中国 :2010.4.7
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 「党と国家」(西村成雄、国分良成:岩波書店)より)

第1章  (清の末期〜1928年)
 1901年 辛丑(シンチュウ)和約:北京議定書
        義和団の乱後の議定書・・・外国軍隊駐留、賠償金
 1904年 日露戦争 →清朝社会に大きな衝撃
        日本の勝利の理由を、立憲と専制の違いと捉えた
 1905年 「中国同盟会」(総理は孫文) 東京で結成 ・・・政党の起源
 1907年 「政聞社」 東京で組織 ・・・清朝体制の政党
 1908年 欽定憲法大綱を公布 ・・・明治憲法をモデル
        1916年に憲法公布、上下議院選挙実施とした。
 1909年 諮議局選挙 ・・・地方議会ではなく諮問に答える組織
 1910年 16省の諮議局が1年以内の国会開設を請願
        →清廷は議院開設を1913年に繰り上げると表明
 1911年 18省のうち14省が清朝から独立
        孫文 臨時大総統に選出 ・・・中華民国の体制創設
       清朝 袁世凱を内閣総理大臣に任命
 1912年2月 清朝 宣統帝溥儀退位 ・・・辛亥革命
      3月 袁世凱 臨時大総統に就任 ・・・中華民国北京政府
         中華民国臨時約法制定
 1913年 第1期国会選挙 ・・・未だ政党政治は機能していない
        国民党 衆参で約半数
 1916年 袁世凱死去
 1917年 孫文 広州政府
 1918年 第2期国会選挙
 1919年 孫文 中国国民党
 1922年 中華民国憲法
 1924年 中国国民党第1次全国代表大会 
        ・・・中国共産党との統一戦線
 1925年 孫文死去
 1926年 中国国民党第2次全国代表大会
        ・・・農民運動決議
       蒋介石を司令とする北伐軍
 1927年 国民政府 南京に移る。共産党との統一戦線破棄
 1928年 第2次北伐。南京国民政府
       国民党政府はロシア革命の政治的影響を受けていた。

(第2章)
・孫文 1924年の記述
  欧米の代議政体は中国に移植できない。
  ロシアの人民独裁の政体は、代議政体と比べて改善されている。
  党を国家の上に置く必要性を強調
  軍政、訓政、憲政の3段階論
・1931年 中華民国訓政時期約法 ・・・蒋介石主導の訓政体制
      蒋介石に権力集中と同時に憲政を求める力も無視できず
・1936年 中華民国憲法草案公布(五五憲章と呼ぶ)
      国民大会組織法、国民大会代表選挙法も公布
      ・・・男女平等選挙権の導入
      →1937年実施予定だったが、盧溝橋事件で延期
・国民党組織
  1929年から1937年の間に、軍人党員30万人から101万人に増加
  党員総数の61%を占める。
  農村部での国民党組織率はきわめて低い
・国民党が国家を統治する「以党治国論」が政治制度化された起源は
 1925年の「中華民国国民政府組織法」
 1931年の「中華民国訓政時期約法」により国家レベルで規範化
・1938年3月 中国国民党臨時全国代表大会
・1938年7月 国民参政会大会・・・議会ではない
         憲政運動という政治的潮流の方向性を明確にした。
・1943年頃 国際的にも憲政への道筋を具体化せざるを得ない状況
・1944年 国民参政会大会 :連立政府樹立を提起
      蒋介石は拒否

(第3章)
・1943年11月 カイロ会談・・・米英ソと並ぶ4強国となる
  米英との不平等条約撤廃、新条約調印
  米上下院が「中国人排斥法(1882年)」廃止
 ⇒中国の国際的地位の向上
 ⇒アメリカの介入、一党訓政を民主化要求
・1945年2月 米英ソによるヤルタ会談
・1945年4月 中国共産党第7次全国代表大会
    国民党一党専政廃止、民主的連合政府樹立を提起
 第三政治勢力(中国青年党など)の社会的影響力も吸収
・1945年8月〜10月(43日間) 毛沢東と蒋介石の会談(重慶)
  「政府と中共代表会談紀要(双十協定)」
 →政治協商会議開催による、政府と他党派との政治的交渉の場の創出
・1945年12月 トルーマン大統領声明 「強大で統一された民主主義の中国を期待」
 →国共軍事調停案合意 (1946年1月東北地域を除いた停戦協定実施)
・1946年1月 政治協商会議
・1946年3月 蒋介石 国民参政会だけが全国最高の民意機関とし、
         政治協商会議の政治的役割を否定
・1946年半ば以降 内戦
・1946年11月 国民党 憲法制定国民大会
  1947年末国民代表選挙。約半数の22省市で実施できず
  →憲政を準備する選挙実施が、政治的支配の正統性を掘り崩す結果となった。
・1948年5月 中国共産党のメーデー・スローガン
   
「政治協商会議開催、人民代表大会召集、民主連合政府樹立」
・1948年8月 国民政府軍365万人、人民解放軍280万人
   (1946年半ば 国民政府軍430万人、人民解放軍127万人)
1949年1月 軍事力バランスは逆転
    蒋介石 中華民国総統を辞任、国民党総裁はそのまま
    (1949年12月 蒋介石 台湾へ)
・1949年9月 中国人民政治協商会議第一期全体会議開催
    中国共産党員44%、各民主党派30%、労働者農民と無党派26%

(第4章)
1949年10月 毛沢東 中華人民共和国成立を宣言
    毛沢東の当初の考え
     新民主主義(中国版資本主義革命)を実現後、社会主義革命に移る。
    →数年後、建国を新民主主義から社会主義革命への転換と捉える考えに変わる。
・1950年2月 中ソ友好同盟相互援助条約が締結
     ソ連への全面傾斜
・1952年11月 国家計画委員会 :共産党の絶対的指導
・1953年 党が一元的に国家幹部の人事を管理(現在まで続いている)
       中央政府の活動は党中央の批准が必要になる。
      →連合政府は形骸化
・1954年9月 中華人民共和国憲法制定
    立法機関としての全国人民代表大会(全人代)
    言論・出版・集会の自由、宗教と信教の自由の条項あり
・1956年 社会主義体制に突入
    農業集団化
・1957年 民主諸党派の国家・政府官僚の不満
    →毛沢東による反右派闘争。弾圧
    →言論の自由の可能性喪失、共産党一党独裁強化
      連合政府の挫折、党国体制の確立
    毛沢東による非科学的政策
      土法高炉・・・農家の裏庭等に伝統的工法の高炉を作って鉄鋼生産
      深耕密植・・・深く耕し密に植えて生産倍増を狙う
    →自然災害も加わり、餓死者2000万人から4000万人
1958年8月 党幹部の彭徳懐による意見書
    →毛沢東激怒。党内においても毛沢東批判はタブーに。個人独裁強化
・1958年12月 毛沢東国家主席を劉少奇に譲り、党務に専念
・1959年3月 チベット動乱(ダライ・ラマ インド亡命)
・1960年 劉少奇とケ小平による経済調整政策(経済立て直し)
    各農家で私的に使用できる農地(自留地)と作物売買の自由市場を認める
    →1962年経済急速に回復
・1964年 江青 政治に奉仕する京劇を推奨。文化の衣を借りた権力闘争本格化
1965年 毛沢東「資本主義の道を歩む実権派を粛清」を明言。文化大革命の始まり
・1966年8月 劉少奇の序列が第2位から第8位に転落
    紅衛兵運動;実権派を批判大会で攻撃・罵倒
・1967年 林彪 ナンバー2
・1968年 劉少奇 永久追放
・1970年 林彪による毛沢東暗殺計画発覚。国外脱出中に墜落死
・1971年7月 キッシンジャー隠密訪中、ニクソン大統領の訪中計画について合意
・1972年2月 ニクソン大統領訪中
・1972年9月 田中角栄 対中国交樹立
・1973年 共産党10全大会 周恩来 党組織の健全化や生産活動の重要性を主張
    文革で失脚した旧幹部の復活(ケ小平副首相)
    江青ら4人組の政治キャンペーン・・・運動広がらず
・1975年 第4期全人代 
・1976年1月 周恩来死去
     2月 華国鋒総理代行に
     4月 天安門広場で北京市民による周恩来追悼→北京市当局による阻止
        (毛沢東、4人組、華国鋒の判断)
        →中央政治局 ケ小平の全ての職務を解任、
          華国鋒を国務院総理と党第1副主席に任命(毛沢東の後継者に)
     9月 毛沢東死去
     10月 4人組逮捕
         華国鋒 共産党主席、党中央軍事委員会主席にも就任(党・政府・軍を掌握)
         (継続革命の維持と、その中心としての生産活動を主張)
・1977年7月 ケ小平 正式に復活
       
(第5章)
・1978年12月 中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議 「歴史の転換」と称される
     革命から4つの近代化建設への重点移行
     文革で失脚した旧幹部の名誉回復
     一方で民主化要求の動きを封じる
・1980年 党と国家の指導体制の改革。幹部の終身制批判、任期制、定年制
・1980年8月 第5期全人代第3回会議:華国鋒 国務院総理辞任、趙紫陽が就任
      (華国鋒 失墜)
・1981年6月 党第11期6中全会:華国鋒 党主席辞任、胡耀邦が就任
     毛沢東の晩年の誤りを公に認める。ただし、党国体制には踏み込まず。
・1982年9月 党第12回全国大会
     党主席ポスト廃止。党最高ポストの総書記に胡耀邦が就任
     ケ小平は党中央顧問委員会主任となり、院政を敷く
・1982年12月 第5期全人代第5回会議:54年の憲法に代わる新憲法公布
     要職に任期制を導入。終身制を廃止。
     国家主席ポスト復活
・1982年 経済体制改革本格化
     農村での生産責任制・・・一定量を上納すればあとは自由市場で売買可。
     企業管理自主権・・・一定量上納すれば自主的裁量での経営可能。
・1984年 対外開放進む。沿海14都市を経済技術開発区
・1986年11月 民主化を求める学生運動 ・・・弾圧される
・1987年1月 胡耀邦総書記解任、趙紫陽総書記代行就任
・1987年11月 党第13回全国代表大会
     趙紫陽 政治体制改革を主要議題として上程
     経済改革を前進させるために必要な政治改革に限定
     党政分離・・・難航
・1988年春 李鵬国務院総理就任
・1989年4月 胡耀邦死去
     学生が名誉回復を求めてデモ
・1989年5月 ハンスト学生を趙紫陽が見舞う。
         北京市に戒厳令
・1989年6月 天安門事件
     趙紫陽 総書記解任、江沢民就任
・1992年 ケ小平による談話「南巡講話」
     全ての政策は「生産力の発展に有利かどうか」を判断基準とする
     先富論:一部の地域での生産力拡大集中が、やがて後背地域に発展をもたらす
・1992年 党第14回全国代表大会 :江沢民が仕切る
     「社会主義市場経済」の概念導入
     公有制の維持と共産党指導の堅持
・1993年 第8期全人代第1回会議
     江沢民が国家主席就任、李鵬が国務院総理に再選
     憲法改正・・・計画経済の文言消える。
     江沢民路線はケ小平路線の継承・発展
     (市場経済を進める一方で、共産党指導強化)
・1997年 ケ小平死去
・1998年 国務院総理に朱鎔基が就任・・・徹底した経済改革
・2000年 「三つの代表」:共産党が広範な人民を代表する
      共産党の「ブルジョア」政党化
・2001年 WTOに正式加盟
・2002年 江沢民総書記の任期終了。胡錦濤が総書記に就任
・2003年 胡錦濤が国家主席に就任、国務院総理に温家宝。
     成長一辺倒路線の見直し
     「科学的発展観」:人を基本として持続可能な発展を目指す
     「和諧社会建設」:貧困対策など格差縮小のための再分配政策

中国共産党全国代表大会
開催年月 指導者 内容
一全大会 1921年7月
二全大会 1922年7月
三全大会 1923年6月
四全大会 1925年1月
五全大会 1927年4-5月
六全大会 1928年6-7月
七全大会 1945年4-6月 毛沢東
八全大会 1956年9月
九全大会 1969年4月
十全大会 1973年8月
十一全大会 1977年8月 華国鋒
十二全大会 1982年9月 胡耀邦
十三全大会 1987年10-11月 趙紫陽
十四全大会 1992年10月 江沢民
十五全大会 1997年9月
十六全大会 2002年11月 胡錦濤
十七全大会 2007年10月