サウジアラビア :2006.1.15
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「サウジアラビア」(保坂修司:岩波新書)より

・夜にぎわうショッピングモール→昼は閉まっていて人の姿なし
 1日5回の礼拝時には工場・店すべて営業中止
 営業していたら勧善懲悪委員会(宗教警察)による取締り
・上記の2面性がサウジの特徴

[サウジアラビアの成り立ち]
・18世紀 ムハンマド・ビン・アブドゥルワッハーブが唯一神信仰とイスラム純化を主張
       宗教改革運動が、豪族ムハンマド・ビン・スウード(サウード家の祖先)の政治力と
       結びつく → 第1次サウード王朝(ワッハーブ王国)
       オスマン朝はこの運動を鎮圧。第2次王朝として復活するが瓦解
・1902 サウード家アブドゥルアジーズによるリヤード奪還(第3次サウード王朝)
・1932 サウジアラビア王国と名を変える
・1933 アブドゥルアジーズが米国石油会社スタンダードオイル社と石油利権協定結ぶ
・1938 商業ベースの油田が初めて発見される・・・アラムコ創設(米国会社)
・1939 第2次世界大戦。石油生産停止によりサウジ財政難→米国関与強める
・1945 アブドゥルアジーズとルーズベルト大統領の会見・・・緊密化の象徴
・1953 アブドゥルアジーズ死去。息子サウードが継ぐ
・1960 OPEC(石油輸出機構)創設。石油価格決定権をメジャーから奪う
・1964 サウード廃位、異母弟フェイサルが第3代国王・・・宮廷クーデタ
     (背景に第2次中東戦争等の動乱や国庫危機がある)
・1973 第4次中東戦争 石油戦略により、産油国から石油大国に
・1975 フェイサル国王暗殺。弟ハーリドが第4代国王に。
     (暗殺の背景に、急速な近代化による反発あり)
・1982 ハーリド国王死去。ファハド第5代国王
・1988 アラムコ国営化(サウジの石油は国有化された)
・2005 ファハド国王死去。アブダッラー第6代国王

[サウジ体制]
・サウジでは首相や主要閣僚は王族。王朝型君主制(クウェート、バーレーンも同じ)
 王族が閣僚になれる体制の国は、ヨルダン、モロッコ、オマーン、アラブ首長国連邦)
 王族が閣僚になれない国は革命で打倒された。(アフガン、エジプト、イラン、イラク、リビア)
・王族は約2万人。一夫多妻。例えば、初代国王アブドゥルアジーズの妻は16人
・サウード家は政府だけでなく、民間部門でも大きな役割。メディアも支配
・民間でも王族の口利き重要。商行為の一環とみなすサウジ人も多い。
・1992年に統治基本法制定 三権分立がうたわれているが三権の源泉は国王になっており
 国王の制限規定はない。しかし国王が兼ねる閣僚会議議長としての規制はある。
・国家主導の雨乞いの礼拝がある。国王は政治の王であるとともに、祭祀王でもある。
・王位継承の明確なルールはない。年長者が優位の傾向があり兄弟に継承することが多い
 このため、最近は継承した人も高齢で、子供の世代にいつ移るかが注目される。

[経済]
・石油部門が占める割合 :輸出の90%、歳入の80%、GDPの40%
・サウジ・アラムコ(国営)の収益が国庫に入り、歳入の大半をまかなう。
・個人の所得税はない。教育費、医療費も無料。生活基礎物資には補助金
 → 度を越した福祉政策になっている。
・サウジの石油生産コストは非常に低い。1バレル1.5ドル以下(世界平均5ドル)
・1990年代以降の石油価格は市況で決まっている。
・意外にも農業国で穀物生産が盛ん。・・・政府の補助金の影響がある。
・人口2267万人(2004年)。うち外国人614万人・・非常に多い
 1970年代初めは600万人だったので、30年で約4倍に急増している。
 理由は出生率が高いこと。(1970年代前半7.5人。2000年代前半4.5人)
・1人あたりのGDPは1980年代初めがピークで、現在はピークの60%くらい
 伸びずに減少した理由は、人口増。(GDP自体は増えている)
 1人あたりのGNI(国民総所得)は世界57位(2003年)・・・意外に下位
・失業問題がある。失業率が公表されていないが、サウジ人の失業率は8%程度?
 また、20代前半の失業率は28%くらいと非常に高い。
 従来、管理職=サウジ人、非管理職=外国人という図式が成り立っていたが、経済成長の
 鈍化と人口増によりこの図式が成り立たなくなった。しかし、サウジ人の職業意識とスキルの
 問題により、サウジ人の職業の幅が広がっていない。

[教育]
・サウジの教育制度は6・3・3・4制。授業料、教科書は公立学校無料
 ただし、義務教育でなく、小学校入学率は80%弱。
・小学校の授業時間の1/3が宗教教育。中学・高校でも1/4を占める。
・サウジの識字率は低く、77%(2000年)
・急激な人口増加に学校建設や教員養成が追いついていない状況。
 また、中途退学者も多い
・教育内容に異教徒敵視(シーア派も排除)の考えが強い。
・現状否定と復古主義。他者への不寛容と攻撃性
・上記のような教育が固定したのは、1980年代。・・・その頃の情勢を反映した。
  @マッカ占拠事件(1979年)・・・事件の中核に体制支えるスンニー派
    →鎮圧後、犯行Grに近い宗教色のイデオロギーを容認
  Aソ連、アフガン戦争(1979年)
    →若者に生きがい、死にがいを与える。ジハード
    →戦後、英雄になれず、別の戦地を求めるものも多数いた
  B湾岸戦争(1990年) 米軍のサウジ駐留
    →宗教の闇の部分を顕在化
  ⇒「大量の宗教系学生」*「過激なイデオロギー」*「アフガン軍事訓練」*「不満」

[サウジの変化]
・サウジで大きな変革の発表がある時は、米国の支持を必要とする時。
 ただ、内部からの改革のうねりもある。
・1990年 リベラル派の建白書。
 (議会がなく、メディアも規制されているので、建白書の提出という形で意見が出される。)
・1991年 保守派の建白書
 リベラル派からも保守派からも建白書が出され、双方からの改革要求運動が出始める
・1994年 ブレイダ事件・・外交政策を批判する2人の宗教家逮捕
 →改革要求運動が終焉。1995年以降のテロ増加につながる
・2001年 9・11事件 ・・・犯人19人中、サウジ出身が15人。ビンラディンもサウジ人
 →米国議会やメディアにより、サウジが米国の敵と位置付けられた。(政府は異なる)
 以降、改革の動きと、反動的な動きの両方で揺れながら、徐々に変革が進もうとしている。