JR脱線事故に関する本質はずれの報道 :2005.5.6
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マスコミは、いったん悪者とレッテルを貼った企業に対しては、本当に報道に値する
案件かどうかという検証も不十分なまま、徹底した非難を続ける。
4月25日に起こったJR宝塚線の脱線事故の報道においても、考察不十分なJR西
日本非難が目立ってきている。マスコミはJR西日本を非難できる材料を探し回り、
事故の原因は会社の体質だという安易な方向に話を持っていこうとしている。
発生した事故に関して重要なことは、事故が起こった原因と再発を防止する対策
のはずであり、報道に関してもこの2点が重視されるべきである。現在行われている
JR西日本批判が事故の発生原因に結びついているなら報道する価値があるだろうし
無関係なら便乗いじめだ。当初、報道された中で、ミスをした運転士に対する日勤教
育の紹介は、事故を誘発する要因になった可能性があるので意味があったと思う。
しかし、ここ数日報道されている2つの出来事、つまり、「脱線した電車に乗り合わせ
ていたJR運転士が救助活動をせず出勤したこと」と「JR西日本天王寺車掌区の社
員が事故当日にボウリング大会を催したこと」は本質から外れ、JR西日本を批判した
いという大衆の感情に迎合した報道になってしまっている。

一つ目の運転士の件だが、運転士は別に業務中だったわけではなく、通勤中だった
ようだ。つまり、他の乗客と同じ立場で乗車していたことになる。そういう状態では、
運転士はJR社員としてでなく、一般市民と考えるのが適当ではないのか。
そして、そのような状態の人間の行動を社会が非難する資格があるのだろうか。
運転士(および連絡を取った上司)が出勤して仕事をすることを選択した。そこには
人の命より自分の仕事を優先させるのかという一見正しそうな批判があるが、それは
JR運転士だからかどうかはあまり関係のないことではないのだろうか。また、このこと
自体は事故の発生原因とは関係ないし、事故に関係するJR西日本の体質を表している
と考えるのもかなり強引だ。さらに、この行動がそれほど酷い行動だったのかという点も
よく考えなくてはいけない。非難するには感情だけではなく、それなりの理屈がなければ
ならない。望ましくないという程度で新聞一面に記載することは許されないことだと私は思う。
一方で、事故を聞きつけて報道関係者が集まってくる。しかし、彼らは救助活動はしない。
自分たちの仕事を優先させるわけだ。なぜ、マスコミが自分たちの仕事を優先させることが
許されて、運転士は自分の仕事のために出勤して非難されなければならないのだろうか。

同じ電車に乗り合わせた人の中には、救助活動を行った人が少なからずいた。その
人々の行いは賞賛に値するものだと思う。しかし、一方で同乗していた人の中に、いろ
いろな理由で救助活動をしなかった人がたくさんいたはずだ。呆然と事故現場に立
ち尽くし、救助活動を遠くから眺め、そのまま立ち去った人たちがいるはずだ。その
中には、すぐに救助活動に向かうべきだったと後悔し心が傷ついている人もいるだ
ろう。その人たちに対して、マスコミを中心とした社会が責任を問えるだろうか。
ひとり一人の人間が取った行動を、そんなに安易に非難すべきではない。

2つ目のボウリング大会の件も、あまりに感情的過ぎる。この大会が行われたことと
事故の発生とは全く関係ない。事故が発生したら、おとなしく反省しているふりでも
していろと言わんばかりの非難に見えて仕方ない。もちろん、被害者やその家族から見たら
怒りたくもなるだろう。しかし、報道とは、そのような怒りを無意味なところに向けることでは
ないはずだ。あくまで、後の検証に耐えうるような視点を失ってはいけない。