子どもの教育 :2004.11.13
戻る
私の上の子供は小学校3年生です。たくさん遊んでのびのびと育っていって
欲しいと思っています。
でも、同時に、いろいろな能力を身につけて欲しいとも望んでいます。この能力には
一般的な勉強も運動や音楽も含んでいます。どこに重点を置くのか、子供自身に任せるのか
どこかに習いに行かせるのかといった点で、今後、悩んでいくことになるだろうと思います。
そういうことを考える時、思い出すようにしている文章があります。最近、その部分を読み
直してみていいことが書いてあることを再確認しました。少し長く、似たことの繰り返しも
ありますが引用します。
「不確実な未来のために現在を犠牲にする残酷な教育をどう考えたらいいのか。子どもに
あらゆる束縛をくわえ、遠い将来におそらくは子どもが楽しむこともできない、わけのわからない
幸福というものを準備するために、まず子どもをみじめな者にする、そういう教育をどう考えたら
いいのか。たとえ、そういう教育が目的においては道理にかなったものだとしても、たえがたい
束縛を受け、徒刑囚のように、たえず苦しい勉強をさせられ、しかも、そうした苦労がいつか有益に
なるという保証もない、かわいそうな子どもを見て、どうして憤慨せずにいられよう。快活な時代は
涙とこらしめとおどかしと奴隷状態のうちにすごされる。あわれな者は、自分のためだといって
苦しめられる。人々には、かれらが招きよせている死が、そうしたみじめな状態にある子どもに
やがておそいかかろうとしている死が見えないのだ。父親あるいは教師の不条理な知恵の犠牲と
なって死んだ子どもはどれほどあるかわからない。かれらが子どもにあたえた苦しみから得られる
ただ一つの利益は、子どもがかれらの残酷な知恵からのがれられるのをしあわせと考えて、苦しみ
しか知ることができなかった人生を、名残り惜しいとも思わずに死んでいけることだ。
人間よ、人間的であれ。それがあなたがたの第一の義務だ。あらゆる階級の人に対して、あらゆる
年齢の人に対して、人間に無縁でないすべてのものに対して、人間的であれ。人間愛のないところに
あなたがたにとってどんな知恵があるのか。子どもを愛するがいい。子どもの遊びを、楽しみを、その
好ましい本能を、好意をもって見守るのだ。口もとにはたえず微笑がただよい、いつもなごやかな心を
失わないあの年頃を、ときに名残り惜しく思い返さない者があろうか。どうしてあなたがたは、あの
純真な幼い者たちがたちまちに過ぎ去る短い時を楽しむことを妨げ、彼らが無駄に使うはずがない
貴重な財産を使うのを妨げようとするのか。あなたがたにとって再び帰ってこない時代、子どもたちに
とっても二度とない時代、すぐに終わってしまうあの最初の時代を、なぜ、にがく苦しいことでいっぱいに
しようとするのか。父親たちよ、死があなたがたの子どもを待ち構えている時を、あなたがたは知って
いるのか。自然がかれらにあたえている短い時をうばいさって、あとで悔やむようなことをしてはならない。
子どもが生きる喜びを感じることができるようになったら、できるだけ人生を楽しませるがいい。いつ神に
呼ばれても、人生を味わうことなく死んでいくことにならないようにするがいい。」
(ルソー 「エミール」より )
エミールは1750年台に書かれていますので、小さくして亡くなる子どもが多かったことが背景に
あったのかもしれませんが、基本的には、今でも通用する見方だと考えています。