梶井基次郎 :2005.5.14
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丸善京都店が今年9月で閉店になるという新聞記事が少し前に載っていた。
そして、そのタイトルに予想通り「梶井基次郎の『檸檬』」で知られる」ということが
書いてあった。

丸善京都店へそれほど多くの回数は行っていないし、ここ5年くらいは行ったことが
ないように思う。たしか、10年前頃に改装していて、その改装から少し経った平日に
行った記憶がある。エスカレータで上に上がると、非常に静かな空間があって、本を
売っているというよりは、品の良い私設図書館のような雰囲気だった。
最近読んだ記事では、丸善京都店は図書館のような雰囲気だっただけでなく、公立
図書館の分室を同じ建物内に持っていた時期もあったそうだ。そういう歴史があったことも
独特な雰囲気を醸し出させる基にあったのかもしれない。そんな特殊な書店がなくなる
ことはやはり少し寂しい。

僕が最初に丸善京都店に行ったのがいつだったかは覚えていないが、行こうと思った
動機はやはり、梶井基次郎の『檸檬』に出てきたからだった。
そして、『檸檬』を読んだきっかけは、京都の駿台予備校に通っていた時、現国の教材に
梶井基次郎の別の作品があり、先生(川辺先生という名前だったと思う)が梶井の別の
作品である『檸檬』について、およその内容を紹介してくれたことだった。

果物屋で買ったレモンを持って丸善に行く。そして、本を積み上げてその上にレモンを載せた
まま丸善を出る。出た後で、レモンが爆弾だったら丸善は木っ端微塵だと想像する。
大雑把にはこんな筋だが、実際には主人公の心の不安定さ、憂鬱さが記憶に残る作品だ。
数年前にも『檸檬』を読み直したが、先ほどまたざっと読み直してみた。文庫本で10ページ
足らずの量しかない短編で、梶井22歳の時の作品だ。
昨日まで面白く感じていたものが急に冷めて見えたり、昨日までと違う視覚で見ているよう
な気がしたり、非常に神経質な鋭敏さを持ってしまう時があったりという不安定な心象が描
かれている。20歳ごろには僕もこのような感覚を持っていたことがあるような気がする。

でも、40歳を越えた今はそういう感性は失ってしまったようだ。こんな感覚が以前にあったと
思うことはできても、現時点で同じ感覚を持つことはできない。精神的若さを持ち続けたい
といくら望んでも、このような感性を維持することはできない。そのうち、こんな感覚が以前に
あったことすら理解できなくなるのかもしれない。年齢を重ねるというのは寂しいことだと思う。
仕方ないことかもしれないが、丸善がなくなることより、こちらの方が寂しい。

(追記)
考えてみると、川辺先生に教わったことの影響は大きかった。川辺先生に習うまで現国と
いう科目が面白いと思ったことはなかったし理解できたと感じたこともなかった。しかし、
この先生のおかげで、面白さが少しわかったし、試験解答に関しては理解することができた。
それは今思えば、「批判的な読み方をする」ということへの一歩だったように感じる。
ある時、選択肢から解答を選ぶ問題があり、どれを選ぶべきか僕にはよくわからものがあ
った。その時、川辺先生は、「この問題に正解できるかは、半分、勘だ。 そして、残り半分
は運だ」ということを言った。言葉の真意はわからないが、こんなくだらない問題できっこない
ので悩む必要ないと僕は解釈した。そして、この言葉で僕は非常に楽になった。つまり、それ
までは現国の問題を正解できないのは100%自分のせいだと思い込んでいた。でも、実際
には問題が悪い場合だってある。問題に出てくる文章自体が悪い場合だってある。よく考え
れば、例えば、「文章中の代名詞『それ』が何を指すか」という問題が難問であるなんてことは、
そんなわかりにくい文章を書いた人が恥ずべきことであるはずだ。当然のことだけれど、それ
まではそういう捉え方をできなかった。それ以降、問題や文章が悪い可能性があると思って
現国の問題に向かうようになり、少し余裕を持つことができ、それまでより自信を持って文章
を読むことができるようになったように思う。
(大学に入ってから理解できないものが増え、かなりの期間再び自信をなくすが。)