣市)B西群鍛冶(揖斐川町と大野町)、C関鍛冶(関市)の四つに分かれていた。その後、関に集結した。また、関鍛冶はその時期によって、古関鍛冶・新関鍛冶・末関鍛冶に分けられる。
「関」町の成立
1207年に関で政事が始まるという記述があり、1222年に新長谷寺(関市内)が創建された。このことより、「関」町は鎌倉時代の初期には成立していた。また、関には町をまもる自警団のような自治組織もこの時代に確立された。
刀鍛冶の町「関」の成立
鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて関鍛冶の刀祖「元重」、「金重」が関にやってきた。それまでに、西郡鍛冶や大和鍛冶に基を成す直江志津鍛冶や赤坂千手院鍛冶などの美濃刀鍛冶がいた。それらの鍛冶も次第に関に集まっていく。室町時代になる直江志津鍛冶が関に移住し、南北朝期に赤坂千手院鍛冶が需要を関に奪われ、一部が関に移住している。西郡鍛冶も関に移住した。その後、大和鍛冶の兼光が一門を率いて、関に移り住んだ。これにより、関鍛冶の主な流派の大元が築かれた。
「関」の発展
刀鍛冶の町「関」が成立すると、南北朝動乱、1467年の応仁の乱などにより、武器の需要が高まる。実戦向きの関刀は多くの武士から支持されるとともに、大量生産によってその需要に応えた。関鍛冶は応仁の乱以降の動乱の時代と共に最盛期を迎えた。
関鍛冶の衰退
織田信長、豊臣秀吉による天下統一が進むとともに関鍛冶は各地の大名に召抱えられるようになった。それにより関鍛冶は各地に分散したが、地方に移り住んだ関鍛冶は各地の刃物産業の発展に貢献することとなった。最大の転換点は豊臣秀吉の刀狩令、徳川家康以後の徳川政権による安定した平和な時代の訪れである。これにより、関刀の需要は少なくなった。しかし、関鍛冶は日用刃物の生産やある程度の刀需要によって関鍛冶は続き、関は栄えた。
新たな門出
明治維新後、1876年廃刀令が布告され、刀鍛冶の廃業が相次ぎ、関鍛冶もその例外ではなかった。しかし、少数の刀鍛冶によって伝統が継承されることとなった。1934年になると、関鍛冶が私財によって関市内に日本刀伝習所を設立し、1938年には鍛錬塾を同地に設立した。この伝統の継承が、現代に続く多くの刀匠を育てた。
関刀について