承久の乱
宇治巡検(新歓巡検)
 承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げた兵乱である。承久の変、承久合戦。
 東国政権である鎌倉幕府は、京都の公家政権(治天の君)の軍事部門として位置付けられていたが、承久の乱をきっかけに朝廷権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになる。
 治承・寿永の乱の過程で、鎌倉を本拠に源頼朝ら東国武士を中心に設立された鎌倉幕府では、諸国に守護、地頭を設置し、警察権を掌握していた。1219年(承久元年)、3代将軍源実朝が暗殺される事件が起こり、鎌倉殿の政務は頼朝正室の北条政子が代行した。6月には摂関家の九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を鎌倉殿として迎え将軍を中心とした執権体制となる。
 朝廷では後鳥羽上皇による院政が行われており、後鳥羽は長講堂領、八条院領の2大荘園を支配下に置き、それまでの北面の武士に加えて西面の武士を設置し軍事的強化を行っていた。
 1221年(承久3年)5月14日、後鳥羽は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集め、諸国の御家人、地頭らに北条義時追討の院宣を発する。親幕派の西園寺公経らの公家は拘束、備えとして関所を固め、京都守護伊賀光季は翌15日に滅ぼされた。
 『愚管抄』によれば、鎌倉へ西園寺公経と伊賀光季からの上皇挙兵の報が19日に届くと、北条政子が御家人に対して演説を行い、義時を中心に御家人を結集させる。北条義時、泰時、時房、大江広元、三浦義村、安達景盛らによる軍議が開かれ、箱根・足柄で徹底抗戦をする慎重論に対し、広元は京都への積極的な出撃を主張。政子の裁断で出撃策が決定され、素早く兵を集め、5月22日には北条泰時と北条時房の軍勢を東海道(大将軍泰時、時房ら)、東山道(大将軍武田信光ら)、北陸道(大将軍北条朝時ら)の三方から京へ向けて派遣した。急な派兵であったため、東海道軍は当初18騎で鎌倉を出たが、徐々に兵力を増し、『愚管抄』によれば最終的には19万騎に膨れ上がったとされる。
 6月には幕軍が美濃大井戸を突破して尾張川で宮方を撃破、後鳥羽は比叡山の僧兵らの協力を求めるが、さらに14日には宇治・瀬田において宮方が敗れ、翌15日に幕府軍が入京すると、後鳥羽は義時追討を取り消し、宮方についた御家人藤原秀康、三浦胤義(三浦義村の弟)らの逮捕を命じる。
 7月には首謀者である後鳥羽は隠岐島、順徳上皇は佐渡島、土御門上皇は土佐へそれぞれ配流。後鳥羽皇子の六条宮、冷泉宮はそれぞれ但馬、備前へ配流された。仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈名は明治以降)は廃され、行助法親王の子後堀河天皇が擁立され、後鳥羽の朝廷方の所領約3,000箇所が没収され、行助法親王(後高倉院の称号が贈られる)に与えられた。倒幕計画に参加した上皇方の公卿や後藤基清、佐々木経高、三浦胤義、河野通信、大江親広ら御家人を含む武士が粛清された。
 乱後には総大将の泰時、時房らは京都の六波羅に滞在し、朝廷の監視や御家人の統率を行う。新補地頭が大量に補任され、東国武士団の西国進出が進み、朝廷は京都守護に代り新たに設置された六波羅探題の監視を受けるようになり、皇位決定をも含む公家世界における鎌倉幕府の権力が強大化した。
 承久の乱により、朝廷と幕府の立場は一変した。幕府は朝廷を監視し、時には介入するようになり、朝廷は幕府に憚って国家の大事にも幕府に伺いを立てるようになった。 また、西国で反幕府側の武家の多くの没収地を得、これを戦功があった御家人に大量に給付したため、執権北条氏と御家人との信頼関係が強固になり、鎌倉幕府の開府期に続いて多くの御家人が西国に移り住むこととなり、幕府の支配が畿内にも強く及ぶようになる。

参考資料:日本の歴史