人道的介入 :2007.10.1
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 「人道的介入」(最上敏樹:岩波新書)より)

 ・(狭義の人道的介入)人権侵害や非人道的状況を中止させるためという理由が
   あれば、個別国家の独断による武力行使は許容できるか、という問題
   (広義の人道的介入)国連が行なう、安保理の承認を得て行なう、武力行使なしに
   行なう、を含める。
  ・1971年3月から12月の間に、東パキスタン(後のバングラデシュ)で約100万人の
   ベンガル人がパキスタン政府に虐殺された。
   国際社会は武力介入が議論の余地なく違法だと言って済ますことができるか、という
   課題に向き合わねばならなくなった。
  ・人道的介入のうさん臭い事例
     1938年から39年にナチスドイツが行なったズデーテン地方併合
      (ドイツ系住民が抑圧されているとして軍事介入)
     1983年の米国によるグレナダ侵攻
      (在外自国民保護のためと理由付けたが、共産主義影響力拡大防止が狙い)
  ・難しい事例
     1971年 東パキスタンへのインドの武力介入
       東パキスタンがバングラデシュとして独立したことに対してパキスタン軍が
       100万人を殺害、1000万人が難民化しインドに逃れた。
       パキスタン軍がインドの空港を攻撃したことを発端にインドが大規模な攻撃を
       行なった。12日間の攻撃でパキスタンに壊滅的打撃を与えた。
       (インドの行為は国連では支持されなかった。非難もなかった。)
     1978年 ベトナムのカンボジアへの介入
       カンボジアのポル・ポト派が反対派を弾圧(犠牲者100~200万人)。
       これに対して、ベトナムが攻撃。ポル・ポト政権を首都プノンペンから追放。
     1979年 タンザニアによるウガンダへの介入
       ウガンダのアミン大統領による独裁政治のもとで、30万人虐殺。
       ウガンダ軍がタンザニアに侵攻したことが引き金となり、タンザニアが軍事
       侵攻し、アミン政権が倒れた。
       (国連では審議なし)
  ・人道的介入が行われなかった事例
     スハルト時代のインドネシアにおける左翼弾圧(犠牲者30~40万人)
     ナイジェリア内戦(ビアフラ分離独立運動:1967年)
     チェチェン紛争、パレスチナ紛争、チベット人権侵害
  ・ソマリア・・・・国連による介入例①
     1991年 全土が内戦状態に。飢餓で35万人死亡
     1992年 国連の仲裁で停戦
           平和維持活動として、第1次国連ソマリア活動(UNOSOM・Ⅰ)設置
           統合機動部隊(UNITAF)という兵力部隊を設置。武力行使容認。
     1993年 第2次国連ソマリア活動(UNOSOM・Ⅱ)設置。
           平和維持活動から強制行動に。
           国連平和維持軍と現地武装勢力の戦争のような様相になった。
     1994年 安保理はUNOSOM・Ⅱから強制行動型の手段を剥奪。
           →国連による人道的介入は失敗
     失敗の原因は「過剰」。必要以上の介入を行なった。
  ・ルワンダ・・・・国連による介入例②
     1990年 隣国ウガンダに逃避していたツチ族の集団がルワンダに侵攻。
           内戦状態に。
     1993年 和平協定締結
           国連平和維持活動展開。
           国連ウガンダ・ルワンダ監視団と国連ルワンダ支援団
     1994年 内戦激化。民間人も加わった虐殺が起こる。
     (人口構成 フツ族:85% ツチ族:14%)
     安保理に重視されていなかった。失敗の原因は「過少」
  ・旧ユーゴ
     1990年 旧ユーゴ共産党解体
     1991年 クロアチアとスロヴェニアが独立
     1992年 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ独立
       それぞれの中で武力紛争が起きた。
     1995年 一応の和平合意
         国連平和維持軍 史上最大約4万人
     1995年 ボスニアのセルビア人勢力によるモスレム人に対する激しい攻撃
           スレブレニッツァでの虐殺(7000人)
           NATOによる大規模空爆で収まる。
     アナン事務総長の告白
      →過ちの根源は「中立性と非暴力性」という国連の基本理念の中にある。
        この理念はボスニア紛争の場合にはまったく不適切。
  ・コソボ
     1999年 NATO軍が新ユーゴスラビアへの空爆を開始(78日間)
          (ユーゴ連邦軍とセルビア治安部隊がアルバニア系住民を虐殺)